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政治 アーカイブ

2000年01月13日

大統領選挙で何が起きたのか?!

みなさんも2000年の大統領選挙での大騒ぎのことはご存じだろう。あの騒ぎが起きている最中、なんとアメリカはユーゴスラヴィアに「選挙監視団」を送っていたから大変である。これは一見笑える事態だが、実のところ笑える話ではない。なぜならそこに賭されているのは人権だからだ。

この騒動は、結局、事実上大統領選挙当選者を連邦最高裁が選ぶというとんでもないことになった。ここで法理論・憲法理論をこね回す必要はない。はっきりしていることは一つ。アメリカの主権は人民にあるのではなく、連邦最高裁にある、ということだ。民主主義とは何も難しいものではない。フェアな手続き、これこそが根幹であり、すべてはこれを基礎に判断されねばならない。ならば、投じられた票が、機械が古くて数えられない、そのうえなお2度目のカウントは行ってはならない、これがフェアな手続きを踏んでいると言えるのか。ユーゴスラヴィアに「監視団」なるものを送る余裕があるのならば、フロリダに「監視団」を送るべきだ。ミロシェビッチの首を狙って爆弾を落とし、その結果、セルビア人の虐殺に は何の関係もない市民を巻き添えにするというまずい軍事作戦をとるくらいならば、フェアな手続きを保証しようとしないフロリダ州知事、ジェブ・ブッシュの首をはねろ。(ちなみに、はっきりしておく、ジェブ・ブッシュは、今回の選挙の「勝者」、ジョージ・ブッシュ・ジュニアの弟である)。

連邦最高裁はこれまでもとんでもない判決を何度も出してきた。その多くが、そう、〈人種〉が関係した問題である。その過去のアホな判決に興味のある人は、ここをクリックしてもらいたい。ここでは今回の判決がどれだけアホなのかを簡単に纏める。

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2000年04月24日

Free, Al-Amin, Free!?

1.「60年代の黒人過激派逮捕」

1960年4月、ノース・カロライナ州グリーンズボロで黒人学生の4名が人種隔離されていたランチカウンターの白人専用席に坐り込んだ。この運動はすぐさま南部各地に飛び火し、同月中旬には南部だけで5万人が参加する大規模な黒人学生の自発的運動に成長していった。この学生たちの運動を一時だけの興奮に終わらぬようにと考えた黒人女性活動家のエラ・ベイカーは、同州の州都ラリーにある黒人大学、ショー大学で坐り込みに参加したもの、さらには将来運動に参加するのあるものを集めた集会を開いた。その集会の中から学生非暴力調整委員会(The Student Nonviolent Coordinating Committee, SNCCと略し"Snick"と発音する)が結成される。同団体は1965年の投票権法制定までは南部を拠点とした非暴力直接行動に従事し、その後1966年のロサンゼルス、ワッツ地区の大暴動が発生すると、運動の焦点を北部都市に移動、その過程で黒人のその後の運動にとてつもない影響を与えたスローガン、「ブラック・パワー」を唱えた。つねに公民権諸団体のもっともラディカルな声を代弁していたSNCCはよく「公民権運動の突撃隊」と呼ばれる。

しかしながら60年代中葉から黒人の運動は深刻な分裂状態に陥っていった。その理由には、(1)公民権法ならびに投票権法制定後の運動の明確な目標の欠如、(2)「ブラック・パワー」のスローガンをめぐる公民権諸団体の意見の食い違いが原因であった。この分裂状況をさらに悪化させたのが、連邦捜査局(FBI)による反政府団体の弾圧作戦、COINTELPROである。

COINTELPROによる弾圧の結果、SNCCは結局破壊されることになった。SNCCは「ブラック・パワー」の路線を明確にする一方、第3世界との連帯を訴えた。第3世界、その中には当時アメリカと壮絶な戦争を繰り広げていた北ベトナム、および南ベトナム解放戦線が含まれる。1971年5月10日、SNCCにスパイを送り込み、厳しい監視の下においていたFBIは、その報告書のなかで「過去一年間、SNCCはいかなる破壊活動にも従事していない」と判断する。しかしこれはSNCCが「反体制団体ではなくなった」とFBIが認めたのではなく、「もはや運動を組織する能力はない」と判断したことを意味していた。

1960年に誕生し、1971年に消え去る。この点においてSNCCは60年代プロパーな運動を表象するものである。概して歴史家は「ブラック・パワー」以前のSNCCに好意的な評価をし、「ブラック・パワー」以後のそれに対しては曖昧な、または否定的な評価を下している。

そのSNCCが2000年4月16日、結成の場所ショー大学で結成40年を記念し、SNCCの正と負の遺産を再評価、今後の黒人の運動の進むべき方向を語り合う非公式のセッションを開催すると発表した。しかしそのセッションには、アトランタで起きた事件が強い影を落としていた。

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2002年05月01日

アル=アミン事件(灰色の警官殺人事件)続報

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アル=アミン導師の警官殺害の廉での裁判は、ジョージア州司法省が死刑の求刑を決定したため、現在陪審員の決定が慎重になされている時点にある。ジョージア州法は、死刑求刑裁判には陪審員の決定に際し、とくに厳しい審査を要求しているからだ。

これまでアル=アミン導師の弁護団は、わたしが最初のエッセイにて指摘した警察発表の矛盾点に加え、銃弾で負傷した警官が犯人の目の色は青色だったと証言していることを、アル=アミン無罪の根拠としている。なぜならば、アル=アミン導師の目の色はブラウンだからだ。弁護団はあくまでもアル=アミンの無罪を主張し、司法当局との法廷外交渉を拒否、裁判で闘争う意志を表明している。実際の公判が始まれば(今年春の予定)、そのつどこのサイトで報道していきたい…。

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2003年04月27日

なぜ反戦か ?

まず、わかりやすさを優先し、わたしが反戦の根拠を箇条書きに明示する。

(1)まずは何より、テロを支援する「無法者国家」に対する「先制攻撃」、いわゆるブッシュ・ドクトリンは、ウェストファリア条約以後、数世紀にわたって存在した国際社会の秩序を破壊するものである。
(2)アメリカは、フセイン政権がアメリカにとって脅威であることを証明できなかった。4月27日現在、「大量殺戮兵器」は見つかっていない。
(3)「テロとの戦争」に勝とうと思えば、「戦争」は比喩として捉えなくてはならない。軍事力の行使は、将来のテロリズムの頻発の可能性を高めることにしかならない。この事情は、パレスティナのイスラエル占領地のことを考えれば、国際法や心理学の知識は必要ない、誰にでもわかる。

ここで断っておきたいことがある。わたしは、いかなる場合においても戦争はいけないものだ、というナイーヴな平和主義を信奉するものではない。戦争が必要とされるときはある。しかし何だ、これだけか、これならもうテレビでずいぶん他のひとが「解説」した、と思われる方も多いだろう。わたし自身、以上の理由が、同じ理由を語っていたものたちのそれと、内実が大きく異なるのかというと、そうではないと思う。ならば、以下では、「バグダッド陥落」後、米英の「勝利宣言」なし、という情況下において、それでも反戦を主張することの意義を示したい。

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2004年06月14日

レーガン国葬

なぜか日本でもアメリカでもレーガンの葬儀に際し、彼を「持ち上げる」論調の報道が続いた。サダム・フセインに大量殺戮併記を売ったのは彼の政権のときであり、アメリカ経済を悩ませた「双子の赤字」は彼の時代に最大になっていた、等々といったことを指摘するのも少数に留まっていた。

先週末、スティーヴィー・ワンダーのコンサートなど、中止に追い込まれてものものある。いわばアメリカに住むもの全員が「喪に服す」ことを要求されていたようだ。

しかし、黒人向けのメディアは、彼が為したことを忘れてはいない。彼は、とにもかくにも、公民権運動家3名が殺害された街として有名なミシシッピ州フィラデルフィアーー映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった事件、なおFBIの大活躍を描いた同映画には、実際にFBIは死体捜索以外何もしなかったことを鑑み、当時の運動家から激しい批判が浴びせられたーーで大統領選遊説活動を開始した人間だ。しかも、それがどのような意味を持つのかをはっきりと意識しながら(黒人は共和党にとって必要ないということ)。

また「福祉の女王」Welfare Queenということばを創り、人種主義者と批判されるのを避けつつ、遠回りに黒人批判を行ったのも彼が最初である。

2004年06月15日

アファーマティヴ・アクションの新展開

大方の期待を反して、連邦最高裁判所が、ミシガン大学法科大学院のアファーマティヴ・アクションを採用した入試基準を合憲と判断してから1年が経過した。

今度は、この裁判で敗訴した Michicagn Civil Rights Initiave が、住民投票によって州立大学のアファーマティヴ・アクションを禁止しようとしている。そして、6月13日、ミシガン州控訴裁判所は、この住民投票が今年の選挙で住民の判断をあおぐことにことになることを正式に許可した。

この動きの中心人物が、カリフォルニア州の黒人実業家ウォード・コナリー(拙訳『アメリカ、自由の名のもとに」にも登場)。

黒人がアファーマティヴ・アクションに反対していること、そしてまた、ミシガン州の団体が Civil Rights を掲げてそうしていること、これは70年代以後のブラック・コミュニティの変化を物語っている。

もはや60年代までのブラック・コミュニティはアメリカには存在しない。

出典:『ニューヨーク・タイムズ』

2004年06月17日

大統領選挙世論調査

『ワシントン・ポスト』紙とABC放送の合同世論調査によると、黒人のあいだでのジョージ・W・ブッシュの支持率は、6%という低水準。この数値は、共和党大統領候補として史上最低の支持しか黒人から得られなかった2000年大統領選挙での8%よりさらに下。

なお、民主党から大統領候補として指名されるのが確実なジョン・ケリー上院議員に対する黒人の支持率は、79%。

この民主・共和2大政党候補に対するこのようなトレンドは大体予測できたが、ここで気になるのは、黒人でも増えている「無党派層」。(2002年にJoint Center for Political and Economis Studiesが行った調査では、24%に達し、その率は年齢が若ければ若いほど高まる)。

2004年06月18日

メイナード・ジャクソン

深南部初の黒人市長となったメイナード・ジャクソン(Maynard Jackson)元アトランタ市長が亡くなってから、6月23日で一年が経過することになる。この16日、そのジャクソンを讃えるランプがアトランタに建立された。

場所は、アトランタの随一の大通り、ピーチトゥリー・ストリートと、同市の黒人居住区の中心街、オーバン・アヴェニュー(故マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの生家が面している通り)の交差点。同市における黒人の政治力の伸張を物語るには絶好の地。

故ジャクソンがこのような「象徴」を喜んだかどうかは甚だ疑問だ。なぜならば、彼は、名だけの「黒人の進歩」よりも実質の生活の向上を目指した急進的黒人政治家として名を博していたからだ。

2004年06月24日

2000年大統領選挙

『サンフランシスコ・クロニクル』紙は、黒人やラティーノを中心に大規模な選挙権剥奪が起きた2000年大統領選挙の回顧記事を掲載。そこで改めて、前回の選挙で技術的問題からカウントされなかった票の過半数以上が黒人が多数の選挙区のものであったという事実を指摘する。

その後、紙に書いた投票用紙のカウントから、タッチ・スクリーン方式に変える「ハイテク導入」がなされているようだが、同紙はそこにおける問題点も指摘している。2000年のフロリダ州でおきたような、警官による投票妨害が再発する危険性をタッチスクリーンは回避できないということ。

この見解にわたしは同意する。

2004年06月25日

Another Rodney King

20040625brutality.jpg6月24日、またしても警察官による黒人青年への暴力行為がビデオに収められ、全米に報道された。場所は、1992年の大暴動の現場、ロサンゼルスのサウスセントラル地区。警察の残虐な行為は、暴動の原因となった、ロドニー・キング殴打事件にそっくりだ。

しかし、類似はここで終わる。

1992年当時の警察署長は、人種差別的とも思われる発言を繰り返していた問題の多い人物だった。現在の警察署長は、そのような警察を改革した人物として高く評価されている人物である。

また、ロドニー・キングの罪科はスピード違反だった。無防備の人間を、スピード違反したからといって、殴る蹴るの狼藉を働く警官は明らかに常軌を逸したものだったし、それゆえ多くの者が怒りを抱き、その果てに暴動がおきた。しかし、この度、暴力を受けた人物の罪科は車の窃盗。しかも、警察とカーチェイスを行い、犯人が武装しているのかどうかも警察の側には不明だった。そして暴力を行使した警官のなかには黒人警官もいた。

このような事件の被害者は、非常に高い割合で、黒人(アフリカン・アメリカンとアフリカ人)である。しかし、わたしは、「人種差別」だけが、このような事件の原因だとは思えない。アメリカのメディアは、人種的側面だけに注目するが、アメリカという国自体が、銃器をもつ「自由」を認めている等々、きわめて暴力的な社会だということも見落としてはならないだろう。

かつて、ブラック・パワー運動の中心にいたH・ラップ・ブラウンは、「暴力というものは、アメリカン・パイと同じほど、アメリカ的なものなのだ」と、アメリカ社会の残虐性を批判した。そのことばが、この事件の顛末を追いかけていたわたしの脳裡に浮かんだ。

2004年06月26日

政治家、宗教界のリーダー、さらにはギャングまで集合

シカゴ、6月25日の夜、ジェシー・ジャクソン・ジュニア(連邦下院議員)、ボビー・ラッシュ(同じく連邦下院議員で元ブラック・パンサー党シカゴ支部の副議長)、イスラーム、キリスト教の宗教界のリーダー、さらにはギャングのリーダたちが会合を開いた。目的は、黒人青年が直面している苦境への対処法を議論すること。

昨年、わたしはアメリカ史研究会において、アメリカでの「監獄社会」の誕生について、時間の都合上短くなったが報告を行った。(報告ハンドアウトはhttp://www.fujinaga.org/を参照)。この会合の報道によると、わたしが黒人青年の苦境を調査したときよりさらに悪化している。

シカゴ都市圏において、16歳から22歳までの黒人青年のうち、学校に通ってもいなければ、雇用もされていないものの率は過半数を超えている。また、高校までが義務教育であるアメリカにおいて、高校を卒業できていないものの率は、38%にのぼる。

ここにて悪循環は完結する。80年代以後の産業構造の転換(リストラクチャリング)以後、都市圏で増加した職は、高学歴を要する専門職か、地位の上昇がのぞめない雑役労働かに限られている。

高校を出ないから仕事に就けないのか、それとも、仕事に就けないから高校にいかないのか。そんなことを考えるあいだに、危機的情況がそのまま放置されている。

この会合が有意義に終わることを祈る

2004年06月30日

ジョン・ケリーの選挙戦

民主党から大統領候補に指名されることが確実になっているジョン・ケリー上院議員が、黒人票獲得に向けて動き始めた。

この6月は、アメリカ南部の人種隔離制度に終止符を打った公民権法が議会で可決されてから40周年にあたる。ジェシー・ジャクソンが長を務める団体PUSH/Rainbowが開催した記念集会にケリーが参加。

それでも彼の選挙戦に対する黒人からの不満の声は多い。わけても前の二人の候補、クリントンとゴアが、南部出身ということもあって、選挙戦の枢要な位置に黒人を登用していたのと比較され、候補側近に黒人がたった一名しかいないという点は、しばしばケリー批判として聞こえる声だ。

さらに、ケリーは、PUSH/Rainbowの集会で、2500億ドルの予算を高等教育の特別予算とし、貧困家庭出身者が大学に進学しやすいようにするとの公約を語ったが、わたしはいま最も切迫している黒人の情況に、この施策の効果は乏しいと思う。より重要なのは、ほぼ教育機関として成り立ってさえいない、初等中等教育の改善にある。

他方のブッシュは、コンドリーザ・ライスとコリン・パウエルの登用を、「黒人に対して開けた共和党」のシンボルとして喧伝してきた。しかしながら、過去3年間、ブッシュは、黒人から実際に支持を得ている公民権団体の指導層とは一切会わなかった。

とすると当然、ブッシュよりは「まし」という声があがることになる。しかしブッシュより「まし」でない候補などいるのだろうか?

2004年07月02日

公民権法施行40周年記念

この7月2日で公民権法が施行されてちょうど40年が経った。ホワイト・ハウスではそのセレモニーがあった。

何と、死刑判決がくだされたのだが冤罪の可能性が高かった黒人、シャカ・サフォア(ゲイリー・グラハム)を電気椅子に送る書類にテキサス州知事として署名し、アメリカ合州国史上最多の人間を死刑に処したジョージ・W・ブッシュは、「平等を目指した運動はまだ終わってはいない、なぜならば邪な偏見を抱いたものはまだ残っているからだ」という公式声明を発表した。この人間は自分が何を言っていて、何をやっているのかわかっているのだろうか。

ちなみに、1988年に、黒人男性はレイプ犯というイメージを選挙宣伝で使い、白人票を集めたのは、彼の父、ジョージ・ブッシュ。

2004年07月11日

フロリダ州当局、ついに2000年大統領選挙の投票権剥奪を認める!

7月10日、フロリダ州当局が、2000年の大統領選挙において、重犯罪の前科のあるもの/重犯罪で服役中のものから投票権を剥奪することを規定している法により、犯罪者に占める率に不釣り合いなかたちでアフリカン・アメリカンの投票権を剥奪していたことを認めた。

このような手法により投票権を剥奪された黒人の数は2万2千人にのぼる。対して、選挙戦の勝利を最終的に決めたゴアとブッシュとの票差はわずか537票。

アフリカン・アメリカンの9割以上がブッシュ支持者。

しがたって、至極簡単な計算で、ブッシュの当選の正当性を疑問に付すことができる。

今年ブッシュがイギリスを訪問した際、ロンドン市長は「正当な手続きによって民主的に選ばれたのではなく、一種のクーデタによって政権を奪取したものを市の賓客として迎えるわけにはいかない」と言い放ち、会見を拒否した。市長の勇気に拍手!。

なお、7月11日付けの『ニューヨーク・タイムス』は、重犯罪者から選挙権を奪うことは投票権法に抵触するという見解を社説にて発表している。

2004年07月14日

「哀れみ深い保守主義者」のほんとうの姿

20040714mfume.jpg7月10日から15日まで、公民権団体のなかでも最古の歴史を持ち、最大の会員数を誇るNAACPがフィラデルフィアで年次大会を開催した。今年の大会は、大統領選挙の年であるゆえに、その意味も大きい。

さて、NAACPは昨年12月の段階でブッシュに招待状を出していたのだが、彼は出席を断った。理由はスケジュールがあわないからだそうだが、このような言辞は、文字通りとることはできず、普通、出席の意志がない、つまり拒否の意志を表明したと解される。

時遡り、2000年大統領選挙。このときばかりはブッシュ候補は勇んで大会に参加し、保守的といわれる共和党のなかにあって自分はマイノリティのことに強い関心がある「哀れみ深い保守主義者compassionate conservative」であると語った。

ところが、ブッシュの公民権における政策はきわめて評価が低い。否、批判されることはあっても評価されることはない。

その自分の姿に忠実に今回は大会参加を拒否し、NAACPの面目を潰しにかかったのだ。過去70年の歴史のなかで、NAACPの年次大会に一度も参加しなかった「現職大統領」は彼だけである。(ちなみにクリントンは、8年間のうち7回参加した、欠席した回は外遊中)。

さて問題はブッシュのこのような行動にNAACPがいかなる対策をとるか、である。マイノリティの票でも、効果的に動員すれば、団結票の重みとして選挙戦を左右できるし、これまで何度も左右してきた。問題はここのところ黒人の投票率が低迷していることだ。

したがって今年の大統領選挙は、また、NAACPは一般の黒人の支持を得ているのかがわかる、同団体にとっても大きな試金石となる。はたしてNAACPは、かつてのように、黒人票を動員できるのだろうか?。

2004年07月15日

フロリダの票計算、まだ改善されず

14日付けの『ニューヨーク・タイムス』によると、前の大統領選挙で多くの黒人票がカウントされなかったフロリダの選挙制度改革はまだ終わっていないらしい。問題は以下の2点。

(1)タッチスクリーン式にするのだが、投票をした事実のハードコピーはどこにも残らない。したがってデータの改竄も極めて容易にできる

(2)多方面から批判を浴びた犯罪の前科のあるものから投票権を奪うことについて何一つ改善はなされなかった。

なお、(2)の件については、連邦公民権委員会が公民権法違反の疑いがあるとして調査を開始する模様。

2004年07月16日

連邦公民権委員会、フロリダ州の調査開始

20040716mary_francis_berry.jpgかつてよりマイノリティを不当に扱っていると問題が指摘されているフロリダ州の大統領選挙投票手続き・基準に対し、15日、連邦公民権委員会が正式に調査に乗り出すことを発表。

なお、この機関は、法の執行権限は持っていないが、各省とは独立した団体である。したがって、「人種主義者」であり、「公民権侵害を恥も外聞もなく実行している」と悪名が高い、ジョン・アッシュクロフト司法長官が「介入」する権限はない。ちなみに委員長は、クリントンが任命したメアリー・フランシス・ベリー。

公民権委員会がどこまで調査し、是正を求められるかはさておき、事前にここまで注目が集まれば、少なくとも2000年大統領選挙「級」の露骨な投票権侵害は防ぐことができるのではないだろうか。

2004年07月22日

Patheticなブッシュ選挙戦

20040722don_king.jpgNAACP年次大会への招待を拒絶したブッシュは、黒人票を掘り起こすために特別委員会を結成した。ところが、驚きは、その委員会のメンバー。

なんとドン・キングがいるのである。写真の髪型をみれば、ああ、この人、と思われる方は多いだろう。

が、念のため解説しておきます。

ドン・キングは、モハメド・アリのファイティングマネーを巻き上げ、民事訴訟で敗北した人物。ドン・キングは、マイケル・ジャクソンからギャラと印税をせしめようとして失敗した人物。悪名高い詐欺興行師。(アリを初めとするボクシング界での詐欺行為に関しては、右の拙訳が詳述している)

さらに、ドン・キングは、マルコムXの友人であったコンゴ共和国の初代首相パトリス・ルムンバを殺害し、クーデタで政権を奪取、同国を現在に至るまで苦しめることになる腐敗政権の始まりを期した人物、独裁者モブツ・セセ・セコの友人。ドン・キングは、アジアでは、マルコス元フィリピン大統領の友人。

ドン・キングは独裁者が大好き。

周知のとおり、ブッシュは、イラクの独裁者から追放するといって戦争を起こした。またまた彼の論理は破綻をきたしている。

何はさておき、ドン・キングの方が、NAACPより、黒人コミュニティで支持を得ているとたいへんな勘違いをしている。しかし、共和党幹部のなかに、まともな政治学・社会学のトレーニングを受けたものはいないのだろうか。

ブッシュの選挙戦はpatheticだ。

2004年07月29日

2大政党制と多様な社会の併存不可能姓

全米ネットCBS放送と黒人を主な視聴者とするケーブル局BETが実施した世論調査によると、成年の黒人の何と10分の9が、イラク戦争に価値はなかったという意見をもっていることが判明した。

しかし、こうなると問題はアメリカの硬直した政治制度である。民主党候補に正式指名されたジョン・ケリー上院議員とブッシュの公約や基本的政治姿勢は違っているのだろうか?、それが問題なのだ。

民主党候補のケリー人気は、「ブッシュ以外なら誰でも良い」、アメリカではABB(Anything but Bush)と略して称されるようになった世論の後押しを受けている面が決して小さくない。雇用創出や税制の面では、均衡財政を主張し、海外で生産活動を行っている企業に対する税率を上げ、そうすることによって労働者へ所得の「再配分」を行おうと主張している面において、ケリーはブッシュと大きく違っている(ブッシュは高額所得者の税控除を増額する措置を実際にとった)。

ところが、世界の注目を浴びている対イラク政策に関し、ケリーは「[ここまで来たなら民主化をめざし]最後までがんばる」という主張を繰り返している。つまり彼は「反戦候補」などでは断じてない。

この経緯は、ベトナム戦争当時、1968年の大統領選挙を思わせる。この年の選挙は、民主党はハンフリー、共和党はニクソンを擁立し、たたかわれた。ニクソンは、民主党現職副大統領であるハンフリーを相手に、同党の対ベトナム政策を激しく批判した。アメリカ軍の実戦部隊を削減し、軍事顧問団だけを南ベトナムに残すという「ベトナム化政策」を提唱したのも彼だ。しかし、いったん当選すると、ニクソンは、北爆を再開し、カンボジアに侵攻したのである。

2つの政党が票を競いあうとなると、互いが浮動票の獲得を目指し、この「浮動票」なるものの実態が不明なため、2党の政治綱領(マニフェスト、米語では正式にはプラットフォーム)は、時を経るに従って類似性を高めてくる。これは政治学の基礎的知識だ。

有権者が均質かつ平等である政体ならば、このような2大政党の性向は、中道路線を踏襲することになり、さして問題は起きないだろう。しかし、多様化が叫ばれている現代社会、わけてもその度合いが高いアメリカにおいて、このような硬直した政党政治はマイノリティの意見を押しつぶす方向に働く。

現に、イラク撤退を望んでいる有権者は、投票すべき候補が存在していない。イラクだけを争点にするならば、10名のうち9名の黒人は、望ましい候補をみつけることができないのだ。

この意味において、「政権交代可能な2つの政党」という言葉は、「政権が交代しても劇的政策変更はありえない2つの政党による民主政治」と解することができる。

民主主義は、自由な社会において、人びとの多様な欲望を調停する、いまのところベストな政体である。しかし、政治制度が多様性を反映しないかぎり、その利点は極めて小さくなる。アメリカ大統領選挙の投票率は極めて低い。

イラク戦争をリードした国家がともに「2大政党制」であるのは、偶然の一致だろうか。戦争に反対した欧州の大国が、多様な政治を反映しやすい多党林立政体であり、連合政権をとっているのは偶然の一致だろうか。

実は、アメリカの2大政党制がもたらす有権者へのオプションの減少については、かねてからずっと指摘されてきたことである。「あなたはリンゴが好きですか、それともミカンが好きですか」と二択で訊ねられ、「どちらも好きではありません」と答えると少し、「バナナが好きです」と答えるとかなり変人と思われてしまう。しかし2代政党制のカラクリはこれと同一の構造をとっているのだ。少し大胆な比喩を使うと、「弊社の商品をご紹介したいのですが、明日がいいですか、それとも明後日がいいですか?」という質問を投げかけてくる押しの強い悪質な訪問販売と良く似ている。用心しなくては、二択の構造に捕らわれてしまい、「来なくても結構です」と言えなくなってしまう。

現在のアメリカでは、「イラク撤退」はもとより、「国際社会へ大量殺戮兵器がみつからなかったことに対する説明責任をまっとうする」と言う大統領候補はいない。

さて、その国家の領土内に住む人びとの多様化が著しく進行する一方で、野党に2大政党制を主張している国があるが、その方向で良いのだろうか。その国では、従来ずっと「護憲」を唱える政党が消えつつある。憲法を守りたいひとが勝利を見据えて投票できる候補が見つからなくなってしまう可能性が高い。

アメリカでは、自分たちの利益を代弁してくれると黒人たちが感じることのできる候補が存在しない。激しい闘争のすえ勝ち取った投票権を行使しないひとが急増している。

(なお憲法論争について、当ブログの主題と関係がないため、ここでは私論は展開しない。上記の意見や事実の指摘は、アメリカ政治から見えるもののひとつとして紹介した)。

2004年07月30日

迷走する南部キリスト教指導者会議

60年代公民権運動の中心的存在だった南部キリスト教指導者会議(SCLC)の派閥争いが激化している。

事の発端は、昨年11月のキング3世の会長辞任。同団体は、マーティン・ルーサー・キングを中心に組織されたものであり、キングの縁者がトップにいる限り、ある程度の内紛は押さえ込むことができた。しかし、キング3世の辞任は、内紛が激しくなるきっかけになってしまった。(辞任の理由は、すでに起きていた内紛の調停に「疲れてしまった」から)。

今回、50年代から60年代にかけてキングの側近中の側近だったラルフ・アバナシーの息子、アバナシー3世が会長に立候補した。しかし、立候補する前に、彼は、64の団体をSCLCに加盟させようとした。

これが会長選挙に勝つための工作であるを見破った暫定会長は、新規加盟団体の会長選挙での投票権を剥奪するという措置をとった。(これはSCLCの内規に規定された会長権限のひとつである)。

奇妙なのはアバナシー3世のこの動きをサポートした人間。元ブラック・パンサー党議長イレーン・ブラウンが、アバナシー3世の側近を現在務めている。なお60年代にSCLCとパンサー党とのあいだに関係は一切なかった。

いま現在、アメリカ社会に影響力をもっている黒人の団体はNAACPだけである。こうなったのも、ほかの団体がこのSCLCのような内紛によって迷走を続けているからだ。NAACPにしても10年前は同じような状態だった。そうこうする内に、黒人団体が真っ向から対立している人物がホワイト・ハウスの住民になってしまっている。

SCLCの内紛は、こんにちのブラック・コミュニティがかつてのような同一性をもっているものではないこと、そして、そのなかでマイノリティの運動はどうすれば良いのか、その道の選択に困惑していることを示している。

2004年08月03日

アファーマティヴ・アクションの新展開

サンフランシスコ市が公共事業のなかでマイノリティが経営する企業が請け負う割合を決めていたことに対し、同地の地方裁判所は、この政策がカリフォルニア州法に抵触しているという判断を下した。

これまでアファーマティヴ・アクションに対する裁判所の判決は、圧倒的に大学進学に関するものが多い。今回の判決は、教育の領域以外のものであるという点において、極めて重要な意味をもつ。

筆者は、人種間の経済格差を是正する措置として、アファーマティヴ・アクションが最良の政策であるとも思わなければ、盲目的にアファーマティヴ・アクション支持を訴えるものでもない。しかし、マイノリティの社会統合を促すために、マイノリティの枠を予めとっておく政策をすべて「アファーマティヴ・アクション」だと規定し、それによって判断するという方向には向かってはならないと考えている。

しかし今回の判決では、教育の分野でカリフォルニア州法がすでにアファーマティヴ・アクションを禁止しているということが引き合いに出されている。教育の分野におけるマイノリティ「優遇」と、公共事業におけるマイノリティ「優遇」とは、同じものではないのだが。

2004年08月04日

未だ現れぬ新世代

マーティン・ルーサー・キングが創設者のひとりで、1968年に彼が暗殺されるまで会長を務めた組織、南部キリスト教指導者会議(SCLC)の会長選挙が行われた。

内紛につぐ内紛の末に選ばれた新会長は、キングと同世代で、82歳になるフレッド・シャトルスワース牧師。

SCLCは、キング死去以後、リーダーの不在に苦しみ、内紛にあけくれている。今年の内紛はなかでも激しいものであり、それを傍目に見ていたジェシー・ジャクソンらは大会へ参加しなかった。実際、2000名の参加が予定されていた大会への参加者は、数百名に留まっている。

「年齢差別」をするわけではないが、いくら老練の運動家であろうと、82歳の会長が組織を大改革したり、再活性化したりすることは予測し難い。

他面、未だに「黒人指導者」といえば、60年代公民権運動の時代にはすでに運動家であったものたち、つまり会社ならば「定年」を迎えている世代に属する人たちである。

未だ新しいヴィジョンをもった新世代の運動家は現れていない。

2004年08月30日

60年代以前に戻ったフロリダ

『ニューヨーク・タイムス』紙のコラムニスト、ボブ・ハーバートの報告によると、フロリダで投票権を行使した黒人市民に対する露骨な嫌がらせが開始されているらしい。

その発端となったのが、オランドー市市長選挙。黒人住民が、不正の不在者投票を行ったとして、州警察の捜査の対象となった。

ここで問題は3つある。

・フロリダ州は武装警官を動員し尋問を行っている。

・しかも、いきなり住民の自宅を訪ねている。フロリダ州の考えでは、家を訪ねた方がよりリラックスした雰囲気で取り調べができるそうだが、勘違いも甚だしい。60年代以前、黒人の投票権行使を「合法的」に防止するために、このような「嫌がらせ」は頻繁に行われた。しかも今回捜査の対象となっている黒人市民の多くは、60年代以前の南部を憶えている老齢者が多い。このような嫌がらせを受ければ、次に投票権を行使するには強い意志と勇気が必要となる

・フロリダ州当局は、『ニューヨーク・タイムス』紙に対し、オランドー市市長選挙の件の捜査は終了したという書状を出している。ならば現在行われている捜査は何のため?

なお、フロリダ州は、2000年大統領選挙で大規模な選挙権剥奪が起きたところ。その結果、ジョージ・W・ブッシュは大統領に「当選」した。

その州の行政の長、州知事は、ジョージ・W・ブッシュの弟、ジェブ・ブッシュ。

2004年09月13日

黒人の投票権

民主党大統領候補ジョン・ケリーは、黒人のCongressional Black Caucusの集会に招待され、2000年大統領選挙と同じく、来る選挙でも重要な州のいくつかで黒人の投票権が共和党によって不当に剥奪される可能性があると示唆。他方、共和党のブッシュも同集会に招待されていたのだが参加を拒否、ケリーの発言に対しブッシュの選挙参謀は「9・11テロ記念会合への出席のため多忙」を理由にコメントを避けた。

出典:『ニューヨーク・タイムズ』

2004年09月15日

公民権運動の英雄復活!

『ワシントン・ポスト』が報じたところによると、ワシントンD・Cで行われた市議会議員の民主党予備選で、同市の最も貧困な地区、第8区の住民は、1960年代には学生非暴力調整委員会SNCCの活動家であった公民権運動のヴェテラン、マリオン・バリーを選出した(2位になった候補の2倍以上の得票)。

バリーは、かつて同市の市長を務めていたことがある。しかし、FBIの麻薬捜査班のおとり捜査に「ひっかかり」、マリファナを買うところをビデオに録画され、そしてそれが公開され、スキャンダルにまみれたかたちで、市長職を辞職した。違法薬物取引に関しては、実刑判決を受け、その刑期を終えている。

刑期を終えたのち、彼は市会議員に立候補し、最初の復活を果たした。しかし、今度は汚職の問題で糾弾され、再選を果たせなかった。

したがって今回のバリーの当選ーーワシントンD・Cの民主党員は共和党員の10倍に達するーーは、彼にとって2度目の「復活」になる。彼が「草の根」レベルで圧倒的な「人気」を持ち続けていることの証左だ。

1960年代、彼は極めてラディカルで献身的な青年活動家だった。そのイメージは、多かれ少なかれ、現在の彼の衰えない人気につながっているはずだ。今度こそ、その「イメージ」を現実にして欲しい。第8区の人びとの「人気」に、何よりもまずこたえて欲しい。

なお、選挙戦の争点は、ワシントンD・Cにメジャーリーグの球団を誘致できるスタジアムを建設するか否かだった。バリーは、スタジアム建設よりスラムの環境改善を主張し、当選した。ところが、ご存じの方も多いと思うが、ついこのほどモントリオール・エキスポズがワシントンD・Cにホームを移転することを発表した。有権者の投票による意思表示など政治家は構っていないようだ。どこかの国とそっくりである。

2004年10月03日

黒人の投票権

『ワシントン・ポスト』によると、キング牧師の夫人、コレッタ・スコット・キングが、オレゴン州ポートランドで開かれたNAACPの会合に出席し、刑期を終えても選挙権を剥奪している州を批判した。なお、このような方法により、全米6州で黒人男性の4分の1が「合法的」に選挙権を剥奪されている。他方、刑期中のものにも投票権を与えているのはオレゴン州とメイン州のみ

2004年10月05日

「黒人票」の消滅

ヴァージニア州リッチモンドの市長選が面白い。

リッチモンドでは市議会が市長を任命する制度が過去50年のあいだ続いていた。(これはアメリカの地方政治では珍しいことではない)。今年、それが直接選挙になった。

現在、最有力候補とされているのが、南北戦争直後の「再建期」を除くと、1989年に黒人として初めて州知事になったL・ダグラス・ワイルダー。

知事に当選するには、人口上アメリカの多数派である白人票の獲得が不可欠である。ワイルダーが知事の経歴をもっているということは、彼が人種の壁を越えた訴求力をもっているとともに、黒人の「特殊利益」だけを追及する政治家ではないということも意味する。

そんなワイルダー当選に対抗しているのが黒人市議会議員。彼ら彼女らは、9人の定員のうち5つの席を占めている、そうなっているのもリッチモンドという都市内では黒人が多数派だからだ。

ここで興味深いのが黒人市議会議員の主張の論理。「市長直接選挙は、黒人の票の力を弱めることにしかならない」。ここには選挙区、つまり居住区が人種によって隔てられているアメリカの地政学が映し出されている。彼ら彼女らにとって、黒人が白人に統合されることは、彼ら彼女らの「地盤」の破壊を意味する。彼ら彼女らの政治活動とは、黒人の「特殊利益」を主張すること。

しかし黒人のワイルダーは来る11月の当選を「確実」なものにした。

このようなリッチモンドの事情は、黒人は多種多様な政治的指向性を、もはや「黒人票」なるものは存在しないことを如実に示している。黒人が特定候補に圧倒的支持を与える時代は急速に昔のものになりつつある。

出典:『ニューヨーク・タイムズ』

2004年10月10日

シャープトン、ジャクソン、ケリーを支持を確認

前回の大統領選の勝者を決めた場所、フロリダ州マイアミのバプティスト教会で、ジェシー・ジャクソン、アル・シャープトンとともに、ジョン・ケリー大統領候補が説教壇に立った。

シャープトンは今回の民主党大統領予備選挙に出馬している。そして彼のケリーに対する姿勢は、かならずしも明確なものではなかった。他方、ジャクソンは、ハワード・ディーンヴァーモント州知事を支持し、同じくケリーへの姿勢は明確ではなかった。さらに、彼がシャープトンを支持しなかったことは、黒人指導層の分裂を物語っていた。

大統領選挙終盤に入り、遅ればせながら、黒人指導層がケリーへの支持を明らかにした形である。

しかし、いずれにせよ大多数の黒人は民主党支持であるし、問題は、彼ら彼女らが何の妨害もなく投票することができ、投票した票が正確に数えられること、その法的・制度的整備を急ぐべきだろう。もはや投票日まで1か月もないのだが…

出典:『ニューヨーク・タイムズ』

公民権委員会、異例のブッシュ批判

公民権委員会が、ブッシュ政権の政策を批判するリポートを発表した。

委員会は問題点として以下の点をしてきしている。
・公民権保護のための政策が不充分
・投票権保護のために対策を充分に講じていない
・教育政策やアファーマティヴ・アクションの領域での政策努力が不充分
・ヘイト・クライム対策が不充分

委員会は総じてこう判断している。ブッシュは「緊急の対応を求められている公民権問題に対しリーダーシップを発揮してもいなければ、言動が一致してもいない」。

なお、大統領選挙投票日まで一か月を切った時点で、このような報告が出るのは異例のことである。

こうなると、ブッシュは良い政策として何をしたのだろうか?、と疑問に思えてくるくらいだ。

2004年10月29日

国税庁、NAACPを「捜査」

ジョージ・W・ブッシュが、公民権団体NAACPの年次大会の招待を拒絶し、NAACP幹部から批判されたことについては、このブログでも伝えてきた。

信じられないが、どうやらその「ツケ」がまわってきたようだ。

NAACPはNPOとして登録されており、それゆえに政治活動はできないことになっている。10月29日、国税庁は、NAACPが法律で禁止されている政治活動を行ったとして、捜査を開始した。

問題となっているNAACP大会は6月に開催されているのに、大統領選挙投票日のわずか4日前にである!。

NPOという概念は日本では新しいが、アメリカでは古くから存在する非課税非営利団体の規定である。NAACPは、これまでも何度も、公民権政策に敏感な民主党候補の支援活動を行ってきた。しかし、それが問題となって捜査対象にされたことは一度もない。

また政府から政治活動をなかば「強要」され、それに従順にしたがったこともある。冷戦の時期、共産党活動家を団体から追放したのだが、ある政治信条を叩き出す行為を「政治活動」と言わず何と言おう。だが、このとき、国税庁は何もしなかった!。

以下にNAACP執行委員長ジュリアン・ボンドの声明を緊急掲載する。

「NAACPは、政策論議をしたのであり、政治活動をしたわけではありません。大統領選挙投票日前夜にNAACPを黙らせてしまえ、これはそんな行為にほかななりません。なぜなら、アフリカン・アメリカンの有権者登録に関していえば、わたしたの団体がもっとも活発に行動してきたというので有名だらからです。明らかに、これが国税庁のなかの誰かには気に入らなかったのです。大統領の批判は許されない、とか、大統領は無謬であるとかいった類のことが現実になるとすると、それはジョージ・オーウェルが描いた全体主義国家と同じになります」。

ボンドとまったく同意見である。わたしはいまアメリカで起きていることがまったく信じられない。


2004年11月06日

Sean "P. Diddy" Comb 政界へ

20041106combs.jpg
Sean "P. Diddy"は、今回の大統領選挙で黒人の有権者登録を促進するために結成した組織、Citizen Change (民主党支持)の活動を継続させると発表

今回の選挙で高まった、黒人青年層の政治への関心を維持し、将来の政治・社会の変革の力にすることが目的、と言明。

2004年11月10日

公民権運動とヒップホップ

20041110andy_young.jpg1960年代、キングの「右腕」として活躍したアンドリュー・ヤングが、『アトランタ・ジャーナル・コンスティチューション』に投稿した記事で、今回の選挙におけるヒップ・ホップ・アーティストの活動を大々的に評価。わけても、ラッセル・シモンズのHip Hop Team Vote Initiativeと、前にこのブログで伝えた、P Diddy CombsのCitizen Charge Campaign。

なお、政治的無関心が心配されていた黒人青年の投票率は、この大統領選挙で急上昇。18歳から29歳までの青年の半分が投票に赴いた。2000年と比較すると、実数にして、460万の増加。

このたびの結果の悔しさを胸に、2008年を待とう!

SCLC崩壊へ?

マーティン・ルーサー・キングが初代会長を務めた公民権団体、南部キリスト教指導者会議(SCLC)が崩壊の危機に瀕している。

同団体は、90年代以後、指導層の仲違い、団体資金の横領等々の問題が噴出していた。2003年に、その窮状を救うべく、アラバマ州バーミングハムでキングとともに大闘争を率いた人物、フレッド・シャトルスワース牧師を会長に迎えていた。

今回、最高意思決定機関である理事会が会長を更迭、それと同時に会長が理事を更迭するという事態が起き、団体の機能がまったく麻痺する状態に陥ってしまった。

『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』紙が報じているところによると、この情況に関する意見を問われ、キングの伝記を著しピュリッツァー賞を受賞した歴史家デイヴィッド・ギャローは「もはや解散した方が良い」と述べている

2004年11月11日

司法長官交代

公民権政策にもっとも重要なポスト、司法長官が交代した。

反アファーマティヴ・アクション、反妊娠中絶、人間は神が創ったと信じているキリスト教原理主義者ジョン・アッシュクロフトが辞任。後任にはラティーノのアルバート・ゴンザレスが指名され、いま上院での承認を待っている。

しかし、キリスト教原理主義者からラティーノへの交代を、ブッシュ政権の「性格」や「路線」が変わったと考えるのは早計にすぎるだろう。なぜならば、ゴンザレスは、ジョージ・W・ブッシュがまだテキサス州知事だった時代から法律顧問を務め、わたしがこのウェブサイトで批判したシャカ・サフォア死刑囚の死刑執行を実施に移させた人物にほかならないからだ。

ゴンザレスの法的判断は一貫して保守的なものである。

上院の審査では、サフォアの件を含め、彼が政治的意図で法律の精神をねじ曲げてきたことをしっっかりと調査してもらいたい。

2004年11月18日

ポストコロニアルの現在と反アファーマティヴ・アクションの出会い

カリフォルニア州で反アファーマティヴ・アクションの運動の先頭に立っていた黒人実業家、ウォード・コネリーの提案が、この度、否決された。

その詳細はこんなもの。

コネリーは現在カリフォルニア州立大学理事会の理事を務めている。彼は、両親がそれぞれ異人種・異民族の属する学生の5%が特定の人種にカテゴライズされることを嫌っており、自らのアイデンティティを「多人種」mutiracialとしたいと思っていることを根拠に、入学願書の人種・民族記入欄に「多人種」のカテゴリーを含めるように要求した。

ここまでは実に筋の通った、「ポストコロニアルの現在」を映し出す「進歩的」な提案のように聞こえる。

ところが、既にカリフォルニア大学では、multiracialのアイデンティティを持っている志願者には、それを表明することができていた。ことは単純、いくつかある志願書の欄の複数にマークを済め終わり。このようなことができたからこそ、コネリーは、そもそも異人種・異民族結婚をした両親を持つ学生を調査することができたのである。

カリフォルニア大学理事会の他のメンバーは当然コネリーの提案に反対した。コネリーは、現行の願書は「人種主義的である」と断言していたのだが、そのロジックがわからなかった、と伝えられている。

わたし自身も、彼の主張はさっぱりわからない。

どうやらここでポストコロニアルの現在は、現代アメリカでも最も保守的なものを育んでいるように感じる。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの下のことばは、このような事態を見事に察知している。

「ポストモダニズムとポストコロニアリズムにとっての大切な概念の多くは、現在の資本や世界市場のイデオロギーと完全に呼応している。世界市場のイデオロギーは、つねにすぐれて反基礎づけ主義的で反本質主義的な言説であった。流通、変動性、多様性、混合は、まさにその可能性の条件なのである。交易は諸々の差異を一緒にするのであって、差異がより多ければ、それだけ楽しみも多いのである!差異(すなわち商品、住民、文化、等々の差異)は世界市場において、無際限に増殖しているようにみえる。それは固定された境界を何よりも暴力的に攻撃している。それは無際限の多数多様性によって、いかなる二項対立的な分割をも凌駕するのである」

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『帝国』(以文社、2003年)

2004年11月22日

アッシュクロフト司法長官への「通知簿」

司法省の公式統計によると、2003年の公民権侵害に対し司法省が起訴を決定した案件は、わずかの84件であることが判明。

クリントン政権最後の年が159件であったことを考えると、なんとこれは47%の減少にあたる。

この数値は「市民的自由を尊重し、、その方面における成績は前政権より良い」とするアッシュクロフト司法長官の主張を見事に否定している。彼は、愛国者法によって市民的自由に制限をかけることに一所懸命なあまり、アメリカが豪語する「自由」の礎となるもの、すなわち公民権・市民権・市民的自由にはわずかばかりの関心しかなかったことが、これで明らかになった。

2004年11月24日

NAACP、ブッシュ大統領に懇願!

NAACPが、大統領選挙直前に、国税庁から特別捜査の対象にされてしまった、という件については、ここでも紹介してきた。

さて選挙戦が終わり、何と、NAACPは、同組織の大会を欠席したブッシュに対し、改めて会談を求める懇願を行った。会長のクウェイシ・ムフーメは、大統領に宛てた手紙のなかでこう述べる。

「あなたの信頼を得るためならば、わたしはあらゆる術を尽くすでしょう。新しい4年間は、[2分裂した国民をそのままにしておくのではなく]人びとに手を差し伸べ、国民を再びひとつのものにするのにならねばなりません。一つの国土、一つの憲法、一つの未来を共有しているのですから。わたしたちが一致団結し、行動をしたならば、偉大なるアメリカに限界などないのです」。

んんん?、とお思いの方がいらっしゃるだろう。

しかし、ほんとうにNAACP会長のことばであり、ブッシュ大統領のクリシェではない。今回の選挙が公民権勢力にとっていかに大きな打撃であったのか、それをこの手紙は物語っている。

2004年11月29日

人種隔離憲法、改正できず

11月2日、大統領選挙に併せて、南部アラバマ州では、義務教育を規定すると同時に、人種別の教育を命令した州憲法を改正する住民投票が採択に付された。

わたしは、2004年においてもまだ人種隔離を命じた憲法が存在していることに驚いた。

さらに驚きは、投票の結果。

2000年大統領選挙、2004年大統領選挙よりずっと僅差ではあるが、1850票差で、改正の提案が否決されたのである。

提案に反対していた団体の長は、人種隔離の規定よりも、義務教育を規定したところに反対の力点を置く。これがあっては、連邦裁判所から教育予算の増額を命令され、ひいては増税につながるというものだ。

『ワシントン・ポスト』紙の記者、トマス・エドサルの著書に、アメリカにおいては、税金論議に「人種問題」が影響を与えていると指摘する。つまり、福祉や教育の充実など、増税につながりかねない支出の増加は、「黒人への支出」を意味するのである。

それでもひとつ事実は変わらない。アラバマ州憲法には未だに人種隔離教育を命じた条文が存在する。

2004年11月30日

NAACP会長辞任

『ボルチモア・サン』紙と『USAトゥデイ』紙のオンライン版の速報によると、NAACP会長、クウェイシ・ムフーメが辞任することになったらしい。辞任に当たって、ムフーメは次のよううな声明を出している。

「この歴史ある組織が危機のとき、わたしは会長になりました。今やこの組織はかつての力強さと信頼を取り戻すに至っております。それを思い、誇りを胸に抱きながら会長の職を辞することに致します」

たしかにムフーメが会長になったときのNAACPはひどい状態だった。前会長の横領にセクハラ・スキャンダル、その果てには320万ドルの負債。それを再建したのは、ムフーメ会長とジュリアン・ボンド執行委員長による現指導層である。

しかし、わたしはムフーメが、自分の成し遂げたことに満足し、会長を辞することを決意したとはどうしても思えない。国税庁が「嫌がらせ」まがいの査察を開始したこと、それが遠因、否、陰の原因である気がしてならない。

このブログで伝えてきたように、SCLCはいま最悪の状態にある。アメリカ黒人を主体とするリベラル勢力が、再びアメリカ政治の中心に立つ、その鍵はNAACPが握っている。

次期会長が誰になるのか、それが発表されるのをいまは静かに待とう。アメリカが変わる、それを、まだ、信じながら…。

2004年12月02日

NAACP新会長決定

インディアナポリスの地方テレビ局が報じたところによると、同地出身の黒人で弁護士のデニス・ヘイズが、ムフーメの辞任後のNAACP会長代行に就任するらしい。

ヘイズは、ムフーメ就任の直前に、短い期間だが会長を務めていたこともあるし、同団体が誇る法律部門の長を務めた経歴ももつ。

2004年12月07日

民主党、オハイオ州での選挙権剥奪調査開始

大統領選挙が終わって約1か月、オハイオ州当局が同州での選挙結果の最終集計を発表したあとになって、民主党が同州での選挙権剥奪、投票妨害に関する調査を開始すると発表した。

問題となっているのは、黒人人口の多い大都市クリーヴランド近辺の諸郡。2000年大統領選挙と酷似したケースは、開票時より報道されていた。

なお調査開始にあたり、民主党は「選挙結果に疑義を呈するのではない」と断っている。なぜそのような断りをしながら、今頃になって動くのであろうか、まったく不思議である。

2004年12月08日

ムフーメ、政界復帰か

NAACPの会長を辞したクウェイシ・ムフーメは、2006年の連邦議会議員選挙で、メリーランド州の下院か上院で立候補することを考えているらしい。

彼は、NAACP会長就任前には、メリーランド州選出の連邦下院議員で、黒人議会議員連盟(Conressional Black Caucasus)の委員長だった。彼自身、このような噂に対して、「将来のことについては、いかなる可能性も否定しない」と言っている。

NAACPの次期会長が誰になるのかは気になるところだが、もし彼が当選するとなると、NAACP会長経験者が連邦議会議員になるのは歴史上初めてのことになる。

ひょっとすると、運動の現場感覚をもった人間が議員になることで、右派翼賛状態の連邦議会に風穴が悪かもしれない。

ブッシュ、公民権委員会委員長を解任

ブッシュ大統領が、任期満了が迫っていた公民権委員会の委員長メアリー・フランシス・ベリーを解任した。正確には、任期は2005年1月21日まである。それを鑑みると、これは事実上の「更迭」である。

ベリー委員長のもとでの公民権委員会は、大統領選挙投票直前に、ブッシュ現政権が行っている甚だしい人権蹂躙を列挙した報告書をウェブ上で公開するなど、大統領府との対決姿勢を明確にしていた。

ベリーは解任の意向を知ると、任期満了までまだ時間があるということを理由に法廷闘争をするよりも、委員会を去ることを選んだ。たとえ裁判に勝ったとしても、彼女が活動できる期間は1か月あまりだからだ。

なぜならば、それほど現政権の公民権・市民的自由の権利の保護の分野での業績がみすぼらしいからである。

49%が対立候補に投票した選挙戦での勝利を、自分に対する無条件信任状と思ってもらってはたいへんだ。1月には大統領就任式が行われるが、このような政策を行っていて、ブッシュは胸を張ってペンシルヴェニア・アヴェニューを歩けるだろうか。

2004年12月10日

公民権委員会実質上の解体

『ニューヨーク・タイムズ』の報道によると、ブッシュ大統領が新しい公民権委員会の委員長を決定した。大企業の弁護士を務めていた黒人、Gerald A. Reynolds。

ブッシュの人選ゆえに想像できたことだが、新委員長はアファーマティヴ・アクション反対派で有名である。さらには、「鈍感だと言われてもいいが、わたしは生まれてこの方、人種差別など経験したことがない」と公言している。そのような人物が公民権委員会を率いることになった。

この人選を聞き、1950年代に結成された公民権団体の相互連絡機関、Leadership Council on Civil Rights のウェイド・ヘンダーソンは、1948年にトルーマン大統領が設置して以来活動を続けてきた公民権委員会は、「実態として終わりを告げてしまった」と見解を発表。

2004年12月13日

シカゴ警察の大失策

シカゴ警察がこのほど大失策をした。

アメリカでは、人種故に刑事捜査の対象になることをracial profilingと呼ぶ。それは、数多くの公民権団体やリベラルな政治団体、人権団体から批判の対象になっている。

この度、シカゴ警察は、メキシカン・アメリカン居住区で車を運転していた2人組の黒人を逮捕した。逮捕の理由は、逮捕の時点では明かされなかった。

このとき、逮捕されたひとりの男性が警官にこう叫んだらしい。「あんたら、何やっているんだ、コイツはジェシー・ジャクソン牧師の息子なんだぞ」。

これで警官の態度は一変した。免許証のチェックで、本当にジャクソンの息子であることが判明すると、「この辺りの治安は良くないので、その注意のために引き止めたんだ」と答えたらしい。

ところが、それ以前に、2人組は、壁に手をつかせ、足を拡げるように命令され、ボディ・チェックをされていたのである。

なお、このとき、2人が乗っていた車の車両登録証は、有効期限切れから2か月が経っていた。警官はそのことに気がつかなかった。ジャクソンの息子自身が「落ち度があるとすれば、登録証だけだった」と「自己申告」をしたらしい。

取り締まるべきところは取り締まらず、禁止されている捜査方法を実施、シカゴ警察は大失策をおかしてしまった。

2004年12月23日

このページは、自作ブログに移行しました。

昨年の共和党大会、一昨年の2月に反ブッシュ外交デモの中心となった団体 United for Peace and Justice が、新しい議会の会期が始まる1月3日にあわせ、今回投票権の問題が浮上したオハイオ州の州都と首都ワシントンにて、選挙結果に抗議する集会を開くと発表。

ジェシー・ジャクソンら黒人「指導者」、マキシーン・ウォーターズら黒人連邦議会議員も、ワシントンでのこのデモに参加する意向を発表

NAACP会長、ブッシュ大統領と「会話」

20041223mfume.jpg今月末でNAACP会長を辞するクウェイシ・ムフーメが、ブッシュ大統領と「会話」を行った。

「会話」という言葉を使ったのはムフーメ本人。極めて厳しい関係になった現職大統領に会うにあたり、通常このような場で用いられるmeeting「会談」という言葉を彼は使わなかった。「これは通常の『会談』を意味しない」、そう彼は明言している。

したがって、これは個人的「会話」となった。その場でブッシュ大統領は、昨年のNAACP大会への招待を拒絶したことに関して、理由を説明。ブッシュによると、「敵意をもった人びとの集まりに出るのが嫌だったのではなく、敵意を示されることがこの国の大統領職の汚点となり、国際社会における合州国の立場を悪くさせる」と思ったからだそうだ。

ブッシュには、そもそも敵意を向けられるのはなぜかと問ってみよう、そしてその敵意を和らげる努力をしよう、という発想は、どうやらないらしい。「汚点」となる政策や行為をしないようにしよう、そうは思えないらしい。

「会話」を終えたムフーメの表情はどこかしか悲しげである。

2005年02月01日

NAACP、反撃開始

非政治団体として免税特権を与えられているにもかかわらず政治活動を行ったとして、国税庁から特別査察の対象とされたNAACPが、やっと反撃を開始した。

NAACPは、問題となった政治行動ーー会長によるブッシュ批判ーーは7月であったのにもかかわらず、査察開始の公表は選挙3週間前であり、したがって政治的意図があったとしか判断できないと主張。「NAACPの努力により有権者登録をしたものを威嚇する政治的行為」だと批判している。

国税庁はこの批判は根拠がないと反論。

2004年選挙の争点となったオハイオ州は、NAACPのみならず、ブルース・スプリングスティーンも、活発に反ブッシュの政治活動を行ったところ。彼ら彼女らの支持者は本当に投票所に足を運べたのだろうか、そして投じた票は数えられたのだろうか。

なお、NAACPの主張は、黒人の連邦下院議員も支持している。

2005年03月16日

ムフーメ、連邦上院議員に立候補へ

20050316kuwesi_mfume.jpg
このブログではこれまで幾度か登場してきている元NAACP会長のクウェイシ・ムフーメが、ボルチモア州から、2006年の連邦上院議員に立候補することを表明した。

彼は、NAACPの会長になる前には、同州の連邦下院議員の職を務めていたし、黒人連邦議会議員連盟の会長を務めたこともある。

しかし、この度は、状況が大きく違う。

下院議員は州を細分化した小選挙区をつくり、議員を州の人口に比例して割り当てる方式をとっている。したがって、その有権者の姿は、たとえば「都市部」だとか、たとえば「農村部」だとか、極めて同質性が高いものになる。事実、ムフーメは、都市部のボルチモアから選出されていた。

都市部でのマジョリティは、現在、アフリカン・アメリカンとラティーノよりなる。したがって、アフリカン・アメリカンが議員になれる確率は、アメリカの居住区が現在のように「人種」によって分断されているかぎり、極めて高いことになる。

ところが上院は州全体がひとつの選挙区である。アフリカン・アメリカンは、アメリカのどの州にあっても、マイノリティだ。したがって、上院議員選挙に勝つためには、人種の壁を越えた連帯をつくりだすことが必要不可欠だ。より明確に言えば、白人票を取らなければ、選挙に勝利できないのである。

今のところ、南北戦争直後に上院議員が「指名」されていた一時期を除き、この職に黒人が当選した前例はない。

報道によると、ムフーメの「根回し」は順調に進んでいるらしい。2006年が楽しくもあり、心配でもある。

2005年04月09日

公民権委員会の予算カット

公民権委員会の予算が9%、額にして80万ドル削減されることが決まった。

これにより、6つある支部のうち2つが閉鎖されることになる。

2004年大統領選挙においても、2000年に続いて、投票権の剥奪が広範囲に行われていたのにもかかわらず。

そんな選挙に勝ったブッシュ政権は、方や、イラクへの兵員の増派を要求している。

2005年05月02日

ケネス・クラーク逝去

20050502kenneth_clark.jpgアメリカの人種隔離政策(アメリカ版アパルトヘイト)segregationを違憲とする判決、ブラウン判決を引き出すにあたって極めて協力な「科学的証拠」を提供した臨床心理学者ケネス・クラークが亡くなった。享年90.

彼については、拙訳ナット・ヘントフ『アメリカ、自由の名のもとに』にヘントフの筆による長文のエッセイが掲載されている。

彼の業績のなかで有名なのが「ドール・テスト」。黒人と白人の人形を黒人に選ばせ、黒人の美的感覚が人種隔離制度のためにいかに歪められているのかを「立証」した(心理学的には、しかし、この結論には多くの反論があった)。

これで、公民権運動を担い、先頭に立った人の多くがもうこの世にいなくなってしまった。思いつくのは、彼より1世代若い、ブラック・パンサー党幹部、ボビー・シール、キャスリーン・クリーヴァー、イレーン・ブラウンくらいか…。

一方、公民権運動が目的としたものは達成されていない。それはおろか、一度は勝ち取った成果さえも、新保守主義、ネオ・リベラル、ネオコンと続いた過去四半世紀の歴史のなかで、ほぼ転覆されてしまっている。

2005年08月26日

クウェイシ・ムフーメが反戦演説

20050826kuweisi_mfume.jpg昨年NAACPの会長を勇退したばかりのクウェイシ・ムフーメが、イラク戦争をベトナム戦争にたとえ、米軍の撤退を要求する反戦演説を行った。

彼は、かねてからの噂どおり、来年の中間選挙でメリーランド州上院議員に立候補しようとしている。

このような動きは、ウィスコンシン州の民主党上院議員ラッセル・フェインゴールド、ネブラスカ州の共和党上院議員チャック・ヘーゲルらの反戦の動きに鼓舞されたものであることはまちがいない。というのも、ブッシュ再選直後のムフーメは、かなりホワイト・ハウスに遠慮していたからである。

上院議員候補を決める民主党予備選挙の第一ラウンドは現地アメリカで9月12日。日本の総選挙の翌日であり、あの「テロ」からまるまる4年を閲したときである。

2005年08月30日

アル・シャープトンがイラク反戦の姿勢を鮮明に

黒人指導者で前の大統領選挙民主党予備選に立候補したアル・シャープトンが、キング牧師が42年前に「わたしには夢がある」の演説を行った8月28日に、イラク反戦の姿勢を明確にした。これはここ最近のアメリカの世論の変化の現れでもあろう。

2005年09月06日

何もわかっていないジョージ・W・ブッシュ

ブッシュ大統領がニューオーリンズを訪問している模様が先程NHKで放送された。曰く

"Let the people get BACK on your [sic] feet"
(ちなみに、これがいわゆるブッシュ語、英語では、ご存じのように、この掛かり受けでは、on their feetになる。この大統領は本当にイェール大学卒なのだろうか?)

この人はやっぱり何もわかっていない。

上の表現のon one's feetが自立という意味は承知の上で言う。

「自らの足」立つ姿に「戻る」???

被災者には避難する「足」がなかったのだ。あらゆる機関がprivatize民営化された結果、彼ら彼女らからには、天災を逃げる「足」がなかったのだ。

「自らの足で立つところに戻す」。虚言である。彼ら彼女らから足を奪ったのは、誰だ!

彼ら彼女らが、on their feetで生きていく術を立ったのは、共和党保守派→民主党ニューリベラル→共和党ネオコンサーヴァティブと続いた政権である。

福祉国家にテロ攻撃をしかけたのは、ジョージ・W・ブッシュ、とその郎党である。

Mobilze Black Power Agaist Conservative Onslaught!

イライジャ・カミングスを初めとする黒人連邦議会連盟(Congressional Black Caucasus)のメンバーたち、さらにはヒップホップスターKayne Westがブッシュ政権の批判を公言し始めた。

わたしは、受動的なただ単なる被害者として黒人を描くことは避けてきた。彼ら彼女ら(そしてわたしたち)は歴史を創り、社会を創り、世界を創る主体だからだ。

ニューオーリンズが始まる世界創り、現在は詳報を収集中であるが、逐一ここ、もしくは

http://www.fujinaga.org/

で報告していく。

conservative onslaughtに対する反撃は、これから始まる。

2005年09月07日

ジェシー・L・ジャクソン議員のブッシュ批判

ハリケーン・カトリーナに対するブッシュ政権の反応に対し、下院議員のジェシー・L・ジャクソンが鋭い批判を展開した。曰く

「多くの黒人は、彼ら彼女らの人種、資産状況、そして投票行動がハリケーンへの反応を決めた要因であると感じています。それが事実だと断言はできませんが、多くの貧しい人たちを、これまで貧困からの脱出方法を提示せぬまま放り出してきたことはあきらかです」。

この発言には、人種、階級、支持政党といった色々な要素がひとつにまとめられている。それゆえ、この批判は重いと感じられる。

天災が、ある特定の「人種」を標的にして起きるということはありえない。とすれば、今回、あまりにも不釣り合いに黒人の被害者が多いのは、それは「人種」だけが原因ではないからだ。今回のケースでは、経済環境という要素が加わったのは明らかである。

さらに、ジョージ・W・ブッシュは、前の大統領選挙で黒人票の11%としか獲得できなかった。前回より3%ほど伸びてこの数値である。したがって、もはや再選が不可能な彼にとって、黒人貧困層のための政策をするインセンティヴは少ない。

どこからどのように考えても、これは人災である。

カニエ・ウェストの発言、なぜか検閲される

ラップ・シンガー、カニエ・ウェストが行った、ハリケーン被害に対するブッシュ政権の行動批判が、アメリカのテレビネットワークの一部で検閲にあい、放送されなかった。

彼は、こう語った。

「ジョージ・ブッシュは黒人のことなんて考えちゃいない。だいたいメディアが俺たち黒人を描く姿だって大嫌いだ。黒人家族が歩いていたら、略奪者集団呼ばわり。白人家族だと、食べ物に困っていると言う。救済活動が始まるまで5日もかかったのは、被害者のほとんどが黒人だったからだ。こうやって批判をしている俺にしても、偽善者かもしれない。だって、テレビを観ていて辛くなるばかりだから、現実から目を逸らしてしまったんだ。それに、寄付をする前に買い物にも行った。そんな調子でも、いまマネージャーを通じて、俺の財布からいくら出せるか、その最大限の額がいくらになるのかを調べてもらっている。つまり、赤十字はいま最善を尽くしているだろう。その一方で、救助に使うべき人びとがいままた別の戦争を起こそうとしているんだ、その許可を貰っているんだ。俺たち黒人を撃ち殺す」。

この発言の最後の部分は、治安回復のために、政府が窃盗犯射殺命令を出したことに触れている。

それにしても、自らを「偽善者」だと認め、良心の呵責に苦しんでいるこの発言は、ひとのこころをえぐりとっている。その刃の鋭さに恐れをなしたものがいるのだろう。さもなければ、なぜこの発言が放送禁止になるのかわからない。

ハリケーン・カトリーナは人災である−−実数値から見よう

ハリケーン・カトリーナが起こしたニューオーリンズでの災害は、人災である、それを示す明確な数字を示そう。

2000年の時点で、国勢調査を行った連邦政府には、このような数値が手許にあった。

20050907katrina.jpg1.約48万人のニューオーリンズ市民のうち、連邦政府が定めた貧困者のカテゴリーに入る人間の人種別率は以下の通り。

    黒人:35%
    白人:13.7%

別の計算を用いて率を出すとこうなる。28%のニューオーリンズ市民が貧困層に属するが、その内黒人が占める率は、84%に達する。(ちなみに、全米の人口に占める黒人の比率は約12%)

2.さらに貧困者のなかで、車を所有していない家庭に住むもののは

    黒人:2万1千人
    白人:  2千人

とくに、2の数値は、過去、このブログで私が直観的に述べてきたことがあながち当てのない推論ではなかったことを物語る。彼ら彼女らは実際に避難できなかったのだ。

そして、国勢調査局が知っていたことを、ホワイトハウスが知らなかったとどうして言えよう。上の数値とて、筆者が特別なリサーチをして判明したことではない。国勢調査局のウェブサイトに出ており、それは公衆みなに開放されている。


ブッシュ失政を物語る数値は、さらに、

・ニューオーリンズ市が属するルイジアナ州兵の3分の1が、イラク戦争関連の軍事行動に従事していて、災害派遣ができる状態ではなかった。

2005年09月08日

ヒップホップ・アメリカ、ハリケーン被害者救済に動く!

Jay-Z が、カニエ・ウェストの擁護に出た。

ビルボード誌の取材に答えた彼は、検閲を受けたカニエ・ウェストの発言に対し、「ウェストを100%支持する。ここはアメリカ、言いたいことは何だって言う権利がある、言論の自由は俺たちの権利だ」と述べた。

そしてウェストの発言に援護射撃。曰く「ほんと萎えてしまうよ、こんなことがアメリカで起きるなんて。『いったいなにが起きているんだ What's Going On?"』と思うだろ。なんで反応がこんなに鈍感なんだ。さっぱり理解できない」。

アメリカの大都市の通りに何日も死体が放置されている、まさに「萎えてnumbing」しまう事実だ。このようなことが続けば、きっと人間は無感動(numbing)になる。

だから、現在、彼は、何とパフ・ダディと、ハリケーン被害者のなかでも黒人被害者救済を目的とした音楽イヴェントを協議中だと言う。

これは、ある特定の人種を救済の対象としていることで、人によっては「偏狭だ」と批判するかもしれない。しかし、白人にコーポレート・アメリカがついていて、メディアがそれを支援しているなら、黒人にはヒップホップ・アメリカがついている、わたしはそう思いたい。きっとサッチモも喜んでいるだろう。

ところで最後になりましたが、ニューオーリンズの観光名所にもなっている、ジャズ好きなら一度は訪れる場所、Preservation Hallが救済基金を設立しました。少しでも、募金、よろしくお願いします。

http://www.preservationhall.com/2.0/

2005年09月14日

ハリケーン・カトリーナ〜深まる「人種」対立

20050914katrina.jpg世論調査機関 Pew Research Center によると、ハリケーン・カトリーナへのブッシュ政権の対応、わけてもニューオーリンズでの対応に関し、黒人と白人とで大きく見解が異なることが明らかになった。

被害者がアフリカン・アメリカンでなければ政府はもっと迅速に行動したはずだと考える黒人は3分の2にのぼっている。一方、同じ見解をもつ白人は3分の1に過ぎない。

以下に報告してきたとおり、わたしもこの3分の2の黒人と同じ見解をもっている。

しかし、ここで駄目押しとして付言しておけば、ハリケーン被害自体は天災であり、それゆえそもそも「人種差別」を行うはずがないということ。天災を人災にしたのは、政策だということ。ここを区別することは、やみくもに「差別」の糾弾を行い、そうすることで真の差別が何なのか不明にさせないためにも重要である。

さて、そのようなわたしが、鋭い意見として紹介したいのが、2004年大統領選挙で、そもそも民主党の本命候補だったハワード・ディーン元ヴァーモント州知事の発言である。

彼はこう言っている。

「アメリカは、いくらそれが醜くても事実を直視しなくてはならない。この災害を生き延びたのが誰で、死んだのが誰か、それを決めるにあたっては、肌の色、年齢、経済状況が重要な意味をもったのだ」。

ハリケーンが自然の猛威だけだったなら、肌の色、年齢、経済状況を考えはしなかっただろう。「自然」がこれらを「考える」ことなどありえない。この3つの要素が意味をもったこと、それはこれが人災であるという「醜い真実」を物語っている。

2005年09月15日

ニューヨーク市長選挙で非ラティーノ白人が少数派に

11月に実施されるニューヨーク市長選挙で非ラティーノ白人ーー一般に言う白人ーーが、ニューヨークの歴史上初めて、少数派になる。

これまでずっと過半数を占めてきたいわゆる「白人」の率は、01年市長選で52%、04年大統領選で51%と漸減を続け、つぎには遂に48%になる。

これで過半数以上のブロックを形成する人種、もしくはエスニック・グループは存在しなくなった。

アメリカのいくつかの都市ーーデトロイト、クリーヴランドなど主に中西部ーーでは、1980年に同様の現象が起き、そのときには黒人が多数派を形成した。しかし、ニューヨークの場合、過半数には達しないが、比較多数を構成する集団は、ラティーノになる。

問題はこの「ラティーノ」というカテゴリ。スペイン語を話す中南米出身者を一般的に指示するーーヒスパニックと同じーーであるが、この集団の政治的傾向は著しい多様性がある。たとえばマイアミのキューバ系は共和党の支持母体である。他方、ロサンゼルスのチカノ(メキシカン・アメリカン)は民主党リベラル。

ニューヨークでは、キューバ系でもチカノでもなく、プエルトリカンがこの集団内の多数派であり、事実、民主党候補に指名されたのはサウス・ブロンクス出身のプエルトリカン、フェルナンド・フェレール。

他方、近年の投票傾向は、人種やエスニシティよりも経済的位置によって決まる方向に進んでいるという指摘もある。つまり、住宅所有者であれば、黒人であっても、ラティーノであっても、アジア系であっても、白人であっても、共和党を支持する確率が高まってきているのである。

昨年、ロサンゼルスでは、史上初のチカノ市長が誕生した。他方、ニューヨークの歴史上初めて黒人として市長となったデイヴィッド・ディンキンスは、「最初で最後の」と呼ばれることさえある。

なぜならば、人種、エスニシティ内部での多様性が近年強まっているからだ。事実、ジュリアーニからブルームバークへと共和党市政が続いたニューヨークであるが、黒人からほとんど支持されることのなかったジュリアーニと異なり、黒人のブルームバーク支持者は増加する傾向にある。

もはや白人が多数派でなくなったときにいったい何が起きるのか、これは近未来に起こることの踏まえた仮説として問われてきたことだが、今やそれが現実になろうとしている。

なお、黒人指導者アル・シャープトンは、フェレール支持を表明した。

結果が注目される。

2005年10月03日

ニューヨーク市長選挙〜分裂する黒人世論

11月に行われるニューヨーク市長選挙は、共和党から現職のマイケル・ブルームバーグ、民主党からはフェルナンド・フェレールが立候補することになった。

今回の選挙でユニークなことは、フェレールがプエルトリコ系であるということである。一般的にヒスパニック・ラティーノと呼ばれる集団は、スペイン語を母語とすることを共通の特徴とするのみで、その政治的志向性は内部で大きくことなる。したがって、選挙や狭義の政治を議論する場合、この統計上の集団をひとつのグループとして考えない方が良いが、それでも近年のラティーノ人口の急増により、もはや黒人は最多のマイノリティの地位を完全に失った。

ここでさらに注目すべきは、近年、アフリカン・アメリカンの内部でも政治的傾向が変化しつつある。依然圧倒的に民主党が支持されていることに代わりはない。しかし、極めて多様なニューヨークにおいては、もはやアフリカン・アメリカンだからといって、フェレールを支持し、投票するとは限らないのである。

たとえば、現在進行中の選挙の「前哨戦」にあって、市民活動家で2004年民主党大統領予備選挙にも立候補したアル・シャープトンはフェレールの支持を表明している。しかし、ハーレムでもっとも政治力のある教会、60年代はアダム・クレイトン・パウエル・ジュニアが牧師を務めていた、アビシニアン・バプティスト教会の現牧師はブルームバーグを支持している。

これは、アフリカン・アメリカンから一桁代の支持率しか得られなかった共和党の市長、ルドルフ・ジュリアーニの頃ーー90年代、警官による過度の暴力や人権蹂躙を擁護し続けた彼のことを、アフリカン・アメリカンの運動家は彼のことを「アドルフ・ムッソリーニ」と呼んだーーと較べるならば、極めて大きな変化である。

11月、アフリカン・アメリカンの票がどちらに傾くかは予断を許さない。

2005年10月04日

ニューオリンズ復興計画

20051004katrina.jpg『ワシントン・ポスト』紙の報道によると、ハリケーン・カトリーナ、リタでもっとも大きな被害を受けたニューオリンズ第9区は復興から取り残される可能性が高くなったようだ。

被災前に人口2万人だった同区の住民の圧倒的多数が黒人。住宅の半数以上が賃貸物件。さらには、その3分の1が貧困生活を送るのを余儀なくされていた。

しかし、ロックンロール草創期を担ったファッツ・ドミノもここに住んでいれば、アラン・トゥーサンやケーミット・ラフィンズ、そしてマルサリス家らジャズミュージシャンたちもここに住んでいた。なぜならば、この街の雰囲気が好きだったからである。あるものは、「そこにはハートとソウルと美があった」と言う。

ネーギン市長は、ニューオーリンズの全ての区の復興プランを策定していた。しかし、国家安全保障省の高官は、第9区の住宅の多くは「復興させることが不可能」だと語り、連邦住宅都市計画省朝刊は、もっと厳しく「第9区を再建するのはまちがいである」と述べている。

ここは有名な観光地、フレンチ・クォーターから2マイルしか離れていない。そこで、バーテンダーやウェイター、ウェイトレス、メイドとして働いていたのが第9区の住民たちである。つまりこの街のビートを地味だがしっかりキープしていてくれたのだ。

しかし、どうやらニューオーリンズ復興は、観光名所、ジェンティリーやレイクヴューといった中流・富裕層が優先され、この街を有名にした、この街のアイデンティティである場所が後回しにされるようだ。

アメリカは、安値で不動産を買い、高値で売り抜ける不動産ファンドの発祥の地。第9区の開発がビジネス中心、つまり市場原理に任されるとなると、それはかつての住民には帰還不能を意味する。不動産価格が高くなれば、彼ら彼女らは帰って来られない。

もうニューオーリンズは消えてなくなり、ニューニューオーリンズになってしまうのだろうか。

2005年10月07日

ヒップ・ホップ界がネイション・オヴ・イスラームと共闘へ!

この10月15日は、ネイション・オヴ・イスラームのリーダー、ルイス・ファラカンが呼びかけで実施され、予測を上回る人びとを動員したMillion Man Marchの10周年になる。参加者を黒人男性に限定したことで、セクシズムとの批判を受けた運動ではあったが、今日から振り返ってみると、アフリカン・アメリカンのアクティヴィズムが見られた直近で最大のイベントになっている。

その10周年にあたり、the Millions More Movementが結成され、以前のMarchには批判的だったアンジェラ・デイヴィスらが幹部を務めるBlack Radical Congressでさえも運動への参加を訴えている(もちろん、それには、セクシズムを乗り越えたという事実があってのことではあるが)。

そして、さらには今度はヒップ・ホップ界が、行進参加への呼びかけを行った。契機は、そう、このブログでも伝えてきたハリケーン・カトリーナが引き起こした災害である。Jay-Zは、このブログで紹介した発言を実行に移したのだ!。

彼のほかに呼びかけに参加しているアーティストは、有名な人間のみ挙げて、以下の通り:

Reverend Run, Sean Diddy Combs , Damon Dash, Jermaine Dupri, Kanye West , Ludacris, LL Cool J, Queen Latifah, Common, Wyclef Jean, Missy Elliott , Foxy Brown, David Banner, Snoop Dogg, Ice T , Jim Jones, Juelz Santana and Jha Jha of the Diplomats, Master P, Juvenile, Erykah Badu, Questlove of The Roots, MC Lyte, Fab Five Freddy, Biz Markie, Kid Capri, Cassidy, The Wu Tang Clan , Xzibit, Tony Austin, Humpty Hump, the Ruff Ryders, dead prez, Russel Simmons.

2Pacとビギーが好きな人はご存じだろうが、前のMillion Man Marchのときは、まだウェストコーストとイーストコーストの「ラップ戦争」が起きる以前であり、彼ら二人をフューチャリングしているテイクが録られた。これは、ヒップ・ホップが好きな人間にとって、"We Are the World'でのマイケル・ジャクソンとスプリングスティーンの共演を凌ぐ価値をもつものである。

さあ、じっくり今回の呼びかけを行っている人をもう一度ご覧くだされ!。ウェストコーストのSnoopとイーストコーストのPuffyの名前がある!(詳細は、http://www.millionsmoremovement.com)

そしてまた、これは単なるエンターテイメントではなく、強烈なメッセージをもった政治運動である。彼ら二人が台上に立つのも興奮するだろうが、ワシントンD・Cのモールに集まる人びとの光景の方がもっと人びとを奮い立たせるだろう。15日、そこにどれだけの人びとが集まるであろうか。

多くの職員を解雇せざるをえない立場に追い込まれたネーギン市長の悔しさを忘れずにいよう。そのうえで、さあ、Keep On Moving, Move on Up!。

募金お願いします。
http://www.jrc.or.jp/sanka/help/news/817.html

2005年10月21日

Million More March 続報

20051021million_men_march.jpgこのブログで紹介したMillion More Marchが先週末実施された。

主催者は80万人の参加を予測していたし、わたしのもとに届いた映像を見るとワシントンのモールはほぼ人で埋め尽くされていた。さらに、今回は、10年前の行進にも参加していたジェシー・ジャクソン・シニアにアル・シャープトンに加え、前回は男性に参加者を限定した行進は性差別にあたるとして協力を拒否したとNAACPとNULの会長も参加した。

カトリーナ災害を受け、久しぶりに黒人活動家の統一戦線が張られたのである。

しかし、前回の行進が日本を含め全世界に衛星中継されたのに対し、今回の報道はきわめて限られている。

『ワシントン・ポスト』の記事によると、「真剣な政治デモというより、フェスティバルのムード」があったらしい。1963年のワシントン大行進のとき、それを「ピクニック」「茶番劇」といって揶揄したのはあのマルコムXだった。ふと、このエピソードを思い出してしまう。

実際の反響など、これから追跡調査しなければならないことは多いが、それでも確実にこれだけは言える。アメリカ社会を動かすには、残念ながら、至らなかった。

他方、ブッシュ政権は、ハリケーンで被害を受けたメキシコ湾岸地域の「復興」のために大きな財政支出が必要だということを理由に、歳出「カット」に踏み切った。福祉予算をカットしたのである。さらにまた、高額所得者に対する減税も行おうとしている。再建には好景気が必要で、それは富裕者を優遇しないと訪れないとする破綻したレーガノミックス政策をまだ続けようとしている。さらには、最低賃金の一時凍結を実施した。これも「復興」を早くするためらしい。

富裕者の生活は「復興」される。貧困者の生活はもとには戻らない。

2005年11月06日

ニューヨーク市長選挙迫る

いよいよ7日にニューヨーク市長選挙が迫ってきた。もうテレビ討論会も終わり、実質上の選挙戦が終了した。

もっとも最近の世論調査では、現職で共和党のブルームバーグが、初のプエルトリコ系候補で民主党のフェルナンド・フェレールを、59%対31%の大差でリード。大きな狂いやハプニングがない限り、ほぼ勝敗は決まってしまった。

ラティーノ(ヒスパニック)という「人種」集団は、政治的には多種多様な傾向をもつ(共和党右派のキューバ系、民主党リベラルのチカノ・プエルトリコ系、等々)ので、フェレールが人種意識に訴えることはもとより無理だったのだろう。

さらに興味深いのが黒人票の行方。

なんと1936年以来初めて、共和党支持が上回っているのである。(ブルームバーグ支持51%、フェレール支持42%)。

「警察暴力」や「人種別プロファイリング」を「野放し」にした前職のジュリアーニと異なり、ブルームバーグは共和党のなかでも「中道」に位置していた。それが強い影響をもったのは否めない。しかしそれ以上に、もはや黒人という集団が、内部に多様な差異を抱えるようになってしまったため、共和党保守派流の小さな政府志向を強める人びとが増えてきたのだろう(ライスやパウエルのような人びとが、ここですぐに思い浮かぶ)。

たとえば、ハーレムの目抜きどおり、125丁目の地下鉄駅で、フェレールは、元市長で黒人のデイヴィッド・ディンキンズ、市民活動家アル・シャープトン、黒人女性でブルックリン区長のC・ヴァージニア・フィールズとともに演説を行ったらしいが、立ち止まる人びとは少なく、かえって迷惑と思われたという話が報道されているくらいだ。かつては、白人候補がハーレムを訪れるだけで話題になった。それはもう遠い過去の話になりつつある。

さて、月曜日いかなる結果が出るだろうか。

パリ暴動の報道

はっきり言って、日本のメディアのパリ暴動報道は用語の使い方を間違えている。

暴動しているものを「アフリカ系」と表現したのは、フジテレビのみ。

あとはみな「アフリカ系移民」と形容している。

下に記しているとおり、暴徒化しているものは青年たちであり、彼ら彼女らはフランスで生まれ、フランス市民権をもっているフランス人だ。アンリと同じ、肌の黒いフランス人だ。

彼ら彼女らを「移民」と形容し、そうすることで無意裡にフランス社会から排除してしまう感受性の低いinsensitiveな行為こそが彼ら彼女らを暴徒にしている!

「ロング・ホット・サマー」のときにマルコムXはこう語った。「私はアメリカ人ではない、わたしはアメリカニズムの犠牲となっているアフリカ人だ」。

では、パリの暴徒はこう言うだろう。「わたしは、そうおっしゃる通り移民、フランス人ではない、そうでしょ、わたしはグローバリズムの犠牲となっているアフリカ人だ」。

フランス暴動ーー『ニューヨーク・タイムス』の社説

以下の記事で、フランスの暴徒を「移民」と呼ぶ報道の在り方に疑問を呈したが、アメリカの新聞は、同じ経験があるために、このところをはっきりと理解している。

『ニューヨーク・タイムス』は、11月4日づけの社説でこう論じた。

「フランスは自国の移民制度を誇りに思っており、そしてそれにこだわり続けている。その制度とは、いちどフランスの国に入れば、みんながフランス人になれるのであり、それゆえ病ぢょうであり、云々というものだ。いま現在わかったことは、誰もがみなフランス人になれるというわけではないということだ」。

さらには、暴徒をゴミscumと呼び、弾圧政策を主張し、そうすることでさらに暴動を激化させたーーフランスという国には、このような歴史的事例がたくさんある、その事例とはフランス人が誇りにする「革命」のことだーー内務大臣を批判し、弾圧ではなく、雇用機会、人並みの住宅、教育を「新しい市民」に提供することだ、と論じている。

アメリカはこの論説のことばから学ぶことが多くある。久しぶりに良いものを読んだ。

2005年11月07日

21世紀のマリー・アントワネット?

下に書いた『ニューヨーク・タイムス』の記事を補完する証言がみつかった。

23歳の北アフリカ「系」フランス人曰く。
「書類のうえではわたしたちはみんな一緒なんです、でももし名前がモハメドだったら、どんなに高い学歴をもっていても、空港で荷物を運ぶ仕事に就くのが良いところなんです」。

現在暴動の最中にあるフランスの都市郊外では、失業率が30%以上に達するという。

そのなか、パリ近郊のオルネー市の助役はこう公言した。
「プレイステーションのゲームをしていればいいのに、本物の警官を攻撃してきているんです」。

30%の失業率といえば、ほぼコミュニティ全体が慢性的失業にあると言っても過言ではない。そのようなコミュニティの家庭「みんな」にプレイステーションがあれば良いのだが…。

フランス大革命を思い出さずにはいられない。有名な逸話だが、パンを求めている群衆にマリー・アントワネットはこう言ったとされている。「あら、パンがなければケーキでも召し上がれ」。

2005年11月08日

ローザ・パークスを讃える日

さて、そろそろ「あなたは暴力を肯定するのか」といった見当違いの反論が来ないように、「建設的」な運動を紹介しよう。(もっとも、かかる類の反論はマルコムXに度重なり投げつけられたものであることを思うと光栄に思うし、本心は、「マルコムの怒れる息子」H・ラップ・ブラウンのように、"Bay Burn!, Burn!"と言いたいところだが…)。

非暴力の運動のシンボル、最近逝去したローザ・パークス、彼女が逮捕され、その後のバスボイコット運動が起きた日が12月1日である。その日を、彼女を讃える日とすることはよくわかる(ありふれたこと…)。

しかし、そのなかから「讃えるならばどうすればパークスの偉業を表現できる」と考える団体が現れた。Troops Out Now!

12月1日に、ウォール街でデモンストレーションをする。それと同時に、デモの要求に同意しているものは、学校・職場でのゼネスト、そしてショッピングのような消費行為も慎むこと」で、支持の意志を表明して欲しいと呼びかけている。

要求項目は以下のとおり
・イラクに展開している部隊を即刻撤退される。
・保険予算、住宅予選、教育予算ではなく、戦争のための予算の削減
・ハリケーン・カトリーナ被災者に対し、合法的で義にかなった救済策
・学校で兵隊を徴募している行為を停止すること
・最低賃金を改めて定め、労働者の組織権を認めること

パークス夫人は、カトリーナの詳細はわからないだろう(彼女は北東部のデトロイトに住んでいた)でも生きていたらきっとこうするだろう。

そしてまた、パークス夫人が火種となった運動のカリスマ的指導者マーティン・ルーサー・キングならば、きっとイラク戦争には「最初から」反対しているに違いない。

国が過った道を進んでいる、これが気づいたときに大声で政府の批判をするのは、とてつもなく熱い愛国心だ。

さぁその愛国心を占めそう。
平和な行動で。

詳細は、http://www.troopsoutnow.org/

2Pac が政府の監視下にいた?

久々に自分の庭、2Pac関連の最新ニュース。

ジョージア州選出の連邦下院議員シンシア・マッキニーが、(1)政府が所有している2Pac関連の情報の公開、(2)国立公文書館に2Pacのレコードコレクションを創設すること、を要求する法案を提出した。

死後10年経ってもまだ続く彼の人気を考えると、(2)はとりわけて説明いらないだろう。興味深いのは(1)の方である。

マッキニーは、2Pacが銃殺されたとき、政府が監視下に置いていたと考えているらしい。これまでも2Pacの殺害については政府陰謀説が浮上したことがあるが、真相究明に連邦議会議員が動いたのはこれが初めてだ。

ところで、彼の母、Afeni Shakurは、ブラック・パンサー党員だったことで有名である。さらには、Afeniの場合は、「黒人急進派を懐柔させるか、さもなくば抹殺する」ことを目的とした悪名高いFBIの監視監督弾圧作戦COINTELPROの標的となり、冤罪に問われた。(COINTELPROやAfeni冤罪事件の詳細は、筆者のサイトの業績のコーナーで論じています)。

このことを鑑みると、シンシア・マッキニーは、COINTELPROのような作戦がその後も継続しており、きっと政府は何らかの秘密を握っているに違いない、と思っていると考えられる。その実、彼女には、2002年にも、同じくCOINTELPROの標的となっており、FBIから様々な嫌がらせを受けていたマーティン・ルーサー・キングに関する秘密書類の即時公開を求める法案を提出した議員活動歴がある(ちなみにその法案は、可決されなかった)。

これはブラック・パンサー党研究者の会合で、パンサー党員の法廷闘争に弁護士として加わった人から聞いたことであるが、COINTELOPRO関連の書類の公開を情報公開法に則って要求しても、望みのものを手にいれるのに最低10年はかかるらしい。しかも今や、情報公開の原則を踏みにじる愛国者法が存在し、かつては非合法だと宣せられたCOINTELPROと同様のことーー罪を犯していないものの生活を監視することーーはやりたい放題の情況にある。

このような事情を考えると、マッキニーの法案はおそらく可決されないであろう。それがいかに「真実」を知るのに重要であろうとも。

そしてまた、このような情況が存在するかぎり、ことあるごとに政府の陰謀説が流布するーーたとえば、政府は、ニューオーリンズの観光地区を守るために、第9区近くの河岸壁を爆破したーーことは避けられない。

マーティン・ルーサー・キングの夫人、コレッタ・スコット・キングは、このような歴史の闇を照らしだすために、関係者の特赦を前提にした調査の実施を主張している。これは、南アのマンデラ政権が行ったこと、真実究明委員会の審議にヒントを得たものだ。アメリカにも確かに真実究明委員会が必要である。それはキング暗殺、パンサー党の弾圧の過程を確実に明らかにしてくれるだろうし、さらには2Pacの殺害をも照らしだすかもしれない。

2005年11月09日

ローザ・パークス葬儀の陰で

20051109delores_tucker.jpgミセス・ローザ・パークスが逝去したのが10月25日。その陰で、公民権運動への貢献においては決して彼女に「劣って」いない女性がこの世を去っていた。その黒人女性の名前はミセス・C・デロレス・タッカー。

死亡したのは10月12日。葬儀にはアル・ゴア元副大統領(2000年大統領選挙の本当の勝者で真実の大統領)も出席している。彼女の死去は、しかし、ミセス・パークスの本葬が終わるまで公にされなかった。理由は明かされていない。

投票権法制定へ巨大な世論を動員したセルマ闘争のとき、マーティン・ルーサー・キングのすぐ横に並んで行進したのが彼女。その後、彼女は、黒人女性、否、黒人の政治家がまだ少なかった時代の1971年、ペンシルヴェニア州州政府の閣僚を務めた。投票権法の精神を生かすため、郵便による有権者登録を可能にし、21歳だった選挙権を18歳にした。そして全米黒人向上協会(NAACP)の理事も務めた。

しかし、1992年、彼女の名前は、汚れたものになってしまった。2Pacら、ギャングスタ・ラップの歌詞に抗議し、それを弾圧する運動を、「ドラッグとの戦争」の指揮官として全米の刑務所服役者数ーー人口に不釣り合いな割合が黒人ーーを一挙に引き上げたウィリアム・ベネットと組んでしまったのだ。

その後、彼女は、タイム・ワーナーの株式を、株主総会で発言権が得られるまで買い、総会の場で経営陣に同社が発売しているラップの歌詞、なかでもその露骨に卑猥な箇所を読み上げるように迫った。(なお、経営陣は彼女の要求を無視し、逆に彼女を告訴した)。

また2PacがNAACPの「イメージ向上貢献章」にノミネートされたとき、彼女はかつて理事を務め、100万ドル以上の私財を寄付したこの歴史ある人権団体の大会でピケを貼った。

2Pacも黙っていなかった。とても彼らしいことではあるが、歌詞で露骨に彼女を揶揄したのだ。その後、両者の対立は、彼の死後も、彼女が2Pacの遺産相続人を名誉毀損・冒涜罪で訴えるに至る。

そういえば、ミセス・ローザ・パークスも、晩年はアウトキャストやIce Cubeと名誉毀損・冒涜で訴訟を起こしていた。

公民権世代の感性とヒップ・ホップ世代の感性は明らかに異なる。だから「評価」も難しい。(なおこの記事は、彼女たちが闘ってきたものを尊重し、彼女たちには敬称を付けた)。

2005年11月10日

ニューオーリンズ復興の姿その1

ニューオーリンズの老舗の新聞 New Orleans Times Picayune が伝えたところによると、ニューオーリンズの公安を維持している「当局」ーー誰の命令で動いているのかは定かでないーーは、自分の家に帰ろうとする住民を追い返したという。あれだけ市民団体が警告し、監視しているのにもかかわらず、追い返されたのはアフリカン・アメリカン。

さらに、彼ら彼女らは、そもそも避難するときから、想像を絶する経験をしている。彼ら彼女らが避難に応じたのはニューオーリンズが浸水してから後。そこで、「黒人が市内で暴れている」という報道を聞き、彼ら彼女らがミシシッピ川にかかっている橋を渡ろうとすると、橋の向こうの自治体(Grentaとジェファーソン郡保安部)は威嚇の銃を発砲し、渡河を妨害した。

そして、今度は市内に帰れない。なぜならば「どうせ帰ってもやるのは盗みだけ」という風評がたってるから。

そこで、元ブラック・パンサー党ニューオーリンズ支部の創設者の一人で、いまも市民活動を続けているMalik Rahimを中心に抗議デモが組織された。ミシシッピ川にかかった橋を渡るデモである。

公民権運動史に親しんだものにとって「橋」と聞けば、すぐに思い浮かぶところがある。セルマ闘争のときに、マーティン・ルーサー・キングの団体、SCLCが組織したデモ隊が渡ろうとし、アラバマ州兵に凄まじい暴力で弾圧された光景の場、エドモンド・ペッタス橋である。現在、そこは、アラバマ州の史跡に指定されている。

今回の元ブラック・パンサー党員が組織したデモ隊は、40年前のエドモンド・ペッタス橋を渡ったものたちと同じく、公民権運動を鼓舞した運動歌「我ら打ち勝たん」を歌った。パンサー主義と非暴力は、約40年を経たのちに、ミシシッピ川の上でひとつになった。

このデモ隊を、ニューオーリンズ当局は、そのまま通り過ごさせたらしい。報道によると「セルマのようなことになるのを避けるため」。

悪名ばかり高くなっている50 Centは、最近こう述べた。Any publicty is good publicity。公民権運動が成功した理由のひとつは、メディアを大々的に動員できたからである。それを巧く回避されては、「何が起きているのか」は伝わらない。(最近、日本の報道で、「カタリーナその後」を伝えているところがあるだろうか?)。

さて、では、毎日々々、ニューオーリンズで何が起きているのかを伝えてくれるブログを、これからこのテーマをとりあげる度に伝えて行こう。

まずは、こうしている本日、南部屈指の大学、ノース・カロライナ大学チャペルヒル校で、戦略会議を開いている団体のサイトを紹介する。

2005年11月15日

ニューヨーク市長選挙結果

ご存じの方も多いだろうが、ニューヨーク市長選挙では共和党現職のマイケル・ブルームバーグが勝利した。しかも、2位になった民主党フェルナンド・フェレールに得票率で20%もの差をつける圧勝で終わった。

興味深いのが、人種別の投票の動向。3期前のニューヨーク市長選挙で、共和党候補のルドルフ・ジュリアーニは黒人票の約5%しか獲得できなかった。それに対し、今度の選挙では、ある分析結果によると、ブルームバークは、黒人票の半数近くを獲得したという。

さらには、ブルームバーグはプエルトリコ系のフェレールに流れるとみられたラティーノ票の30%も獲得している。

これは選挙前の予想がそのまま当たった形になった。

人種やエスニック集団内部の多様化が進んだため、もはやこれらの人間の属性は政治行動を予測できる決定的な因子にはならなくなっている。

さて、ここで相反する二つの展開が見えてきた。メキシコ湾岸地区のハリケーン被害の際には、世論が人種によってまっぷたつに分かれているのが判明した。今度は、人種が政治行動を決定しないことが判明した。

ここでせめても確実にわかることは、多人種社会のアメリカはいま岐路に立っているということである。

2006年01月06日

ニューオーリンズ復興ニュース1

ニューオーリンズの不動産市場が過熱状態にあるらしい。それは、ハリケーン直撃直後ではまったく考えられなかった規模になっている。

例えば、ミシシッピ川の西に拡がるウェスト・バンク地区では、ある不動産業者によると、昨年11月の売り上げは、対前年比99%の上昇を示したらしい。隣接郊外になると、さらに活況状態は激しくなる。市の西側の郊外では、対前年比189%を記録した。

しかし、この活況は、想像がつく人びともいるに違いないが、洪水の被害を受けた場所ではなく、そもそもハリケーン被害のもっとも少なかったところにかぎられている。

実のところ、不動産市場を加熱させているのは、復興計画が未策定のままでは自分の持ち家の将来がどうなるのかわからないので、「第2の家」を買おうとしている人びと。

この情況を見て、地元の不動産業者は、「待った甲斐があったってものだ、やっと(災害保険の)チェックが届いたんだよ」と述べている。

もちろん、もっとも被害の激しかった第9区は、もっとも保険加入率が低く、その逆に失業率が高い。「第2の家」など望むべくもない。

このようななか、連邦政府は被災者への支援の打ち切りを矢継ぎ早に発表している。何もかもビジネスに任せたらどうなるのか、その残酷な矛盾がいまニューオーリンズに現れている。

2006年01月16日

今日はキング・ホリデイです

今日、1月第3月曜日は、アメリカ黒人にとって特別な日である。マーティン・ルーサー・キングの誕生日(1月15日)を記念し、この日は、連邦政府の定めた休日となっている。

キングの誕生日を休日にしようとする運動は、1980年代に頂点を迎えた。スティービー・ワンダーがその運動のデモに加わり逮捕されたこともあった。多くの日本人が歌詞を理解していないように思われるが、彼の名曲、"Happy Birthday"は、その逮捕の時の怒りを語り、キング牧師への感謝の気持ちを歌い上げたものである。

休日になったのはいいものの、しかし、ここのところこの日が近づく度に、キングならびにキング家に対するネガティヴな報道が続いている。例えば…

『ニューヨーク・タイムス』は、キングの墓、研究施設、ミュージアムの複合施設、Marthin Luther King Center for Nonviolent Social Change(写真は、その施設にある公園、墓を中心にした池のまわりを黒人の子供たちが闊歩する姿)を売却しようとする動き、ならびにその動きに対して、キングの子孫のあいだでの対立が激化していることを伝えている。

『ワシントン・ポスト』は、キング家が名演説「私には夢がある」の知的所有権を保持しているがゆえに、演説の全部を多くの人びとが聞くことができない、と伝えている。(このことに問題があることは確かだが、彼の演説は、上記のセンターに行くとたった10ドルで売られているし、ネットで購入することもできる。学校が買えば、教材としての使用は自由だ。『ワシントン・ポスト』は、キングがもっとも愛した「もっとも恵まれていない人」がキングの財産管理人の貪欲さの犠牲になっている、と仄めかしているが、正直なところ、私にはこの論理がわからない。10ドルの教材を学校が買うことができないならば、それは根本的には教育をないがしろにしている行政の問題である)。

さらに、地元アトランタの『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』は、キングの母親が所有物であった聖書が、本日、ネットオークションにかけられることになっている、と報道している。

『ワシントン・ポスト』が典型的にみられるように、これらすべてが、キングの子供たちの生き方を批判したものだ。上に書いたように、なかにはさっぱり論理がわからないものがあるが、多くのものは、残念ながら、正鵠を射ている。キングの子供たちは、キングほど「立派」な人物ではない。

しかし、そもそもマーティン・ルーサー・キングという人物自体が、人類の歴史上稀にみるカリスマと政治的嗅覚とをもった人物であった。彼と比較されては、しかも偶像化され英雄化された彼と比較されては、ほとんどのものが色褪せる。

雑音に惑わされないように、この日の意味を確認しよう。

キング博士、Happy Birthday!

I just never understood
How a man who died for good
Could not have a day that would
Be set aside for his recognition
Because it should never be
Just because some cannot see
The dream as clear as he
that they should make it become an illusion
And we all know everything
That he stood for time will bring
For in peace our hearts will sing
Thanks to Martin Luther King

Happy birthday to you
Happy birthday to you
Happy birthday
     
Happy birthday to you
Happy birthday to you
Happy birthday
(From Stevie Wonder, "Happy Birthday")
Stevie Wonder - Hotter Than July - Happy Birthday

この歌は、一般に流布しているイメージと違って、友達や家族に捧げた歌ではないんです。キング牧師の誕生日を休日にする運動のテーマソングなのです。

2006年01月17日

ゴア元大統領候補とキング博士

ゴア元民主党大統領候補が、ブッシュ批判を展開した。

いまとなっては、ゴアはかなり昔の政治家だった感がする。しかし、彼が大統領選を戦闘ったのは、わずか6年前。しかも、現実のところ、ブッシュに勝利していた。

したがって、ブッシュが就任したとき、彼の支持基盤はきわめて脆弱なものだった。投票の結果に大きな影響をもったのが連邦最高裁の判決だったことから、「裁判所に指名された史上初の大統領」と揶揄されたこともある。そんな彼の支持を固めてしまったのが、皮肉にも、911テロ。

そんな選挙で敗れたゴアが、キング博士の名前を喚起しながら、ブッシュを批判した。驚いたのはその内容。キングの思想は非暴力、ブッシュは戦争が好きだ、といったものではなかったのだ。キングもかつて政府の違法なスパイ活動の犠牲者であり、ブッシュがやっていることは当時の政権と同じだ、と語ったのだ。

キングやミリタントな黒人活動家が、FBIから監視され、嫌がらせをされ、さらには迫害されたことは現在では異論の余地のない事実である。しかし、そのことに言及し、現政権の批判をすることは、極めて稀なことである。なぜならば、このことは、よくキングの業績に関するパブリック・メモリーから消え去っている時代、体制批判をすることで急進化した1966年以後のキングの姿だからである。

1963年に「私には夢がある」と語ったキングは、ある意味では、「ナイーブ」だった。1967年には、しかし、マルコムXのいう「アメリカの悪夢」を直視したうえで、「わたしにはそれでも夢がある」と語るようになっていった。そのように述べるにあたって、国内の貧困の撲滅より、ベトナムの共産主義者と闘うことに湯水のように税金をつぎ込む政権の批判をするようになっていった。

キングへのFBIの監視は、この時期に急激に強化されている。ゴアは、その時代のキングのイメージを喚起したのだ。

他方、ブッシュは、キング・ホリデイの日、国立公文書館で「奴隷解放宣言」の原典を観に訪れ、「キングの思想はリンカーンのものに拠って立っている」と、あたりさわりのないことを述べた。

正直なところ、リンカーンとキングの思想的類似性がどこにあるのか、私にはさっぱりわからない。リンカーンは、奴隷解放の後、黒人をアフリカに送還しようと考えていたのである。なぜならば、黒人と白人が共の暮らす社会など「夢にさえ」考えられなかったのだから。

キングとリンカーンに関係があるとすれば、それはキングの名演説がリンカーン記念堂で行われたということに過ぎない。

ブッシュの喚起したキングのイメージと、ゴアのそれとには大きな違いがある。そして、この違いは大きい。なぜならば、それはアメリカの60年代、公民権運動をどう解釈するかにかかっており、共産主義との戦いとテロとの戦いを同一視するブッシュの世界秩序解釈・歴史解釈をどう評価するかにかかってくるからである。

2006年01月22日

ハリー・ベラフォンテ、ブッシュ政権を酷評

ベテランの黒人シンガー、ハリー・ベラフォンテが、ブッシュ政権を酷評。彼は、ブッシュ政権をナチになぞらえ、こう述べた。

「国家保安省という名称の装いを新たにしたゲシュタポが、こっそりとスパイ活動をして回っている暗い時代に突入してしまった。市民の立憲上の権利が停止状態にあるのだ」。

さらには続けてこう述べた。

ブッシュは「かなり怪しい経緯を経て権力を獲得し(2000年大統領選挙のことーー筆者注)、この国の国民に嘘八百を並べ、国民を過った道に導き、過った情報を伝え、数十万人にのぼる我々の子供たちを、我々を攻撃したことのない国への侵略のために送りだした」。

ブッシュはこう言われても仕方がないだろう。2000年大統領選挙の結果は、その後の調査が明らかにしているところによると、ゴアが勝利者。さらにイラク戦争開戦前のいわゆる「大量殺戮兵器」の情報に関しては、それが間違ったものであると公式に認めている。

そんなブッシュを、ベラフォンテは、「世界でもっとも凶悪なテロリスト」と呼んでいる。

ベラフォンテがここまで怒るのも無理はない。彼は、公民権運動の最盛期、学生非暴力調整委員会やブラック・パンサー党など、急進派を熱心に支援した。一級のエンターテイナーであった彼は、相当の額の資金援助を行っている。

しかし、その公民権運動急進派は、政府から破壊されてしまった。そのときに行われたのが、市民のプライバシーの権利を蹂躙して行われたスパイ工作である。そして、9・11テロ後に制定された「愛国者法」は、このスパイ工作を合法化してしまったのだ。

ベラフォンテは、だから、十分承知している。この政権がいかに危険なのかを。

2006年01月25日

投票権法の現在

今から40年前に制定された投票権法(別名、1966年公民権法)は、19世紀末に選挙権を実質上剥奪されていた南部に住む黒人の投票権を保証し、その後の黒人政治家の成長を促した画期的な立法だとされている。

確かに、1970年代に入ると、州議会や連邦下院において、黒人議員や公職者の数は急増した。しかし、その法律がいま3つの面で、大きな問題に直面している。

まず第一にあげられるのが、過去25年のあいだ、1992年から2000年までの8年間を除き、共和党保守派(レーガン、ジョージ・H・W・ブッシュ、ジョージ・W・ブッシュ)が行政権を握ったため、この法律へのコンプライアンスを監視する機関、連邦司法省公民権委員会の担当部局の人員が激減された。過去9か月をみても、投票権部局の人員は3分の2に人員カットされている。

また、10年毎に行われる連邦下院議員の選挙区改正では、政治的思惑から黒人の政治力のダイリューションを狙った政策が追求されている。一部の選挙区を黒人多数にするーーmanority-majority districtと呼ぶーー一方、それより多くの選挙区で白人過半数を維持する。そして、暗に人種を争点とした選挙戦を繰り広げ、人種のあいだにくさびを打ち、人種対立を煽ることで、南部保守勢力を維持しようという政策が追求され、そしてまたこれが成功している。このような政治的思惑をもった一種のゲリマンダーは、共和党保守政治の土台のひとつとなっている。

つまり、現在の政治的状況下では、同法は、黒人の政治力を保証する力にはなり得ていないのである。

そこに最後の問題が出てきた。同法は時限立法であり、今年がその時効の年にあたる。共和党保守派が連邦政府を主導するなかで、黒人が有利になる選挙区変更は「逆差別」の名のもとに却下され、白人が有利となる政策が追求されているいま、同法の制定によって最初に「恩恵」を受けたベテランの黒人議員から、時効の延長に反対するものが現れてきているのだ。

投票権法が歩んだ道のりは、ポスト公民権運動の時代の隘路を見事に映しだしている。

2006年01月30日

ニューオーリンズ復興ニュース2

20060130katrinaブラウン大学の社会学者が、驚愕する予測を発表した。

もしハリケーン被災地が再建されず、貧困者へ政府が支援を行わないとすれば、黒人市民の80%がニューオーリンズに帰ってこなくなる可能性が高いらしい。

この数値は、国勢調査資料データと被災地の地図の分析から導きだされたものである。災害の程度が中位以上のもののなかに黒人が占める比率は75%、そのうち29%貧困ライン以下の所得しかなく、失業率は10%を超えていた。したがって、転居至近の援助がなければ、そのまま現在避難している場所に居続ける可能性が高い。

また、ニューオーリンズに帰れなくなる白人も50%にのぼる。

その結果、災害直前に48万人だった同市の人口は、14万人まで急減することになるらしい。

なお共和党議員でさえも、復興公社を設立し、連邦政府が再建事業に積極的役割を担うことを求める法案を提出しようとしているが、行政府の反応は良くない。ブッシュ政権は、公社をつくると公務員が増えるという理由で反対し、復興の中心はあくまで「民間」にするという方針を堅持している。「民間」が儲からない復興事業に乗り出すであろうか?

ニューオーリンズは、19世紀の一時期、ニューヨークやボストン、フィラデルフィアを凌ぎ、一時期全米一の人口を誇った時期がある。その街がいまやなくなろうとしている。

2006年02月01日

コレッタ・スコット・キング逝去

20060201corettaking日本時間22時31分、公民権運動が生んだ巨星のひとりがまた亡くなりました。あまりにも続く訃報に、かなり強いショックを私は受けています。

キング博士の夫人で、キング博士暗殺後は自分自身が活動に身を投じた人物であるコレッタ・スコット・キングが、カリフォルニア州サンディエゴから20マイルほど南、メキシコにあるホスピスで息を引き取りました。享年78。

キング博士の「右腕」で国連大使やアトランタ市長を務めたアンドリュー・ヤングがテレビ番組で語ったところによると、コレッタ・スコット・キングは、眠るように息を引き取ったそうです。昨年の8月に脳梗塞で倒れ、その後は、1月初めにチャリティ会場に姿をみせたのみ、今年のキング・ホリデイの祝典も欠席していました。

彼女は、「偉大な指導者」の妻「だけ」だった存在ではありません。キング博士が凶弾に倒れたわずか3日後、博士がそのときに従事していたメンフィス清掃労働者のデモ行進の先頭に立ち、周囲を驚かせたのは彼女です。その後、夫が創設した公民権団体、南部キリスト教指導者会議だけでなく、全米女性機構の理事も務めました。

トゥーキー・ウィリアムスの処刑があった今日から考えると、極めて意味深長なことに、自分の夫を殺害した廉で死刑判決を受けたジェイムス・アール・レイが求めていた再審請求を支持したのです。復讐ではなく真実を求めている、そう語り。

ジョージア州知事(白人)の判断で、ジョージア州は、彼女の告別式が行われる日まで、半旗を掲げます。

かつてイギリスのセントポール大聖堂で説教を行ったときに彼女はこう語りました。「今日の世界にみられる悪、破壊された秩序、混乱を前にすると、多くの人が絶望感をもちます。しかし、わたしには、あらたな社会秩序とあらたな時代の夜明けが見えるのです」。

キング博士も、暗殺される前日に、同じようなことを言っていました。いま、二人は「約束の地」で出会っているでしょう。

コレッタ・スコット・キングの冥福を祈ります。

2006年02月02日

Afrcian American Museumの建設地決定

1990年代よりブラック・コミュニティの懸案のひとつであった、国立のアフリカン・アメリカン・ミュージアムの建設地が決まった。

首都ワシントンにあるワシントン記念堂の北東、5エーカーの土地が建設予定地になった。この決定の過程には、しかし、先日ここで紹介したキング・ホリデイに似た構図の政治対立があった。

同ミュージアムの建設に反対したのは、90年代の共和党保守派の代表格二人。ひとりは上院外交委員長を務めたノース・カロライナのタバコ王、ジェシー・ヘルムス。もう一人は、ジョージ・H・W・ブッシュ、現大統領の父親である。

ジェシー・ヘルムスは、アフリカン・アメリカンに「だけ」、特別の施設を建設することは、「逆差別」だとする論陣を張った。パパ・ブッシュは、コストがかかりすぎる、と語った(つい最近、そういえば、現大統領もコストを口にしていた…)。

ところが、特定の民族に対するものならば、ホロコースト・ミュージアムというものが、ホロコーストがアメリカで起きたことではないにもかかわらず、その時点ですでに存在していた。そしてもちろん、パパ・ブッシュも、軍事費には湯水のように税金を費やした。

幸運にもその後、クリントン政権期にミュージアム建設が決定されたのだが、ここで問題は建設場所の選定になった。建設推進派は、アメリカの歴史を語るのにふさわしい場所、つまりワシントンのモール内部に建設することを望んだ。反対派は、ここに至って、モールの景観を破壊する、と環境問題を引っ張り出してきた。

よって、建設を推進してきたアフリカン・アメリカンが今回「勝利」したことになる。

だが、そう断ずるのは早計に過ぎる。ブッシュ政権はマイノリティを象徴的に利用するのに長けている。実質的にはマイノリティを切り捨て、目立つ一部をさらに誇示させるのが得意だ。

大統領は、一般教書演説の冒頭で、コレッタ・スコット・キングの逝去にあたり、キング家ならびに国民に弔意を表し、「キング夫妻の非暴力の運動の尊さ」を語った。その直後の10分間、彼は「自由のための戦争」を断乎として推進すると宣言した。キングがこう語ったとき「戦争」は比喩なのだが、ブッシュのそれは、もちろん、文字通りの戦争である。

彼のスピーチライターは矛盾に気がつかないのだろうか。それとも、わたしたちはすでにオーウェル的世界に住んで久しく、これは単なる「ダブル・トーク」に過ぎないのだろうか。

ハリケーンの災害は国家安全保障省に責任あり!

連邦上院の委員会、Government Accoutability Officeが、ハリケーン・カトリーナの対応を調査した最初の報告書を発表した。

この災害について、Federal Emergency Management Agency (FEMA)のマイケル・D・ブラウンが主たる批判の対象になっていた。もっとも、ニューオーリンズ第9区の掘っ立て小屋より、スーパードームの避難所のほうが素晴らしいなどと破廉恥な発言をしたブッシュ夫人という「ライバル」がブラウンにはいたが、政治的責任のありかとしてはもっぱらFEMAが告発されることが多かった。ところが今回の報告書は違っていた。

9・11テロ後、ブッシュ政権が危機管理の立て直しの主眼として行ったものに、国家安全保障省の設立というのがある。あのテロのとき、国家の命令系統が寸断されてしまった、FBIとCIA、ニューヨーク消防署・警察署のあいだにコミュニケーションがなかったということが反省され、この省が設立されたのである。個人の権利を蹂躙すると批判されている強大な国家権力を持ち…。

ハリケーン災害を調査した報告書は、民主・共和両党の委員の意見として、その国家安全保障省長官マイケル・チャートフの責任を問うた。それも当然である。今回の自然災害にあたり、連邦、州、ニューオーリンズ市のあいだにコミュニケーションが確立されてなく、その反対に責任の「たらい回し」をしたのだから。

この報告に喜んだのが、何とこれまで酷評されてきたブラウン。自分の上司の責任が追及されたからには、もはや批判の矢面に立たなくても済む。

一方、国家安全保障省長官の上司、つまりホワイト・ハウスの主はどうか。ホワイト・ハウス報道官は、この報告書に関し、こう語った。「国家安全保障省および政府のその他の機関、つまりその他の機関とは言ってもホワイト・ハウスは含まれないのですが、いずれにせよホワイト・ハウスを除く政府の機関が、災害救援でリーダーシップを発揮するべきでした」。

責任転嫁はまだ続く。

連邦上院の調査の進展を見守ろう。

ラッセル・シモンズ、ニュージャージー市から顕彰される

デフ・ジャム・レコードの創設者のラッセル・シモンズが、ニューアーク市から表彰されることになった。

2004年大統領選挙の際、シモンズは、反ブッシュ票の掘り起こしのために、Hip-Hop Summit Action Network (HSAN)という組織を結成した。彼の意に反してブッシュは当選したが、HSANはその後も社会福祉の分野で活動を続け、今回はその功績が認められるかたちとなった。

しかしながら、幾分この表彰には政治的思惑が見え隠れし、それは今日のブラック・アメリカの政治的行き詰まりを物語っているように思える。

ニューアーク市は、過去30年以上にわたり、黒人のシャープ・ジェイムスが市長を務めてきた。彼が市政で頭角を現したのは1967年の暴動の直後。現在に至るまでに、同市の経済的基盤は大混乱に陥った。企業が次から次へと「逃げて」いったのである。この情況は、そう、まさにニューアーク暴動の直後に暴動の炎に包まれたデトロイトとまったく同じである。そして、黒人の市長が、市の社会経済的環境の荒廃を止められなかったのも同じだ。

もちろん経済環境の悪化はジェイムス市長に一義的責任があるものではない。ところが、これまたデトロイトと同じく、彼の市政は汚職が絶えたことがない。にもかわわらず、彼はいまだ市庁舎にいる。強烈な利益誘導型のボス政治体勢を築き、反対派を徹底的に潰してきたからだ。市長が州議会議員を兼ねる同地の特殊な政治構造もまた、ボス支配を支えている。

そのような彼が初めて本格的対抗馬を迎えたのが2002年の選挙だった。イェール大学のMBAを持つ黒人青年実業家がボスに挑み、30年あまりも無風選挙だった同地の市長選が沸いた。

このとき、旧来の公民権世代はジェイムス市長を支持、年が若くなるにつれて対抗馬の支持率が高くなる傾向があった。今年、同じ構図で「再戦」が行われる。

今回、シモンズは福祉活動を讃えられて表彰されることになったのだが、もともとHSANは政治組織である。つまり、前回の選挙で見られた黒人青年層のある種の離反を食い止めるためのジェイムス陣営の選挙戦略とも考えられるのだ。

ほんの15年ほど前は、黒人候補が白人現職に挑むという光景が都市選挙で多く見られた構図だった。ところが、近年は、黒人対黒人、黒人対ラティーノ、黒人・ラティーノ連合対白人、白人・黒人連合対ラティーノという具合に、都市政治は複雑さを極めている。

これはブラック・アメリカの変貌を物語るとともに、70年代・80年代に流行していた「アイデンティティの政治学」がもはや退潮ーーすくなくともかつてほど単純ではないーーにあることを示している。

その潮の流れのなかに、ヒップ・ホップ界のサクセスストーリーの主人公ラッセル・シモンズは、謀ってか謀らずか、身を投じることになった。

2006年02月06日

ニューオーリンズ復興ニュース4〜市長選挙

4月22日、ニューオーリンズ市長選挙の民主党予備選挙が開催される。圧倒的多数が民主党員である同地においては、これが実質上の選挙に等しい。

ハリケーンが堤防を破壊して以後、地方都市の市長としては類稀なメディアの関心を集めていたネーギン市長が、ここで苦境に立たされている。黒人の多くが同日までにニューオーリンズに帰ってこれないというのもその苦境の一因ではあるが、実は、ブラック・アメリカの現況を物語る人種関係の変化が、そのもっとも大きな原因になっている。ネーギン市長は、黒人市民の離反に苦しむことになりそうなのだ。

1978年以来、同市はずっと黒人を市長に選出してきた。ところが、今回、その1978年に市長を務めていた白人の息子、ミッチ・ランドリューに期待が集まっている。その彼に期待を寄せているのは白人だけでなく、黒人もそうなのだ。

彼は州議会議員として政治界での実績もあり、1980年代南部ルイジアナでKKKのデイヴィッド・デュークの任期が高まったとき、デュークの政治姿勢を非難した数少ない白人政治家のひとりである。そしてまた、黒人有権者からの得票率も極めて高い。(また彼の姉は、現職の上院議員であり、その選出にあたっては黒人のあいだでの支持が極めて重要であった)。

さらにはまた、ニューオーリンズ市の黒人政治家たちも、ネーギン市長よりもランドリューに期待を寄せているようである。もとより、ネーギン市長は、新しいタイプの黒人政治家だった。黒人政治家の多くは、教会や公民権団体に地歩を置くものが圧倒的に多いのであるが、ネーギン市長は、ケーブルテレビのCEO、黒人「実業界」の代表として政治界入りした人物である。

ここまで書いてくると、この情況を、「人種」のみの分析項で語ることの困難さが際だってきた。他の記事でも書いているが、「黒人」のなかの差異が近年ますます際だつようになり、「人種」だけで「黒人」を語れないというアイロニカルな情況が生まれているのである。(否、アメリカ社会は、つねにそうだったのかもしれない)。

2006年02月08日

コレッタ・スコット・キング告別式でのブッシュ大統領

コレッタ・スコット・キングの本葬が、8日、アトランタ市郊外で行われた。

3日に渡った告別式に訪れた人数はのべ15万人、本葬には、カーター、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、クリントン前大統領、ジョージ・W・ブッシュ現大統領の、大統領経験者3名が訪れることとなった。その模様は日本でも広く報道されたので、ご覧になった方も多いと思う。

その場で、マーティン・ルーサー・キングのことばを「代弁」するものが現れた。
まず最初は、マーティン・ルーサー・キングの同志であり、キングが創設した南部キリスト教指導者会議の会長を20年間務めたジョセフ・ロワリー。

晩年のキングがベトナム反戦の姿勢を強めたが故にアメリカ社会から孤立していった経緯に触れ、いまいちどキングの精神の重要性を説いた。ここまではありきたりなものだ。非暴力主義は、ことばの上だけでは、単なる理想論に終わる。重要なのは、ブッシュ現大統領が壇上(つまり、ロワリーのすぐ後ろ)にいると知っていて語った次のことば。

「大量殺戮兵器なんかどこにもありませんでした」。

現政権の批判に立ったのは、かつてのキングの同志だけ、つまり公民権運動家だけではない。

カーター元大統領は、キング夫妻が、アメリカ政府から私生活を監視され、人権を蹂躙されていたこと、そしてそれがアメリカ政府の過去の「汚点」のひとつであり、2度と繰り返してはならないと語った。他方、連邦議会では、ゴンザレス司法長官が、「テロリストとの闘い」のためなら「違法な盗聴も合法である」と強弁していた。

ブッシュ現大統領およびその側近は、このような批判を予測したかもしれない。2004年大統領選挙のときには、批判されるとわかっているからという理由で、全米黒人向上協会全国大会の招待を断ったことがあるくらいだから。しかし、低下する一方の支持率の歯止めになったよりは、クリントンの単なる脇役になってしまったようである。4人の大統領経験者のなかでいちばん大きな拍手を浴びたのは、トニ・モリソンが「最初の黒人大統領」と呼んだビル・クリントン前大統領だった。

2006年02月09日

刑務所暴動は続く

先週の土曜日、ロサンゼルス郊外の刑務所で始まった黒人とラティーノのギャング抗争を発端とする暴動は、当局の努力もむなしく、世界最大規模のロサンゼルス郡他の刑務所に飛び火し、いま現在も続いている。

郡の刑務所が厳戒態勢で警備を続けるなか、抗争のニュースは、60年代後半の刑務所蜂起と同じく、grapevineを通じて伝わっているようだ。

そしてまた、ある研究者が「監獄・産業複合体」prison-industrial complexと呼んだ、この国の刑務所の異常な「活況」ぶりが、暴動を悪化させているようである。

ロサンゼルス郡の刑務所人口は、恐ろしいことに、2万1000人に達する。しかし、個室の部屋は約1000ほどしかなく、激高した服役囚をわけて収容しようにもそうできる空間がないのである。

また、このブログでもたびたび触れてきた〈人種〉内部の問題が、問題をさらに複雑にしている。

多くの犯罪学の調査では、服役囚のアイデンティティは、民族的出自や言語より、肌の色、一般的に理解される〈人種〉によって一義的に決定されるとされてきた。たとえば、ホンジュラス系など、国勢調査ではラティーノ(ヒスパニック)に算入されるが、肌の色が黒いアフリカ系が多く、アフリカ系のホンジュラス出身者は、刑務所では「黒人」というアイデンティティを持つことになるというのである。

ところが、現行の刑務所システムは、国勢調査でお馴染みの6つの〈人種〉ーー人種のペンタゴンーーしか認知しない。

この暴動は、ロサンゼルス市におけるチカノ系ギャングとアフリカン・アメリカン系ギャングの抗争が発端となって起きた。「娑婆」での仕返しとばかり、チカノ系の服役囚がアフリカン・アメリカンの服役囚に暴行を加えたのである。

こうした場合、刑務所は、ラティーノと黒人とを隔離させようとする。ここで問題が起きた。

(1)まず先述のように、「隔離」と呼べるほどの距離が確保できない、空間の問題
(2)首尾よく「隔離」が上手くいっても、今度はラティーノ内部での〈人種〉対立が起きる。ラティーノは言語を紐帯とする民族・文化集団であり、〈人種〉集団ではない。

さらに事態を悪くすることに、カリフォルニア州は、機械による巨大な一望監視システム、あのパノプティコンを現実に構築する一方、財政難から刑務所に配備される警備員を減少させた。機械では判断しがたい状態に、したがって、応えられる人材が不足したのである。

ハリウッド製の映画ならば、ここでシュワルツネッガー知事がさっそうと登場することだろう。彼が死刑の署名を行ったが故にこの世から抹殺されたトゥーキー・ウィリアムスは、若いギャングと語り合う言語と「顔」を持っていたが、知事にはそれすらない。

トゥーキーが生きていたら、何と言うだろう?

2006年02月11日

ロサンゼルス刑務所暴動続報1

ロサンゼルス市の刑務所システムをロックダウンさせたラティーノとアフリカン・アメリカンの衝突は、金曜日になっても収まることなく、間歇的に暴力的事件が起きた。

これで6日間連続であり、その規模において、60年代後半のものに匹敵するものになったといえよう。ただ、この度の暴動はサウスセントラル地区のギャングの抗争が引き金となったものであり、政治的要求を突きつけていた過去のそれとは契機・目的において、大きな相違点が以前残っていると言わねばならない。

来週早々には、チカノ系のロサンゼルス市長が、事態の収拾のため、いくつかの刑務所の視察に実際に赴くことになった。現職市長、Antonio R. Villaraigosaは、チカノ、つまりラティーノであるが、彼の当選にあたってはアフリカン・アメリカンが支持に回ったことが大きく寄与している。つまり、対立を深めるラティーノとアフリカン・アメリカンのあいだに架かった数少ない橋となれる政治家のひとりなのだ。

地道で確実な政治活動を行っていたところ、これがVillaraigosaの強みと言えよう。たとえば、黒人指導者のひとり、アル・シャープトンには、このような事態を収拾することはできそうにない。シャープトンが組織犯罪の問題、ドラッグの問題と格闘していたのも確かならば、その過程で、あのドン・キングや、Cripsのメンバーと親睦を深めてしまったのも確かであるからだ。そのうえ、かつてのヒューイ・ニュートンとはことなり、ギャングたちに、ニュートンが好きだったファノンの言葉を使うと「地に呪われたるもの」たちに、明確な政治社会的目的意識を育むのにも、これまでのところ彼は失敗している。

誤解のないように最後に記しておくが、無駄な暴力的衝突は収まる方が良い。ただ今回の事件が、アメリカに存在するprison-industrial complexの不気味な姿を垣間見させることに成功した、そのことは確かだ。

2006年02月24日

ニューオーリンズ市長選挙戦本格化

去る22日、このブログで伝えた通り、現職のネーギン市長にとってはもっとも手強い相手とみなされる人物、副知事のMitchell J. Landrieuが、4月の市長選挙予備選に立候補することを表明し、ニューオーリンズ市長選はいよいよ本格化してきた。22日の投票で上位2名が本選挙に進むことになる。

にもかかわらず、ニューオーリンズ市当局は、投票資格を持つものを同判断していいのかわからないらしい。人口はハリケーン直撃前の半分以下に減少し、避難した住民は、判明しているだけで48の州に分散している。

また、選挙資格をいかに認定し、限定するのかも問題だ。極端な例を考えるとこのようなこともあり得る。

すでにそれまでの貯蓄や資産を活かし、次ぎの生活の場で新しい生活を始め、もはやニューオーリンズに戻ってくる意志のないものもいる。他方では、未だ地域の安全が確保されていないがゆえに、避難所で生活を送らざるを「得ない」住民たち。居住歴を根拠に選挙資格を包括的に与えるとすると、この両者が有資格者になるだろう。しかし、投票所が市外に設けられない限り、前者はニューオーリンズに「赴いて」票を投じることができるのに対し、後者はそれができない。

「足」がないからだ。

しかし、そもそも後者は「足」がないから避難することができず、被害に遭遇することになった。

もちろんこれは極端な仮定である。しかし、あながちそのようなケースが少ないと断定することはできないし、人口比に不釣り合いな割合で「足」がなかったものは黒人が多かった。

これは前にも指摘したことだが、ハリケーンが人種差別をし、黒人を「狙う」ということはあり得ない。とすると、この災害の政治的社会的結果はいったい何を示すのだろう。天災は人種を区別しないのに、このような事態が起きている、これは明らかに、政治的社会的、そして「歴史的」に起こされた人災である。

2006年02月25日

ホワイト・ハウス、ハリケーン対応での非を認める

23日に公開されたホワイト・ハウスの報告書は、ハリケーン・カトリーナの災害を大きくした要因に、災害対策計画、訓練、そして対策にあたっての指導力の欠如を挙げた。ブッシュ政権は、ここに自らの非を認めたのである。

これより以前に発表されていた連邦下院議院の調査と較べると、しかし、表現は微妙だが政治的意図は大きく異なる相違点があった。

連邦下院議院の報告書が非難の対象に選んだのは国家安全保障省とブッシュ大統領だった。共和党員によって書かれたその報告書では、大統領自身が指揮をとったならば、連邦政府の対応はもっと迅速になっただろう、と、大統領の「怠慢」を非難した。

一方、ホワイト・ハウスの報告書は、「ブッシュ大統領が(9・11テロ後に)構想し」たものとは異なったとし、大統領には意図があったのだが、行政各機関がその意図を実施できなかったとしている。

このような意見が対立するなか、ホワイト・ハウス「も」、このことは認めた:ハリケーン・カトリーナの災害総額は1兆ドルに達し、その額は、人災・天災を問わずアメリカ史上最悪のものである。ここで言う「天災」には、真珠湾攻撃も、そしてまた9・11テロも含まれている。ニューヨーク・ロウワー・マンハッタンの復興は国家事業として進行中だ。ところがニューオーリンズは…。

2006年03月01日

マルディ・グラ

2月末、カトリック圏はカーニヴァルのシーズンである。フランス植民地として始まったニューオーリンズも、マルディ・グラと呼ばれるカーニヴァルが植民地時代から続いている。

ハリケーン直後、ネーギン市長は「(2月には)すげぇ(hell of)パレードを見せてやる」と語っていた。そのパレードは、Fat Tuesdayと呼ばれている2月最終の火曜日に終わった。

パレードの映像のなかには、当然、ハリケーンの傷跡が残っている。

CNNの映像のなかでは、たとえば、ある参加者は、大きなXの文字を書いたTシャツを着ているものもいた。それは、洪水で「流されてしまたった街」を示すらしい。また、ネヴィル・ブラザースやドクター・ジョン、プロフェッサー・ロングヘアなど、世界的に有名な地元のミュージシャンが出演することで有名なクラブ、ティピティーナでは、ネヴィル兄弟のひとりがこう歌っていた。「あんたはどこにいる」。これは、ハリケーン後、ニューオーリンズを去らねばならず、そして未だに市外の避難所に住んでいる人びとのための歌。

2007年05月10日

ヒップホップと「黒人」大統領候補

20070510snoop.jpg既に各種のメディアが報じている通り、2008年大統領選挙では、人種的には「黒人」に属しているバラック・オバマ上院議員が民主党の最有力候補として浮上してきている。ここで私は「黒人」、と、カッコつきで彼の人種的アイデンティティを記したが、簡単にその理由を説明しよう。

 彼の父親はケニア人、母親はヨーロッパ系アメリカ人である。その後、父親はケニアに帰国し、オバマはハワイで育った。ハワイと言えば、アジア系の人口比率も高く、彼が育ったのは「黒人ゲトー」ではない。さらには、その後の彼はハーヴァード大学ロースクールに進学し、シカゴ大学ロースクールで教鞭を執った。つまりある意味においてエスタブリシュメントの一員である。もっとも、シカゴ時代に、極めて献身的法律家として市民運動を支援したというキャリアはもっているものの、彼のキャリアはそれまでの黒人政治家と大きく異なる。そんな彼は、ヒップホップ・アーティストの語彙を批判することで、ヒップホップ界の重鎮、ラッセル・シモンズと対立することになった。

奇妙なことに、その論争の発端は、白人のトークショー・ホスト、ドン・アイムズが放った、おぞましい発言にある。アイムスは、多くが黒人女性のプレイヤーからなるルトガース大学のバスケットボールチームを形容し、「ちりちりの毛をした売女の軍団」"kinky-haired bunch of ho"と語った。これがネットワークテレビに流れてしまい、公民権運動家・黒人政治家の猛烈な抗議のなか、数々のネットワークテレビが彼との契約を破棄することになった。

これより以前、バスケットボールチーム関係で言えば、シカゴ・ブルズが全盛だった1990年代中頃、ネットワークテレビのスポーツ解説者が「黒人はバスケットボールが得意だ、なぜなら腰の位置が高い、そうしたのも棉畑で良い労働者になるように白人主人が奴隷を「交配」したからだ」といった発言を行い、同じく喧々囂々の抗議のなか解雇されたということがある。

しかし、このとき、そのスポーツ解説者の発言を聞き、「あぁ、そうだね、黒人は腰が高いね」などと言う「黒人」はいなかった。ところがこの度は、バラック・オバマがドン・アイムスの意見には一理がある、という発言を行ったのである。

オバマは、「「ちりちりの毛をした売女の軍団」という発言を非難するには、同じ言語を使用しているヒップホップの歌詞を非難しなくてはいけない」と語っている。さらに彼はこう言う。

「黒人たち自信が認めなくてはなりません、「売女」"ho"という言葉を聞いたのはこれが初めてのことではないということを。ラジオのスイッチを入れてください。同じ言語を使っている歌の数は夥しいし、そのような歌が家の中、学校の教室、iPodのなかで流れるのを許しているではないですか」。

このようなオバマの発言は、当然、ヒップホップ世代の批判の対象になった(このヒップホップ世代対公民権世代の社会認識に関しては、ついこのほど、筆者は最初の試論を著した)。デフ・ジャム・レーベルの創始者、ラッセル・シモンズが言うには、「そもそもそのような言葉を発しなくてはならない環境の改善を考えるのが政治家の仕事ではないか、ラップの歌詞を批判するのはやめてくれ」となる。

さらには、"ho"という言葉を連呼することでは、おそらく悪名高いラッパーのひとり、スヌープ・ドッグはこう言う。

「全然背景が違うじゃないか、教育やスポーツで成功し、高いステージに昇った女学生のことを俺たちがそう呼んでいるのではない。俺らは街角でやばいことばかりやっている奴らのことを"ho"と呼んでいるんだ。ニガを見ると金をぶんどることしか考えないバカ女のことを言っているんだ」。

ここでわたしは「ニガ」という言葉を使った。これは原文では"n.-a"と記されている。さて、かかる婉曲語法を使って何が起きるだろうか…。

その後、シモンズは、オバマへの批判を和らげ、いわゆる「Nから始まる言葉」や"ho"といった言葉を、レコード会社が自主的に規制し、ラジオ局は「ピー」という音で消すように提言している。これでこの言葉が消えるだろうか。この言葉が極めて攻撃的な侮蔑的言葉として、その毒牙が「ピー」で消えるのだろうか?。わたしはそう思えない。

既発表の論文で引用したばかりだが、その昔、2Pacはこう断言した。

「ニガーNiggerとは首にロープを巻かれて木から吊される奴ことだ。俺はニガNigga。ニガの首には純金のネックレスがぶらさがっている」。

2Pacの大胆な姿が恋しい。

2007年05月12日

42年後の訴追とTruth Commission

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私がシカゴにいた頃、Ghost of Mississippiという映画が公開された。その映画は、1963年にミシシッピで起きた公民権運動指導者の暗殺事件の犯人を、アレック・ボールドウィン扮する地方検事が歴史家たちとともに特定して起訴、有罪判決を導くというものだった。そして、それは史実に立脚している。

その後、アメリカ中にショックを与えたバーミングハム市の教会爆破事件(3名の少女が犠牲になった)の犯人、そして映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった1964年の公民権運動家3名の殺害者等々、1960年に起きた夥しい暴力事件の加害者の訴追が続いている。今度は、1965年投票権法の制定に向けて巨大な圧力を形成することに資した「セルマ=モントゴメリー行進」のきっかけとなった事件、「ジェイムス・リー・ジャクソン殺害事件」の犯人が起訴されることになった。既述の件と同様に、この度も、起訴された人物は、自分が殺害を行ったということを認めている。起訴された人物は、73歳の退役アラバマ州兵。その人物は、さて、どのような主張をしているのだろうか?

その人物は、アラバマ州セルマでの運動が、キング牧師の参加もあってかつてない激しさになるなか、治安維持のため(運動家からすれば、運動弾圧のため)に派遣された州兵だった。デモ隊との激しい衝突のなか、彼はジェイムス・リー・ジャクソンを撃ち殺した。

その人物は、ジャクソンが「銃をつかもうとしたので、自衛として撃ち殺した」、「あのときの感情的な情況下で、もし彼が私の銃を握ったならば、私の方が撃ち殺されていた」と主張してる(写真が示しているのは、この事件の現場ではない、これはこの時の運動の中の一シーンを捉えたものである)。また、彼の弁護人は、このケースはバーミングハム市の教会爆破事件とは異なると主張する。バーミングハムの件で極悪犯罪を犯した人物は、その意図をもって行った、しかし、このケースでは、起訴された人物は州知事によって「派遣された」に過ぎないという論陣を張っている。

私は、実のところ、この弁護人の主張に限定的ながらも同意せざるを得ない。

キング牧師の夫人、コレッタ・スコット・キングが存命中のこと、彼女は、公民権運動時代に起きた「悲劇」を乗り越えて人びとが「和解」するために、「真実委員会」Truth Commissionを設立することを主張していた。なぜならば、キング牧師暗殺事件が、暗い闇のなかに閉ざされ、政府の陰謀説だの、マフィアの陰謀説だの、真実が何だったのかわからなくなっているからである。(逮捕された犯人は、裁判の最終的局面ならびに獄中で、キングを殺害したという自白は嘘であると述べていた。その主張を聞き、キング家は再審を要求したのだが、結局、一度有罪となった「犯人」は獄中で亡くなった)。

Truth Commissionとは、「部族間」で夥しい「政治的暴力」が起きた南アフリカにおいて、ネルソン・マンデラが設立した委員会のことである。この委員会は、アパルトヘイト時代の憎しみを乗り越えることを目的に、真実を語ったものには恩赦を与え、犠牲者と加害者との対話を促し、ポスト・アパルトヘイトの時代の南アの建設を目指したものである。

私は、コレッタ・キングと同じく、通常の刑事裁判ではなく、特別な委員会を設置するべきだと思わざるを得ない。問われているのは人種間憎悪の歴史の重みであり、ひとりまたひとりと「犯人」を追い詰めることでその重みは軽くはならないと感じるからだ。

Ghost of Mississippiの最後のシーン、裁判映画ではよくあることだが、"guilty"という判決がくだったとき、検察官とウーピー・ゴールドバーグ扮する殺害された公民権指導者夫人、裁判所に詰めかけたギャラリーは抱き合って喜んだ。私は、シカゴ・サウスサイドでその映画を観たのだが、オーディエンスのなかからは「笑い声」が聞こえた。その笑い声は、「有罪」と「真実」との懸隔を示すように思える。

2007年05月13日

ムミア・アブ=ジャマル再審要求運動

パリには、1970年代のフィラデルフィアで活動していたひとりブラック・パンサー党員の名前に因んだ、「ムミア・アブ=ジャマル通り」というストリートがある。ブラック・パンサー党は昨年の10月で結党40周年を迎えた。同党は現存してはいないものの、多くのひとびとはその後も市民運動や言論活動に従事しており、10年ほど前に最初の「同窓会」が開催されて以後、各地でさまざまなリユニオンが行われている。私は、そのなかのいくつかに参加したのであるが、昨年の「同窓会」では、60年代後半に激化した政府や地方官憲による弾圧を物語るさまざまな演説が行われ、この時期の運動がいかに激烈なものであったのかがまざまざと伝えられた。ほぼ6時間に及んだそのセッションのなかで、ムミア・アブ=ジャマルも演壇に立った。しかし、彼の声は、小さなラジカセのスピーカーを通じて伝えられた。なぜならば、彼は、いまフィラデルフィアの監獄にいるからである。(この件については、過去にもこのブログで記事を書いている)

1982年、フィラデルフィアで白人の警官殺害事件で彼は逮捕され、その後死刑判決がくだされた。死刑の不当性や冤罪に関しては、このブログのほかのエントリーやサイトのエッセイで伝えてきたものの、この訴訟を異常なものにしているのは、その後犯人が名乗り出てきたのにもかかわらず、彼の死刑判決が破棄されることはなく、今日も死刑囚棟に収監されているといことである。この裁判は、アムネスティ・インターナショナルなどの人権団体も関心をもち、同団体は「公正な裁判上の手続きに関する国際基準の最低限度の規定すらも侵犯したもの」と告発し、パリに彼の名前を冠した通りがあるのは、彼が「政治犯」として国際的シンボルになっているからである。彼が「政治犯」だと言うのは、逮捕された時点での彼がフィラデルフィアのローカル局で「警官暴力」ーーブラック・パンサー党が格闘した問題で最大のものーーに対し活発に発言するDJであったからだ。

同じ頃の同じ場所を舞台にした冤罪事件を扱った映画『ハリケーン』、そしてデンゼル・ワシントン扮する主人公ルービン・ハリケーン・カーターの自伝Hurricaneが物語っているように、当時のフィラデルフィアにおいて、社会的・政治的偏見の対象となった人物が、公正な裁判を受けられたのかには当然疑問が残る(ルービン・ハリケーン・カーターの件は、日本での袴田厳の裁判を思い出さずにはいられない。そのうえでもなお、アブ=ジャマルのケースの不当さを強調せずにはいられないのは、自分が犯人だと名乗り出た人物に関する証拠が、裁判では証拠として認められないという事態が起きているからだ。

20070513mumiaパンサー党結成40周年「同窓会」には、黒人・白人・アジア系・ラティーノの多くのムミア支援運動に参加している者も集っていた。そしてこの4月24日、アブ=ジャマルの誕生日にあわせ、全米各地で集会が開催された。もちろんフィラデルフィアがその運動の中心地になったのであるが、同地での集会では、警官の労働組合が公正な裁判を要求する運動に「反対する」集会を同時に開催し、両者が連邦巡回控訴裁判所の前で対峙するという事態にも発展したらしい。ここですぐに付け加えておかなくてはならないのは、アブ=ジャマルの支持者のなかにも警察官が含まれていとうことであり、その警察官たちはそもそもアブ=ジャマルが格闘していた問題「警官暴力」に対しても、警察組織の内部で闘っているということである。そして、彼ら彼女らが求めているのは、釈放ではなくただ単に公正な再審に過ぎないのである。

ムミア・アブ=ジャマル国際支援者の会のコーディネーターをやっている快活な黒人女性パム・アフリカはこう語っている。「ムミアは無罪だと信じていますし、個人的意見を述べると、即時の釈放を要求したいところです。だけど、裁判における公正さを求める人びととならば誰とでも一緒に運動をします」。5月17日には、おそらく最後の機会となるであろう彼の弁護団による口頭での主張の審理が行われる。ここにきて支援運動が活発化しているのは、それ以後のこのケースの審理が続く可能性が低く、したがってアブ=ジャマルの死刑が確定してしまいかねないからだ。

パム・アフリカはさらにこう続ける。「ムミアはいまもまだ死刑執行される危険に直面しています。なぜならば連邦最高裁が彼のケースを審理する可能性は低いですし、現実的に考えて、これが彼のケースが審理される最後のチャンスになるからです。抑圧者に屈服したり、卑屈な態度をとることを拒否した黒人の革命家がまたひとり殺されようとしている、そのことを理解してほしいと思います。彼のケースは、この体制の悪の象徴です。遅きに失しないためにも、行動を起こすのはいまなのです」。

さて、上の話からは若干逸脱するが、アブ=ジャマルのケースは、死刑の問題や不当な裁判の問題、つまり冤罪問題一般を表すとともに、「言論の弾圧」の問題としても認識されている。彼は警察を批判し、その警察に逮捕されたのだから。そのような彼が好んだことばのひとつが、19世紀の奴隷解放運動指導者フレデリック・ダグラスのことば、「暴君がおそれるのは言論の自由である」だ。日本で可決されるのがほぼ決定的になった国民投票法では、「教員・公務員」から「言論の自由」が奪われる可能性がある。投票が公示された後に、「教員・公務員」は、その「地位」を利用して発言することは許されない。つまり憲法学者が憲法学者として意見を述べることが違法とされる(これは医者に対し、手術前の診察を禁止する、というのと同じひどい規定だ)。さて、われわれの社会は、何を恐れ、いったいどこに向かっているのだろうか?。

2007年05月14日

民間の運営による刑務所

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上のグラフは、アメリカにおける刑務所人口の変遷である。この異常な受刑者数の増加は、多くの犯罪学者が論じているところによると、80年代に入り刑務所が「民営化」されたのをひとつの原因としており、犯罪が増えたから民営化せざるを得なくなったのではない。

そして、その受刑者に占める社会的に不利な立場にある人びと(もちろんゲトーの黒人はそこに含まれる)の率は異常に高い。黒人に関していうならば、それは人口比の約4倍に達する。多くのヒップホップ・アーティストが刑務所での経験をラップするのは、その社会的環境の反映である。

民営化した刑務所がある街のなかには、その街の経済活動のほとんどが刑務所関係のものになているところがある。つまり、刑務所の民営化とは、犯罪犠牲者の悲しみ、そして罪を犯さざるを得なかったものの悲しみ、それらの人びとみなの悲しみのの向こう側で、そこから経済的利得を得ている人びとが生まれることを意味する。

かつて、公民権運動以前の南部では、「受刑者貸出制度」convict lease systemというのがあったが、刑務行政の実体は、少なくとも現在のアメリカにおいては、そのひとつの変奏型にすぎない。なかにはそれを現代版の奴隷制というものすらいる。

ところで、本日、日本で初めての民間の運営による刑務所が開所した。前のエントリーと同じ問いかけになるが、われわれの社会はいったいどこに向かっているのだろうか。

グラフの出典:U.S Census Bureau, Statistical Abstract of the United States: 2000 (Washington, D.C.: Government Printing Office, 2000), p.202.

2007年05月16日

ムミアの声

ムミアの声が届きました。

こちらからどうぞ。

2007年05月17日

ポスト公民権時代の「黒人」政治家

昨年の末、ジェイムズ・ブラウンが亡くなった。その時、日本のニュースでは、「ソウル界のゴッドファーザー」と呼ばれ、「60年代末に黒人の誇りについて歌った人物」と紹介されていた。彼が亡くなったということは、言うまでもないが、この世代の人間ーー60年代に活躍した世代ーーが他界する時期が遂にやって来た、これを政治的社会的文脈におくと、かつての公民権指導者の政治世界からの「引退」「退場」が起きているということを意味する。その実、モントゴメリー・バス・ボイコット運動のシンボル、ローザ・パークス、コレッタ・スコット・キング夫人、SNCC指導者ストークリー・カーマイケル、COREの指導者ジェイムス・ファーマー、彼ら彼女らはみなもうこの世にはいない。

そして、今、政治の世界に飛び出してきたのが新しい世代である。彼ら彼女らは、公民権世代が築いた環境のなかで育ちつつも、その世代とははっきりと違ったキャリアをもっている。その新しい世代の代表のひとり、バラック・オバマ、彼は、2006年民主党大会の基調演説で一躍名を馳せることになった。

このそしてアメリカがそもそも依拠する崇高な理念、独立宣言に発する「アメリカン・ドリーム」を訴えるその雄弁さは、「マーティン・ルーサー・キングの再来」と呼ばれたほどである。彼が演壇に上がるときに流れている音楽は、1967年にカーティス・メイフィールドが歌った"Keep on Pushing"である。この曲は、当時の文脈のなかでは、ブラック・ナショナリズムを鼓舞するものだと言われた。今やそれが民主党大会の基調演説者のテーマに使われる時代になったのである。ここには時代の懸隔と、その懸隔にかかる橋が、象徴的に表れている。

今回は、では、その新しい世代の黒人政治家たちの横顔について語ろう。

日本でも広く知られることになった人物、バラック・オバマは、これまでの「黒人」政治家とははっきりと異なる「素性」をもっている。ハワイ大学に留学していたケニア人留学生とカンサス州出身の白人女性とのあいだに生まれた。ジェイムス・ファーマーがフリーダムライド運動の先頭に立っていた1961年のことである。その後、両親は離婚し、父親はアフリカに帰国、母親はインドネシア人と再婚した。そして彼はその母と継父とともにジャカルタで少年期を過ごした。

帰国後の彼はエリートコースを一直線。コロンビア大学で政治学学士号を取り国際的業務を扱う弁護士事務所に務めた後、ハーヴァード大学ロースクールに進学。そこで法学博士となる一方、黒人としては初めて、104年の歴史を持つHarvard Law Reviewの編集者に選ばれた。

通常このようなキャリアの人間は実入りの良い仕事をもつ。ところが彼は、シカゴ・サウスサイドで貧困者の法律相談を応じたり、職業訓練を助けたりする非営利的事業に従事した。その後、シカゴ大学ロースクールで教鞭を執った後、イリノイ州議会議員になり、2002年に連邦上院に当選、今日に至っている。

さて、ここで多くの人は気づいたと思うが、彼は、いわゆるアフリカン・アメリカンとは根本的に違う。彼の父親はアフリカ系ではあっても奴隷の子孫ではなく、彼自身の人種的アイデンティティは極めてハイブリッドなものだ。そしてまた、「黒人ゲトー」で暮らした時期といえば、シカゴが初めてだったのである。このような彼に対し、当然、「黒人票を集める力があるのか?」という疑問があがっている。

一方、「エリート」としてのキャリアを持つ黒人政治家にはいくつかの先例がある。その典型例が、現在ニュージャージー州最大の都市、ニューワーク市長であるコーリー・ブッカーだ。

彼は1969年(つまり公民権運動がはっきりと衰退した年)に生まれた。しかし、彼の両親は、IBMの重役になった初めての黒人であり、ワシントンD・C郊外の「高級住宅地」で育った。スタンフォード大学に進学し政治学で学士号、社会学で修士号を修める傍ら、フットボールの世界でも活躍し、大学のなかではヒーローのひとりだった。その後、イェール大学ロースクールに進学し、極めて競争率が高く、それゆえエリート中のエリートの象徴でもあるローズ奨学金を受けてオックスフォード大学に留学した。しかし、オバマと同じく、ロースクールにいた頃から周囲のコミュニティの活動に身を投じ、ロースクール卒業後ニューワークに戻ると、貧困地区の公共住宅に住むことを敢えて選んだ。そこにいる人びとに、法律面での手助けをするためである。

2002年、そのような彼が市長選に立候補した。当時の現職の市長ジェイムス・シャープは、5期連続当選(つまり20年間ずっと市長)を果たしており、1999年からは州議会議員を兼務していた。つまり、ニューワークでは伍するものがいないほど強力な政治力を持っていたのである。市長として全米のどの州知事よりも高額な報酬を受けていた、そのような彼の政治スタイルは「ボス政治」ーーアメリカ型利益誘導型政治ーーと呼ばれていた。もちろん彼の支持母体は、同市の黒人市民である。

重要なことに、この選挙戦中に問題になったのは「ブッカーは〈黒人〉なのか?」ということであった。貧困と直面しながら公民権運動で政治的経歴を積み、そうして政治の世界に入っていった旧来の黒人政治家と異なり、彼は典型的エリート。そんなエリートに「「黒人の問題」がわかるのか?」という問題が提起されたのである。もちろん、この点をもっとも執拗についたのは、シャープ市長であった。彼は選挙戦中こう語った。「あなたはまずアフリカン・アメリカンになることから始めなくちゃいけない、自分でそれをやりなさい、わたしたちにそんな暇はないから」。

「血統」の上ではまちがいなく黒人であるブッカーが「黒人ではない」と言われる。つまり、ここでの「黒人」とはエリートの対極として規定されているのであり、至極簡単にいえば「社会的落伍者」こそが「典型的黒人」なのである。

かくして黒人対黒人の選挙戦でありながら、なぜか「人種」が問題になった選挙戦では、黒人市民からの支持を得たシャープが僅差で勝利した。この「ダーティな選挙」は、Street Fightというドキュメンタリー(アカデミー賞にノミネートされた)に収録されている。

しかし、2006年、その流れははっきり変わった。73%という圧倒的得票率でブッカーが勝利したのである(なお、このときの対抗馬は市長職からの引退を表明したシャープではなかった)。そんなブッカーがまず行ったのは、市場価格以下で私企業に売却されている市所有の不動産の販売を停止することだった。

企業が次々に工場を閉鎖していくなか、新規事業を誘致するならば刑務所でもなんでも良いと考えている他の首長とはまったく異なる。白人の郊外流出、工場や企業の閉鎖で疲弊したアメリカ経済の立て直しにあたって、「民間の活力」だけに盲従しようともしていない。そんな彼は、固定資産税の大幅増税を提案し、市の職員の補充拡大を提案している。これもまた他の首長とはまったく異なる。

そのようなコーリー・ブッカーが5月12日にオバマを支持するという表明を行った。ヒラリー・クリントンを支持していたそれまでの態度を転回したのである。ニュージャージー州は、大統領選挙にあたって、しばしばbattle ground stateと呼ばれ、ここでの勝敗は結果に対し重要な意味を持つ。

新しいタイプの黒人政治家、ポスト公民権世代の黒人政治家は、もはや黒人票だけに頼ることはしない。「黒人ではない」と誹謗中傷された人間がどうして黒人票を頼りにできよう。他面、白人優越主義者から脅迫を受けているとされているオバマはこう語っている。「こんなことをあれこれ考えるので時間を無駄にしたくありません。このような人びとがアフリカン・アメリカンの大統領が誕生することを嫌がっているのかどうかというと、それにはイエスとしか応えられません。ならば、アフリカン・アメリカンは私が黒人だからというので票を投じることになるのかというと、それもまたまちがいのない事実です。しかし、私が落選することになるとすると、それは人種が原因ではない、人びとが信頼できるビジョンを提示することに私が失敗したからそうなるのです」。彼らは「人種」を超越しようとしている。ブッカーがオバマ支持に傾いたのも、人種が理由ではない。オバマは、ブッシュが行った富裕層に対する減税措置を廃止する、つまり増税を行うと語っている。疲弊した政府を立て直す、つまり連邦の職員の補充拡大を提案している。

黒人が白人に投票し(これは歴史上何度も起きた)、白人が黒人に投票する(これはほとんど起きたためしがない)、そんな選挙が来年繰り広げられたとき、きっとアメリカにおける「人種」の意味が激変する。ブッカーやオバマが背負っているのは、その未来への期待である。

ムミアのために!

20070517mumiaアメリカ東海岸で5月17日の朝がきました。

正義の光がムミアに届きますように。

We want justice, Now!

2007年06月21日

公民権委員会の方針転換〜ムスリムの保護へ

任期も残り2年となったブッシュ政権だが、『ニューヨーク・タイムズ』は、この6年間で連邦司法省公民権部の方針が大きく変わったと報じている。

そもそも公民権部は、1957年公民権法の規定により制定され、黒人の権利を保護するための監視機関だった。ところが、近年では、人種による差別から宗教団体や信仰の自由に対する差別への取り締まりが強化されている。思想信条に対する差別は、それ自体重大な問題だし、特に911テロ後にムスリムへの「ヘイトクライム」が増加していることを鑑みるならば、むしろ評価すべき変化かしれない。否、アメリカン・ムスリムを、言われのない暴力や中傷から守る方策を講じていること、これは高く評価するべきである。

ところが、問題は、公民権部の職員や予算が拡大されないかぎり、宗教に対する差別と人種に対する差別の取り締まりがゼロサムゲームの関係にあり、黒人の公民権に関する調査がおろそかにされてしまったということにある。公民権の分野に長けた法律家はほかの部局に配置換えになるか降格され、その空いた席の部分に宗教問題に長けた法律家の登用が進んでいる。その結果、たとえば、投票権法違反で公民権部が提訴した件数は、クリントン政権期のそれが8件に及んだのに対し、ブッシュ政権によるそれはわずか1件にとどまっている。

それよりもさらに大きな問題は、『ニューヨーク・タイムズ』の記事によると、公民権部のこの変化の裏に政治的思惑があるというところである。つまりブッシュ政権等の保守派政権のバックボーンである福音派の右派キリスト教団体の指示を確保するねらいがあるというのである。黒人のブッシュ政権に対する支持率はわずか6%、もうここを懐柔することはできない。ならば、いっそのこと「切り捨て」て、新たな票田を開拓した方が良い、戦略的思考からそう判断されているのである。

その結果、無理もないことだが、とても奇妙な自体が生じることになった。キリスト教への宗教心が篤い人びとの慈善団体〈救世軍〉が、団体職員の雇用に宗教心を基準にした。これは、ムスリムや仏教徒などで雇用される側からされると、思想信条によって「差別」されることになる。しかし、公民権部の判断では、〈救世軍〉が宗教心を尊ぶ「自由」を尊重し、それを支持する決定を行った。

さて、これまで共和党がむしろ全面に出さなかった宗教的右派からの支持固め、いわば政権の右旋回が、来年の選挙で有権者の支持を得られるだろうか。

2007年07月17日

全国黒人向上協会全国大会にて──その2

全国黒人向上協会(NAACP)をブッシュ大統領が無視し続けているのは昨日ここで報じた通りだが、それに対し、来年の大統領選挙への出馬が予測されている民主党の政治家たちは、大会が開いているデトロイトに足を運んだ。その中には、世論調査や選挙資金集めでトップ争いを激しく繰り広げているバラク・オバマとヒラリー・クリントンもいる。

しかし、民主党がかくも黒人の団体との近しさを強調するのは久しぶりのことである。実のところ、民主党は、マイノリティ利益の代弁者と目されるのを忌避し、そのような事態を避けてきた。このような政治環境は、思うに、ブッシュ政権が有能な黒人を政府の高官(たとえば、コリン・パウエルやコンドリーザ・ライス)に登用し、そうすることで「黒人」のイメージを向上させたからであろう。皮肉なことにそれは民主党の利になっているように思われる。

さて、候補者が次から次に演壇に立つ模様を報じる『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事は、そのなかでも、オバマは「ホームゲームのアドバンテージをもっているかのような聴衆の反応を得た」と報じている。当初、彼が「黒人候補」としてみなされるかどうかが問題とされていたが、どうやらその問題は解決済みのようだ。

その演壇でオバマはこう述べたのである。

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2007年07月20日

ニューアークの政治 ── 変化する〈人種〉の意味

日本でも名前が知られてきたバラク・オバマと経歴が良く似ている人物として、このブログでニューアーク市のコーリー・ブッカーのことを以前紹介したことがある。『ニューヨーク・タイムズ』紙が伝えているところによると、ブッカー市長誕生直後の「旋風」の後、今度は彼が守勢に立たされ、リコール運動さえ起きているらしい。

その記事のなかで、特に注目されるのが、〈人種〉の意味である。「コーリー・ブッカーは実は黒人ではなかった」、そんな噂が同市では流れており、それが市長の「弱点」とされているのだ。ジム・クロウ時代の南部では、「黒人の血が一滴でも流れていたら…」ということが人々の社会的・政治的・経済的地位や命運を否定的に決定づけた(この様子はフォークナーの小説などを読むとよくわかるであろう)。しかし、現代の北部都市ニューアーク市では、その構図が逆になっている。

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2007年07月24日

デトロイト暴動から40年

アメリカが7月23日を向かえた。この日は、正確な数字が残っているものとしては、当時アメリカ最大の人種暴動(43人死亡、7000人逮捕、92年のロサンゼルス暴動のみがこの死亡者数を上回っている)となり、公民権運動の時代の終焉をつげる序曲となったデトロイト暴動がおきてちょうど40年目にあたる。わたしが住んでいるここ日本もとても暑い日だったが、暴動がおきたその日のデトロイトも華氏90度を超える酷暑だったという。

その日から、デトロイトは大きく変化した。この街の活力の源泉そのものであった自動車産業は、みなさんご存じのとおり衰退。暴動がおきた67年当時でさえ、自動車工場はより労働力の安価な地域に移り初めており、デトロイト市内にはクライスラーの工場しかなかった。クライスラーが投資ファンドに買収されたいま、かつてこの街を支えた工場すべてが一度はこの地を去ったことになる。

さらにはまた、この街の名と一緒に世界中に知れ渡ることになったモータウン。モータウン・サウンドを量産したスタジオ、Hitsville U.S.A. は実は暴動の中心地となった12番街・クラアモント通りの交差点からわずか徒歩で5分ほどのところにある。そのサウンドの中心地も、73年にはハリウッドのサンセット大通りに移転し、90年代に歴史的建造物として補修改装されるまで、「見棄てられたインナー・シティ」のなかにぽつりと位置することになった。

この73年は、また、デトロイトで初めて黒人が市長に当選した年でもある。つまり、デトロイトにおける黒人政治力の伸張は、同市の社会的・経済的インフラの崩壊と同時に進行したのだ。では現在はどうであろう…。

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2007年07月25日

デトロイト暴動、40年後、その2

20070724prayer_for_riot.jpg暴動から40年目、デトロイトではその惨事を悼むために祈りを捧げる行事が、暴動の起点となった場所で行われた。

その模様を、『デトロイト・フリー・プレス』紙は、「これまでのものとは異なるもの」と報道している。

というのも、行政区画上はデトロイト市とは異なっている郊外の都市の首長がこの祈りに参加したからだ。デトロイト都市圏郊外からの人々の参加と言えば、それは、この地域では「黒人と白人がともに」ということを意味する。インナーシティの人口は約90%が黒人、郊外といえばそのまったく反対の事情が存在している。

かつてデトロイト市郊外の街、ディアボーンの市長、オーヴィル・ハバードは、北部にしては珍しい名だたる人種隔離論者だった。それゆえ彼の名前は、インナー・シティの黒人には人種主義と同義である。しかし、現市長はデトロイト市と友好関係を保つために、この祈りの行事に参加した。その祈りにあたり、デトロイト市長のクワメ・キルパトリックはこう語った。

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2007年07月29日

民主政治を考える…

今日、参議院選挙がありました。直接アメリカ黒人とは関係ありませんが、奴隷制以来、彼ら彼女らが闘っていたこと、それは民主政体のなかでどうやって声を響かせるかです。

だから敢えて政治的発言を行います。

でも、ちょっと簡単な喩え話から…

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2007年10月14日

オバマ支持をめぐり割れる黒人指導層

公民権運動時代のもっともラディカルな団体であり、60年代の諸運動の牽引力であった学生非暴力調整委員会の元議長で、現職下院議員(ジョージア州選出)のジョン・ルイスが、「黒人」のバラク・オバマではなく、ヒラリー・クリントンを支持するとする表明を発表した。ヒラリー・クリントン支持の理由は

・大統領になるだけの政治的経験をもっていること
・すでに世界各国の政界リーダーとの親好があり、友好的外交関係を築く資質を備えていること

これらは、しかし、ヒラリー・クリントン自身が、自分がバラク・オバマに対して優位に立っている点として数々の場で述べていることである。

ジョン・ルイスは、ビル・クリントン前大統領との親好が厚い。ノーベル文学賞を受賞した小説家トニ・モリソンは、クリントン前大統領を「黒人初の大統領」と評したが、いまでもハーレムに事務所本部を構える彼と黒人コミュニティとの絆はやはり強い。


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2007年10月23日

インディアン・アメリカンが州知事に当選

この先週の土曜日、ニューオーリンズのあるルイジアナ州で知事選挙が行われた。その勝者は州知事としてはアメリカ史上初となるインディアン・アメリカン。通例、アメリカと言い、続けてインディアンというと同地の先住民を指す。一時期、その呼称は勘違いしたコロンブスの無知を表すものであり、アメリカ先住民を侮辱するという一方的主張を行うものがいたが、実のところ、インディアンはアメリカ先住民自らが使う自称にもなっており、侮蔑的意味合いはないと考えるのが一般的である。

しかし、そのインディアンは「インド系」の意味だった。ここのところ、エンジニアリングや医療、IT技術において世界的プレゼンスを増大しているあの南アジアの大国のことである。

ところで、若い頃のデンゼル・ワシントンが主演した映画に『ミシシッピ・マサラ』というとても興味深いものがある。設定は、ミシシッピ、同地で生まれ育った黒人男性がインド人の女性と恋に落ちるという話だ。その女性、インド人はインド人であってもアフリカ出身のインド人、帝国イギリスの政策によって19世紀に現在のウガンダに移住し、ウガンダの軍事政権が「インド人追放政策」をとったためにアメリカに移民してきたという家系の出身である。さらには舞台の設定はミシシッピ、それは「人種差別がもっとも厳しいところ」を表象する。

当然、女性の両親は、両者の交際に反対どころか驚愕した。人種的偏見が厳しいこの世界で生きていけるのかという女性の父親に対し、デンゼル・ワシントンは、きっぱりこう応える。「あんた何言っているんだ、俺の生まれ育った場所はミシシッピ」だ。結局、その父親は、むかし政変があるまではアフリカ人の友達が多くいたことなどを思い出し、人間同士の「愛」を再発見する。「マサラ」とは、ご存じの方も多いだろうが、インドの香辛料。この映画では、人間同士のあいだの愛(それは性愛も含む)が抗しがたい魅力をもつことを表象している。

話をもとに戻して、ルイジアナの選挙のこと…

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2007年11月01日

どこかで見たような謝罪 〜 連邦司法省

大統領選挙を来年に控え、選挙の手続きに関する法整備が進んでいる。その理由は、もちろん、2000年のフロリダ、2004年のインディアナで起きた投票資格をめぐる論争・政争をいかに解決するかにあるが、現在そのインディアナ州を含めて拡がりつつあるものが、投票を行うに際して、写真入りのIDカードの提示を義務づけるとする動きであり、連邦司法省もそれを推している。

これに対し、NAACPを初めとする公民権団体は反対の意思を表明している。というのも、彼らの主張によると、自動車の所有率が低い等々、この法律が可決されると、人口比に不釣り合い率で黒人が対象にされるからだ。人種には触れていない立法が人種差別的に機能する、その意味において、この立法はかつてのジム・クロウ諸方を思わせるというのである。

そのような論争が繰り広げられている最中にあり、「黒人が不釣り合いに法の犠牲者になるわけではない」と、司法省投票権部部長、ジョン・K・タナーが主張した。これに続いたのがとんでもない理由付け。「なぜならば、どうせ黒人は早く死ぬのではないですか」。

当然、黒人議員を初め、野党民主党議員は激怒し、連邦議会でタナーを詰問し、彼は謝罪を行った。そこで彼が言ったことば、

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2007年11月06日

『ニューヨーク・タイムズ』紙、タナーの更迭を要求

このところ大統領選挙に関する報道がずいぶんと増えた。ヒラリー・クリントン、バラク・オバマという、当選すればそれぞれ史上初となる候補がいるのが、こんなにも早い時期から関心を集めている理由であろう。

しかしながら、実のところ、アメリカの選挙には、2000年以後、ずっと懸案の問題がある。

それは投票された票をどのようにして数えるのか、投票資格の確認はどうするのかといった問題であり、最初は2000年のフロリダ、その4年後はインディアナ州でおきた。

連邦司法省投票権課が容易した答が、写真付きIDの提示である。問題は、そのIDが有料でしか手に入らないということ。つまり、結果として「投票税 poll tax 」と酷似した形式が復活することになる。ところが「投票税」を課すことはアメリカでは憲法違反である。

この窮状のなかで、公民権課長がジョン・タナーが発したのが、過日ここで伝えた「どうせ黒人は早く死ぬ」というものだ。

『ニューヨーク・タイムズ』紙は、5日の論説文で、さらには近年投票権課がマイノリティの権利保護をないがしろにしているという批判とともに、タナーの罷免を要求した。

さらにまた、それと同時に、情報を操作したり、脅迫をしたりでマイノリティの投票権行使の妨害を行うことを犯罪とする詐欺行為投票権妨害処罰法の早期可決を主張している。ちなみに同法の発案者は、バラク・オバマである。

オバマが当選するためには、当然のことながら、マイノリティの票は必ず全部カウントされなくてはならない。

2008年02月21日

「アメリカで何かが起きている」 by a superdelegate

昨年の5月にここのブログで紹介した若手の「黒人」政治家の名、バラク・オバマはもはや日本でも広く人びとが知ることとなった。予備選が今後行われる州からみて、大きな勝負は3月初頭のテキサス州とオハイオ州のみ、ここでヒラリー・クリントンが大差をつけて勝利をおさめない限り、最終的な勝負は8月25日から28日にかけてデンヴァーで開催される民主党大会に持ち込まれることになる。しかも、オバマが僅差でリードを保ったまま、ということになる。

今年が始まった頃、長引くイラク戦争、アメリカ経済に急に立ち込めた暗雲などを鑑み、それを40年前、キングやロバート・ケネディが暗殺され、シカゴ民主党大会では警官隊とデモ隊の激しい衝突が起きた「1968年の再来」と言い始めるものもいた。そのような記事を『ニューズウィーク』で読んだとき、正直言って、根拠が希薄であれば、「歴史は繰り返す」という面白みも何にもない常套句に頼ったチープな記事、と思ったものだ。ところが、全国大会まで大統領候補が決まらないとなると、これは「1968年以来初」の事態ということになる。そしてもっと古い話を紐解けば、黒人が先か女性が先かでアメリカ政治が動く(少なくとも「沸く」)のは解放奴隷を含めた黒人男性に選挙権が賦与された1868年以来、ちょうど100年ぶりだ。

ヒラリー・クリントンはこの選挙戦をよくhistoricといって形容するが、それはあながち悪い表現ではない。すでに民主党大統領候補は黒人か女性かがなることになった。これは10年前にはまったく想像できなかったことだ。

またまた正直なところを言えば、わたしはバラク・オバマの政治姿勢を評価しつつも、ここまで闘えるとは思っていなかった。アメリカの報道を追っていれば自然とそのような結論に至ったし、黒人が二大政党の大統領候補になることを現実のものとして想定できたアメリカ研究者は極めて少ないと思う。なぜならば、広く日本でも報道されているように、アフリカ人を父にもつ「だけ」のオバマに黒人票が期待できるのか疑問に思う向きは強くいたし、2007年10月14日の記事で述べているように、「大物」の黒人政治家や公民権運動のベテランたちはヒラリー・クリントンを支持するか、少なくともオバマとは距離を保っていたのだ。彼に当初期待された支持層は、40代以下の若年層、高学歴の男性、それぐらいだった。1月のアイオワ州党員集会での勝利も、「まぁそんなこともあるだろう、でもスーパーチューズデイまでには…」と思わせるだけに留まった。つまりほんとうに正直言って、わたしはまったく「黒人」候補の支持層の拡がりを予見できなかったのだ。歴史をみつめる研究者が下手に未来予想などするものではない、だからまちがえても当然、そんな言い訳でもしたくなる。

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2008年02月22日

「人種内部」の対立とオバマ選挙戦ーーだからわたしはうれしい

よくこのような質問を受けることがある。「それでアメリカの黒人はどう思っているのですか?」。たとえばコンドリーザ・ライスやコリン・パウエルについて、イラク戦争について。たとえばO・J・シンプソンの累犯について。そして、たとえば、バラク・オバマについて。

残念ながら、それにはこう答えるしかない。「わかりません」。

時間があると、ここで逆に突っ込む(質問のされ方がそっけないものだったら「逆ギレ」する)こともある。「黒人という集団は多様な意見対立を内部にもっている集団であって、それはわたしたちと何らかわりありません。松井秀喜について「日本人」はどう思っていますかと聞かれてたとえあなたが日本人を代弁しても、それがわたしの見解と一致するという確証がもてますか?たまたま「人種」が同じだからという理由で統一された見解をもっていると見なすなら、それは一種の人種主義ですね」。「そんな「黒人の一般意思」のようなものを摘出できる能力があるなら、わたしは今こんなことをしていません、世界的知識人になってます」とか。

実は、いまさらながら振り返ってみると、20年になる黒人研究のなかでのわたしの小さな努力は、この黒人という「人種内部」の対立に光を当てることに費やされてきた。「対立」というと聞こえが悪いが、多様な意見をもつ人種集団を描き出すことで人種そのものを脱構築してやろう、そう思っていたのであろう。「白人」と「黒人」の「人種関係」に関心を払ったことは、正直言ってほとんどない。下のエントリーをご覧になってもわかると思うが、わたしの焦点はつねに「人種内部」に向かっている。

80年代後半から20世紀末にかけて"diversity"といえば人種のモザイク状態の多様性のことをいい、多様さを構成する単位は人種やエスニシティとされてきた。黒人史家のトム・ホルトは人種とは黒人を括るカテゴリー、エスニシティは白人のなかを区別するカテゴリーであり、黒人にはエスニシティが許されていないと語り、ジャマイカ出身の歴史人類学者オランドー・パタソンは人種とは学問の術語としては利用価値がなく、エスニシティに置き換えたほうが良いと語る。わたしにインスピレーションを与えてくれた人びとは当然いるのだが、それでも「間」より「内」に目が向けられることは少なかった。

なぜならば、「必死に戦っている集団の内部分裂を促している」と見なされかねないからだ。

それだからこそわかるのだが、爾来、黒人指導層は指導層内部での意見対立が表面化するのを極度に恐れた。WEBデュボイスがNAACPを辞めなくてはならなかったのは、彼が当時の執行部と異なる意見を発表したからであるし、マルコムXが公民権運動指導層から激しく嫌われたのも、彼が指導層への批判を大々的に行ったからである(下に書いたように、ジェシー・ジャクソンの大統領選挙のときに対立が表面化することがあった、しかしそれを当時者が認めることはなかった)。

オバマの登場でわたしが何よりも嬉しいのは、そのような多様性が日々日々伝えられてくること。日本で報道されることは少ないが、米語の新聞を見ると、そこには「黒人」という「人種内部」の葛藤がある。

上のYouTubeの動画は、そのなかのひとつ、昨日紹介したジョン・ルイスがまだクリントンを支持していた今年の1月14日、南部キリスト教指導者会議の元会長ジョー・ロワリーと喧々囂々の議論をするところである。このふたりは、前者はキングに憧れる神学徒として、後者はキングの側近として、苛烈極まりない南部公民権運動に従事した当人である。

彼らは言ってみれば「戦友」であり、その絆はしたがって強い。その二人がテレビ画面(パソコンモニタ?)のなかで、「人種を政争の具にしたのはどっちだ」と丁々発止とやりあっている。ファーストネームベースで!。

ここを訪れられている同業者の方、もしくはさらに「人種内部」の多様性を知りたい方がいらっしゃったら、コメントの方もぜひみてください。人種もさらには国籍も特定できませんが、何かが変わっているアメリカを感じることができます。

この葛藤のなかから新たなブラック・アメリカが生まれる、そう考えると何だか歴史の一シーンに立ち会っている充実感さえある。

2008年02月28日

あるスーパーデレゲートの決断

2月22日のここでの記事で「しばらくはsuperdelegateの動きを少しずつ紹介していこうか…」と書いたところ、意外と早く「大物」が決断をくだした。

そのエントリーでも、またそのあとのエントリーでも紹介している元学生非暴力調整委員会議長で現ジョージア州選出連邦下院議員のジョン・ルイスが、ヒラリー・クリントンの支持を撤回し、バラク・オバマの支持に回った。2月28日に『ニューヨーク・タイムズ』が行ったインタビューに答えて、彼はこう述べている。

「オバマ上院議員の立候補は、この国の人びとのハートとこころのなかで起きていた新しい運動、アメリカの政治史を画する新しい運動の象徴になっています。そしてわたしは人びとの側に立っていたいのです」。

下のエントリーでオハイオ・テキサスの予備選が接戦になった場合、スーパーデレゲートが決定権を握ると述べた。その後、『ニューヨーク・タイムズ』紙上には、女性初の副大統領候補に指名されたジェラルディン・フェラーロの「スーパーデレゲートは人びとに従うのではなく指導するのである」という旨の投稿記事が掲載されたが、その評判は決して芳しくなかった。この記事に対し、ある民主党員は編集者に宛てた手紙のなかで、もしそうなら予備選自体無意味だし、大統領選挙の日には投票所に行かないか、行ってもマケインに投票するとまで述べている。

つまりフェラーロの記事は、スーパーデレゲートの力に頼ろうとしているヒラリー・クリントン陣営にとってバックファイアするものになったのだ(フェラーロはクリントン支持)。

ここに来てスーパーデレゲートへの圧力は高まっている。歴史の研究者があまり簡単に将来の予測をしない方が良いが、なんだかオハイオ州の予備選で勝負が決まりそうな気がしてきた。

2008年02月29日

ソフィスト曰く:カラーブラインド教条主義のダブルバインド

2月29日の『ニューヨーク・タイムズ』紙が報じたところによると、ヒラリー・クリントン支持からバラク・オバマ支持に「鞍替え」しているスーパーデレゲートの数が増加しているらしい。

ニューヨーク・タイムズ社とCBSの合同調査によれば、ヒラリー・クリントンはもともとスーパーデレゲートあいだでの支持が多かったものの、オバマに対するリードは今月に入って半減、102から42まで減少している。なかにはニュージャージー州のクリスティン・サミュエルズなど、現在もNAACPで活発に活動している現役の運動家も、クリントンからオバマへ支持を変えた。

今後、黒人のスーパーデレゲートのあいだでオバマ支持に回る人間が増えることは、したがって、容易に推測できる。サミュエルズの発表のタイミングも、おそらくはオハイオ・テキサスの予備選を踏まえて行われたものであろう。

さて、ここでオバマが象徴する「ひとつになったアメリカ」について、ソフィスト的疑問が浮かんでくる。

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2008年03月05日

「カーナー委員会」が「予備結果」を発表

ここのところ、当然のことではあるが、アメリカから伝わってくる「人種」や「黒人」に関連したニュースのほとんどがオバマの大統領選挙運動のことになっている。そこで、否、その文脈のなかで考えてみると、きわめて興味深いリポートのことを伝えたい。

下の11月12日のエントリーでも記しているが、昨年、40年前に全米の都市暴動に関して調査を行った「都市騒擾に関する大統領諮問委員会」、通称カーナー委員会が、今度は財団の支援を得て調査活動を行った。その調査の予備結果によると、この40年間の黒人の進歩、人種関係改善に関する成績はD+、つまり「合格最低点(日本でいう「可」)の上の方」というものになった。

オバマの華々しい活躍を脇に、NAACPデトロイト支部の前会長アーサー・ジョンソンは、「今日の経験から言いますと、昔と較べて顕著に良くなったと言えるところはほとんどありません」と述べている。

では、どこが特に成績評価を悪くすることに繋がったのか?。新カーナー委員会はわけても5つの点を指摘している(これは予備報告の結果であり、正式なリポートは今年中に公開される予定になっている)。

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2008年03月14日

最悪のシナリオ

日本でも女性初の副大統領候補で民主党スーパーデレゲートのひとり、かつヒラリー・クリントン陣営の財務担当だったジェラルディン・フェラーロの発言が人種主義的だと言われ、クリントン陣営から退いたことが報道され始めた。

その詳細については近日中に論じるが、クリントン vs オバマの予備選がヒートアップするにつれて、ひとつの大きな不安が浮かんできた。それはブッシストがずっとホワイトハウスに居座るということである。

そのブッシストとはジョン・マケイン。彼は、ブラック・コミュニティでは、ハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを直撃し、非常事態が起きていたときに、ブッシュと一緒にケーキを喰っていた立派なブッシストである。

では、最悪のシナリオとは…

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2008年04月01日

決戦はフィラデルフィア:死の影の谷間の声がひな壇にあがった「希望」に迫る

以前このブログで紹介したムミア・アブ=ジャマルの死刑判決に対し、ペンシルヴェニア最高裁の再審判決がくだった。証拠不十分を理由に、死刑から(仮保釈の可能性のない)無期懲役に減刑された。

法に基づく裁判は、一般的市民感情からすると、「真理」を求めて議論する場のように思われる。しかし、これは現実のところ、近代法の権能を誤解したものでしかない。裁判とは、平たく言えば、原告と被告が対立した議論の「落としどころ」を探りあうものである。この誤解はときに市民感情からの乖離ともなる。

ムミアが無罪なのか有罪なのか、真理はひとつしかない。ならば死刑か無罪かのどちらかが妥当であり、裁判所はそれをつきとめるべく努力せよ、とこんな感情がわき上がってきても、それはそれで理解できることだ(というかわたしはむしろそう強く思う)。

だからこそ、「政治犯」と目されたものを救うには、「落とし前」をつけるための条件を良くするため、市民による政治的プレッシャー、もっと通りの良い言葉を使えば、輿論を喚起することが必要となってくる。

そこで、パム・アメリカらムミアの支持団体が大胆な呼びかけをおこなった。4月22日、民主党全国大会前の最後の大票田での予備選がペンシルヴェニア州で行われる。そこでメディアの関心が集まってくる19日土曜日にムミア投獄に関し大抗議集会、デモ行進を敢行するというのだ。

他方、バラク・オバマは、黒人候補と呼ばれつつも、黒人の問題(black isssue)を全面から取りあげることをしてこなかった。ついこのあいだ起きたジェレマイア・ライト牧師の"God damn America"発言をめぐる論争で、結局彼はその問題を取りあげざるを「得なくなった」のだが、それが敏感なtouchy問題であることに変わりはない。ちなみにさまざまなメディアで主張されているが、ライト牧師の発言は前後の文脈をまったく無視した発言であり、それを主にはフォックステレビなどが誇張して問題化したものである。彼の批判のトーンは、アメリカを「暴力の御用達」と呼んだ晩年のマーティン・ルーサー・キング牧師のそれと比すれば、むしろ穏健なものである。左の説教をご覧あれ。

ところで、ムミアは、フィラデルフィアの監獄のなかから、ライト牧師を批判し人種間和解の崇高な理想像を同じくフィラデルフィアのコンスティチューション・ホールで描いたオバマについて、こんな辛辣な判断をくだしている。

「アメリカ史上初の黒人大統領という野心に駆られ、オバマは、自分がどれだけブラックでないのかを証明するレースの最中にある。だからこそ、自分の恩師と思う人間でさえ非難することができたのだ」。

民主党予備選で、ずっと人種とジェンダーは、それがあきらかなのに直接には触れられない、否、オバマもクリントンもそのふたつを「タール人形」とみなす奇妙な事態が展開されてきた。選挙のサブテキストであった問題は、しかし、いまテキストになろうとしている(この問題はもういずれ学会報告を行う予定である)。

NAACP会長で元連邦下院議員ジュリアン・ボンドは、囚人が参政権すら剥奪されている問題を、2000年大統領選挙のときからずっと追及している。そんな問題をオバマはとりあげるだろうか。法的カウンセルが必要だがその費用をもたない人びとのためにシカゴ・サウスサイドで活動した経歴をもつにもかかわらず、その資質をまだ彼は見せていない。だが見せろとムミアが迫る!

2008年04月04日

ちょっと待ってください、マケインさん

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今日は、メンフィスでキング博士が暗殺されてから40年目に当たります(こういう内容なので敬体を使います)。

なので、ヒラリー・クリントンさんとジョン・マケインさんはキングの偉業を讃えるためにメンフィスで選挙運動をしていました。

でも、クリントンさんは、さんざん保守派から言われているように60年代からの生粋のリベラルですが、マケインさん、あなたハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを襲っていたとき、ブッシュ大統領と何してました?。脳天気におめでたい大統領と一緒にケーキ食べていませんでしたか?

大丈夫ですか、あなたが「アメリカ軍全軍の最高司令官」になって…、

キング博士が、彼の数多く残っている説教や演説のなかで好んで引用していたのが、「もっとも小さな兄弟のために尽くせ」ということでした。あなたの政治思想や政治行動とキング博士の行動や思想に何の関係があるのですか?。

破廉恥な政治「運動」は止めなさい。

2008年09月24日

激戦区(バトルグラウンド)からの報告(1)

「ブログを再開する」とここで宣言しつつ、それでいて一向に更新ができなかった。さて、この間、わたしはデトロイトから州際間フリーウェイで1時間ほどいった街にあるミシガン大学に引っ越した。引っ越し直後、民主共和両党の党大会があり、それをいろいろと考えるなかも、引っ越しに伴う日常生活上のごたごた、さらには入国管理に伴う書類等々のことで忙殺され、今日まで更新が遅れてしまった。申し訳ございません。

今度こそ、本気で再開する。

早速本題に入り、わたしが現在住んでいるミシガン州。ここは今回の大統領選挙での「激戦州」battle ground statesのひとつであり、この州の行方が選挙結果を左右するとも言われているところにあたる。そこにわずか1か月だが、住んで肌身で感じた実感を、伝え始めてみることにする

ところで、ブラッドレー効果という言葉は、日本のマスコミは伝えているだろうか?。ブラッドレー効果とは、1982年のカリフォルニア州知事選挙で起きた現象のことを指し、一般的には世論調査の高い黒人への支持率は「割引」して考えるべきである、ということを意味する。

この年、ロサンジェルス市長を数期務めたトム・ブラッドレーという黒人政治家が、カリフォルニア州知事に立候補した。黒人居住区、もしくはゲトーを地盤に人口統計上の多数派を形成できる都市の選挙、さらには小さな選挙区からなる下院議員とことなり、州全体を選挙区とする連邦上院議員や州知事(ブラッドレー効果はヴァージニア初の黒人州知事、ダグラス・ワイルダーに因んでワイルダー効果と呼ばれることもある)、さらには大統領選挙では白人への訴えかけにいかに成功するかが、黒人候補の当落を決定する要因となる。ロサンジェルス市長を務めたブラッドレーは、市の政治のなかですでに白人からの支持を取り付けており、カリフォルニア州知事になれる有力な候補だと目されていた。そして実際、選挙戦中の世論調査では終始彼の優位が伝えられていた。ところが実際に票を開けてみると、彼はあっさり落選してしまった。つまり世論調査の数字は彼への支持を大げさに伝えていたのだ。

では、なぜこのような現象がおきたのであろうか。その答えは、ポスト公民時代の人種関係の有り様と強い関係がある。公民権運動が、「人種主義は悪」ということ、「人種的偏見をおおやけにするのは恥ずかしいこと」という感覚を拡めることに成功したことと関係があるのだ。なお、1960年代初頭までのアメリカ南部では「黒人は差別されて当然の劣った人種である」と公言してはばからない人物が多くいた。それはこう述べることがむしろ高い識見を持っているとみなされるとんでもない制度が存在していたからである、公民権運動が砕いたのはこの制度だ。公民権運動の勝利後、この様相は一転する。事態はこうなったからだ。

電話での世論調査がこう訊いてきたとする。「あなたは黒人差別をしますか?」。これにいま「はい」と答える人間はよほどどうかしている。本当は差別をしつつも、見知らぬ他人には「いいえ」と答えるのが当たり前だ。あとで「面倒」がおきるのも防げるし。とすると、選挙戦のときに訊かれる質問

「人種がこの選挙に影響を与えると思いますか」。これは困った。黒人ならばこれに「はい」と答えても人種主義者だとは言われない。しかし白人だったらどうだろう。そして電話の声のイントネーションが黒人のように聞こえたときは一体どうする。人種関係だとわかりにくい方がいるかもしれないので、思い切って、ジェンダーで置き換えてみてみよう。女性が電話で訊いてきた。「女性に首相を務める能力があると思いますか?」あなたは女性の電話の声の主に「いやありません」と言えるだろうか。

つまり、1982年の選挙戦で世論調査の対象となった人びとのなかには、「ブラッドレーへの不支持は、〈わたしは破廉恥にも人種主義者です〉と言うに等しいと考えて、彼への支持を世論調査のときに表明したひとが少なからずいたのだ。ところが、選挙を投票するとき、誰もその行為を覗くものはいない。秘密投票は民主主義の大前提だから。

その結果、本選挙での逆転が起きた。少なからずの人が、「黒人知事」の誕生を怖れていたのである。

ミシガン州での最新の世論調査、デトロイトニュースでの調査では43%対42%でオバマがリード(全国では、9月21日のギャラップ調査、49%対45%)。これはブラッドレー効果を考えるとマケインがリードしているに等しい。

わたしの住んでいるアナーバーはフラッグシップ校の所在地であり、大学街のご多分に漏れずリベラルな街で知られている。もとよりここはアメリカの学生団体、SDSの発祥の地だ。わたしの周りには、したがって、マケイン支持者などどこにもいない。デトロイトにリサーチに行っても事情は同じ。日本ならば、ほとんどが自民党支持者のなかでいつもバカにされている社民党支持者がひとりくらいいるものだ。それがそうでない。マケイン=ペイリンの選挙戦は病的なまでに憐れである。そう思えるのもわたしがいる場所が影響しえいるのだろう。わたしがいる場所が、そう思って安全だと言ってくれているのだろう。これはとても不気味である。

バトルグラウンドからの報告(2)

『デトロイト・ニュース』紙がミシガン州有権者の最新の世論調査結果を発表した。

オバマ:48%
マケイン:44%
未定:7%
ほか:1%

他方、世論を誘導する偏向報道で悪名高い保守派の放送局フォックスニュースーーニュース報道なのに演出過剰なお台場にある放送局を〈アメリカの国力÷日本の国力〉倍ほど悪質にしたような放送局ーーが言うには、ブラッドレー効果を踏まえると8%差までが逆転圏らしい。

アメリカでは毎日のようにペイリンの経歴や業績が嘘であり、政策論が辻褄が合わないと報道されている。マケインが勝つということを、ブラッドレー効果を踏まえて考えると、ぞっとする。

なぜならば、リーマン・ブラザースが倒産したその日、「わが国の基本的経済指標は好景気を示している」ととんでもない事を語り、ブッシュ政権が公的資金投入の詳細を議会に報告する「前」にその「批判」を行う辻褄が合わない露骨な愚衆迎合路線をとっている政治家がホワイトハウスに入るとなると、それは世界全体に対しての大きな災難を意味する。

大統領選挙に投票したくなってきた。とうてい間に合う話ではないが…

2008年09月25日

バトルグラウンドからの報告(3)

ついに始まった、共和党お得意の白人が黒人に抱く恐怖感に訴える破廉恥なネガティヴ・キャンペーンが。

1988年の大統領選挙、10月半ばまで、当時副大統領のジョージ・H・W・ブッシュがリードしていた。ところが、ウィーリー・ホートンという名前の黒人が白人を強姦致死に至らせたことから形勢は一変する。リー・アトウォーターという政治顧問は、これをネタに、ホートンの名前と彼の仮保釈命令にサインした民主党候補マイケル・デュカキスの顔を当時最新の画像処理技術だったモーフィングをつかって巧妙に重ね合わせ、こう訴えかけた。「デュカキスへの票は、犯罪人を週末旅行に招待することにつながる」。

さて右の動画、これは数々のスキャンダルにまみれ9月にデトロイト市長を辞職したクワメ・キルパトリックとオバマを重ね合わせているものである。これは以下の点において「現実」を歪曲し、白人の深層心理にある人種恐怖に訴えているものだと判断することができる。

・オバマとキルパトリックは政治的関係はない。そもそもミシガン州では公式の民主党予備選は行われていない。同じ党に所属すれば演壇を共にすることはあろうが、これはその瞬間を過大に取り上げたものであり、キルパトリックの容疑とオバマとはまったく関係がない。

・キルパトリックの描き方、これは犯罪人の写真を撮るときに使われるアングル、マグショットを使っている。しかし彼は指名手配された重罪犯では断じてない。彼のスキャンダルは政治家の倫理に関するものだ。これは黒人=犯罪者という一般に流布したイメージを過剰に強調する、きわめて破廉恥な作為的なものだ。

ではこれがどこで流されているか?

ミシガン州デトロイト市郊外のマコム郡でである。この地は1980年にレーガン政権誕生の大きな基盤となった民主党を離反し共和党を支持した人びと、白人ブルーカラーを中心とする「レーガン・デモクラット」が多く住むところだ。過日の記事ではマケイン支持者がどこにも見あたらないという旨のことを書いたが、別にわたしはどこに彼の支持基盤があるのか知らなかったわけではない。おそらくこの辺りに存在していることは想像できる。1980年の「レーガン・デモクラット」の誕生は、「マイノリティを〈優遇〉するあまりに、われわれ労働者を見棄てた」とする感情から起きたものだった。共和党は、その感情の奥底にある人種間恐怖を煽ろうとするダーティな戦術に出た。

もし民主党が負けたら世界は大災難に見舞われる

ジョン・マケインという人物は、価値中立的なmaverick(変わり者)などではない。

奇抜なこと(たとえば、「行き場所のない橋」の建設に待ったをかけたと意気込んではいても、その橋への道を「誘致」していた威勢が良いだけの「ホッケー・ママ」抜擢)が好きなだけの人迷惑なアホの政治家である。

本日、彼は、金曜日に行われる予定の大統領候補テレビディベートを延期するようにオバマ陣営に申し入れた。金融危機への対処を討議する時間が欲しいというのが理由だった。

しかし、先週、マケイン陣営は、ブッシュが救済案を公表する「前」に、6つの対応策を発表し、ブッシュ案を待っているオバマの対応の遅れを非難していた。その日のCNNニュース、この非難にどう応じるかとアンカーマンに問いかけられたオバマの政策顧問は「まだ政策が発表されていないのに対応も何もないでしょう」と答えていた。しかし、そこにマケイン支持者が執拗な非難を繰り返し、その顧問は「ならば言いましょう、ひとつ」とアメリカ経済の抜本的改革の骨子を言わさせたくらいだ。さらにまた予備選の「公約」から自身の税制案の方が一般的家庭には増税になると広く指摘されているにも関わらず、厚顔無恥にもオバマは増税をすると寝も葉もない噂をテレビCMで流し続けている。

オバマは、先ほど、この申し入れを拒否した。彼の雄弁ぶりはもはや世界中が知っていること。しかも今回のディベートは、3回あるものの1回目、テーマは外交問題である。これを「敵前逃亡」と言わず何と言おう。あきれてしまう。

アメリカ政治を見てきて20年以上になるが、こんなことは異例だ。

それにもかかわらずマケインが当選するとなると、それは世界にとって大災難を意味する。

2008年09月27日

バトルグラウンドからの報告ーー速報

マケインが大統領候補ディベートに参加するとたった今(現地時間11時35分)発表した。本来の「力」がないもの、弱点をもっているものは、何かと奇策に頼るものだ。

ぶっちゃけ言ってーーTell Like It Is

思い切って翻訳すれば「ぶっちゃけ言って」Tell Like It Isという名曲がある。

こちらに来て、アーロン・ネヴィルが60年代に歌った"Tell Like It Is"はプロテストソングだということを知った。作詞作曲は別人だが(Lee Diamond, George Davis)彼が歌ったときに、この曲は1960年代の「時代精神」を映し出すものになったのだ。その歌詞はこうなっている。

Tell It Like It Is

If you want something to play with
Go and find yourself a toy
Baby my time is too expensive
And I`m not a little boy
If you are serious
Don`t play with my heart
It makes me furious
But if you want me to love you
Then a baby I will, girl you know that I will
Tell it like it is
Don`t be ashamed to let your conscience be your guide
But I know deep down inside me
I believe you love me, forget your foolish pride
Life is too short to have sorrow
You may be here today and gone tomorrow
You might as well get what you want
So go on and live, baby go on and live
Tell it like it is
I`m nothing to play with
Go and find yourself a toy
But I... Tell it like it is
My time is too expensive and I`m not your little boy

これは単なるラブソングだ。ところが、"you"をアメリカ白人に置き換えると、「自由だ自由だということばをもて遊ぶ play with」ことに対する抗議となる。

Tell like it is!とは、ちなみに、黒人教会では頻繁に聞こえてくる「合いの手」だ。

今回の大統領選挙、人種やジェンダーといった本来は「テクスト」であるものが「サブテクスト」になっていることは、6月のアメリカ学会年次大会で報告した通りだ。その解釈をこちらでディナーの席でちょっと話してみると、「そうすることでより危険なことになっている」という意見を頂いた。

第一回ディベートまであと30分。会場は、公民権運動の激戦地のひとつミシシッピ大学だ。なかには"Tell like it is!"と声をかけたくなっているものもいると思う。ちなみに、デトロイト・ニュース紙によると、ミシガン州の最新の世論調査ではついにオバマのリードが10%まで拡がった。これまで奇人変人のマケインは何度も「ギャンブル」をしかけてきたが、今回の選挙戦中止ギャンブルには誰もひかからなかったようだ。

バトルグラウンドからの報告(5)──もうひとつのサブテクスト

第1回の大統領候補討論会を観た。その素朴な感想。

1.経済問題の比重が大きい
今回の討論会は外交問題がテーマだった。それにもかかわらずはじまってから直後、全体の3分の1まで経済問題、山積する外交問題を背景に現下の経済危機にどう対処するのか、という問題に議論は終始した。オバマが「すべての政府規制は悪であるという考えが悪政の根源です」と言い放ったときには、思わずTell Like It Isと言いたくなった。なぜならばこれは日本の政治にも言えるからだ。レーガン=サーチャー=中曽根から始まる世界規模の問題である。20年もかけてたまった「ツケ」は大きい。ほら、あなたの「田舎」からも「鉄道」が消えていて、「親」が、これまでは新幹線の駅や空港までは出迎えに来てくれたものの、今後はそうもいかない、と感じている、ほらあなた、それが国鉄民営化のツケだ。

2.もうひとつのサブテクストーー世代
民主党予備選のときから、今回の選挙は、ジェンダーと人種がテクストとなりながら、それが正面から取り上げられないまま進んでいるということの奇異さについては、これまでもわたしはいろいろな場で述べてきた。今回、ジェンダー、人種とは別の問題がサブテクストにもぐりこんできた。それは世代の問題である。マケインの言い分は、咀嚼して言うとこういう事だ。「わたしは知っています、そこにも実際に行ったし、ここにも行ったその経験から言っているのですが…」。結論、「わたしの言うことを聞いていなさい、若いオバマさんは何もわかっちゃいないのです」(英語で言うと、I know that 現在完了経験)。Mr. Obama doesn't really knowということばを、パターナリスティックに何度繰り返したことか。道理で人口11万、その3万3千人が学生・大学職員という街ではマケイン支持者にあえないわけだ。このマケインというおじいさんには尾崎豊でも聴かせてみたい。

1988年、当時では大統領候補としては最年長だったジェイムス・ベーカーと、現職で「若い」大統領ビル・クリントンとの討論会をシカゴで観たことがある。その頃はインターネットの時代の草創期(最新のブラウザがネットスケープのv.2、いちばん普及しているメールソフトはEudoraだった)、「わたしのことを知りたければ」とメールアドレスを述べるベーカーの姿に、一緒に観ていた者がみな爆笑したものである。今回は爆笑するよりも、もう痛くなってきた。

そんな痛いおじいさんにオバマは正面攻撃。「問題はナンバーワン、……、ナンバーツー」と理路整然と答える姿は、奇襲も何もなく立派そのもの。もっとも2000年の大統領選挙、政策通のゴアがあまりにも仔細な政策論を展開するのでそれに有権者はうんざりしたという先例はある。しかし、選挙コンサルタントが大活躍する時代、オバマの動きがこの先例を踏まえていないということはありえない。彼らは「正攻法」を選んだのだ。

そんな周囲の人間と話しをして、こんな感じをほぼみんなが受けていた。マケインは、そのまま戦争を続けたらベトナム戦争はアメリカが勝った、と本気で思っている(これは「ネオコン」の思想の支柱でもあるのでそう驚くことではないが…)。これは南太平洋で行き場を失った「旧日本兵」と同じだ。「敗北」の認識すらできない人間が「全軍の最高司令官」なったらいたたいどうなるだろうか。

それにしても、やはりこの選挙が歴史の一幕であることはまちがいない。共和党大統領候補に「黒人」が挑む、本選挙で挑む、その「絵面」は壮観だった。また、「黒人大統領候補」が、"Thank you, University of Mississippi, Ole Miss”と述べる模様を観るのは隔世の感すらする。なお、CNNの調べで、「支持するか否かにかかわらず、この討論会を終えてオバマが勝利する」という意見にYesと答えたものは、63%に終わった。

2008年09月30日

有権者登録について(1)

有権者登録 voter registration という言葉をご存じだろうか。

アメリカの投票では、自治体から投票所の案内を兼ねたハガキが届くというようなことはない。事前に有権者であることに名乗りをあげ、登録をしなくてはならない。

この登録の際に、かつてはさまざまな細工や露骨な妨害がなされ、黒人から投票権が剥奪されてきた。それが、マーティン・ルーサー・キングを「指導者」とする公民権運動が変化させ、1966年公民権法(投票権法)の制定により投票権剥奪は過去のものとなった。少なくとも教科書的理解ではこうなっている。

しかし、2000年にフロリダ州で露骨な投票妨害が起きてから以後、どうやらその事情ははっきりと変わったようだ。以後、数回にわけて、ミシガン州の状況を報告する。

2008年10月02日

有権者登録について(2)

有権者登録を原則的に実施するのは州政府である。アメリカ合州国は、イギリス帝国に抗して独立を達成した国であることから、建国当初より地方自治の気風が強い。地域の状況は地域の人びとがもっともよく知っているという考えから、有権者登録も州政府が実施することになった。

Michigan-Voting-Registration-Brochure-1.gifしたがって、その細則は州によって異なることになる。奴隷制廃止後の南部は、このアメリカ政治制度の特徴を利用し、元奴隷に対しては(1)識字テストを義務化する、(2)投票税を課す、(3)暴力(州政府はこれを取り締まろうとはしなかった)を行使する等々を通じ、投票権を剥奪してきた。一般的に、この南部の制度は、公民権運動によって破壊され、黒人は投票権を得たと理解されている。

左の画像は、南部ではなく中西部のミシガン州が配布している有権者登録の方法を記したパンフレットだ。現在は、民主共和両党の予備選も公選とみなされ、州が管理することになっている。

そこでまず1頁左の日程のところに着目してもらいたい。有権者登録の締切は、そう、来週の月曜日なのだ。これを過ぎて突然投票したくなっても、投票はできない。

さたにはまた、選挙運動も、実質としてこの日までに票を掘り起こしてしなくてはならない。この日を過ぎた後は、文字通り「無党派層」を争う闘いとなっていく。

さて、この有権者登録の法律、実は2005年以後急速にひろまったある傾向を部分的に映し出したものである(このつづきは次回)

2008年10月03日

バトルグラウンドからの報告(6)──オバマ、ミシガン州を確保

本日、マケイン陣営の本部は、ミシガン州から撤退することを発表した。これは実質として共和党がこの州を民主党に譲ったことを意味し、オバマの選挙団獲得が確実となった。

したがって、ミシガン州はバトルが終わった最初のバトルグラウンドとなったのである。意外とあっさりしていた。ここのところオバマ陣営の優勢が伝えられ、支持率の差が拡大しているとは言われていたものの、それはそれで「アナウンスメント効果」(これについてはいずれここで詳しく説明する)をわたしは怖れていた。

この小連載はこれで終わりとなるが、これまで感じたこと、調べたこと(たとえば有権者登録の問題など)はここに引き続き書き記していく。また、「選挙戦から撤退」ということも、日本の選挙の感覚だとわかり難いと思うので、これもまた日を改めて説明する。

それにしても、これからは共和党の破廉恥な選挙公告を見なくて済むと思ったら、ホッとする。

2008年10月06日

有権者登録運動について(3) ── Operation Registration, Get-Out-the-Vote

20081005_voter_regstration_small_jpgこのサイト運営開始となった最初の記事を見て欲しい。わたしは、その頃、2000年の大統領選挙の際にフロリダ州で大規模な投票妨害が起きたことに対する抗議を記している。

その後の2004年もまた今度は北部のオハイオ州で投票妨害が確認された。それを契機に、投票前に有権者の確認を厳格化することを通じて、選挙の実施をスムーズにしようという理由で選挙法の改正が行われていった。

その代表例的手法が、2005年のジョージア州の州憲法改正を皮切りに次々と可決されていった、投票の際に写真付きIDの提出を求めるというものである。

さて、読者のなかで写真付きIDをもっている者がどれだけいるだろうか?

さらに、ミシガン州の改正された選挙法律は、IDの住所は有権者登録を行った住所と同じでなくてはならない。

もっとも、ミシガン州では、IDをもっていないものでも、有権者当人と同一人物であることの誓約書affidavitを書けば投票をできることになっている。ところが、下の州政府が配布している案内書をみてもらいたい。affidavitに関する説明にはゴシック体の強調も何も施されていなく、5頁目の冒頭にさりげなく書かれているにすぎない。

ところで大統領選挙は11月4日に実施される。この日付をカレンダーで見ていただきたい。何か日本の選挙との違いに気づかれないだろうか?。

そう、この日は平日である。したがって投票するためには、午後8時まで行われている投票場に仕事が終わるとすぐに直行しなくてはならない。

さらにまた、アメリカでは投票所の案内が送付されてくることなどなく、どこで投票すれば良いのかの情報を得るのは市民の「自己責任」とされている。そして、これは日本でも同じだが、投票場を間違えると投票はできない。

こう聞かされるともううんざりする人も少なくはないであろう。アメリカで投票することは日本よりも増して面倒くさい、そう言っても過言ではないであろう。

だからこそ、2大政党は、有権者の動員に必死になるのである。

ひとつ下の記事に、オバマがミシガン州を確保したと書いたが、それはこのような事情の強い影響を受けての判断だ。共和党はミシガン州から運動員の大半を引き揚げた。アメリカの選挙では政党が投票場までの交通手段を提供(この国はおそろしく公共交通機関が脆弱である、ほとんどのところが車がなくては生活できない)することは決して少なくない。運動員が少ないということは、したがって、きわめて不利な状況を生み得る。

さて、今日の記事冒頭の写真は、ミシガン大学のキャンパスの中心で有権者登録を行っている民主党運動員の姿である。わたしは有権者登録を呼びかけているマケイン支持者にはついぞあわなかった。

ちなみに、各州で有権者登録の厳格化に乗り出したのは共和党である。アメリカでIDをもっていない人の推計は11%。この数は決して少なくはない。なぜならば、民主主義の原則は、だれもが一票を行使できるというところにあり、この原則だけは譲ることが許されないからだ。アメリカの人口全体に占める黒人の比率が12%。この12%の権利が否定されることで、どんな暗い歴史が作られたのかを考えてみれば、この問題の大きさもわかるであろう。またここで、奴隷解放によっていったんは投票権を得た黒人男性の権利が剥奪されるとき、「黒人は投票してはならない」という法律が可決されたのではなく、婉曲的表現や暴力によってそうされたのだという歴史的経緯も忘れてはならない。

マケインもペイリンもアメリカ市民のこと、ごく普通のアメリカ人のことを考えていると言っているが、果たして投票率の低下を望んでいる政党の候補がそのようなことを言えるだろうか。

昨日、デトロイトのコボ・アリーナでは、Jay-Zが、オバマ応援のために有権者登録を促すコンサートを開き、1万人を動員した。明日、わたしの隣町にオバマ本人が遊説にやってくる。モータウンの故郷、黒人の率が約9割にのぼるデトロイトでラッパーが支援に乗り出せば、製造業の不振に苦しむミシガン州南西部イプスランティ(ミシガン州の失業率は8%強にのぼり、全米平均の3%も高い)の労働者の動員にブルース・スプリングスティーンがやって来る。

そして明日はミシガン州の有権者登録受け付け締切日である。初の「黒人候補」が挑む大統領選挙まで1か月を切った。

次回は、なぜマケインはミシガン州から撤退したのかを、アメリカ大統領選挙の仕組みを解説しつつ解説したい。

2008年10月07日

「オバマ後援会」主催のコンサート(1)

20081006_springsteen_rally_small.jpg隣町のイースタン・ミシガン大学の野球場で開催されたオバマ支援コンサートに行ってきた。来る2月にはスーパーボウルのハーフタイムショウに出演することが決まっているブルース・スプリングスティーンが出演、しかも入場料は無料だ。

右の写真(クリックすると拡大)は、その最寄りのバス停に張られていたビラである。そうこの日、ミシガン州は有権者登録受付の締切を迎えた。もちろんビラを貼っているのはオバマ陣営なのだが、このブログでも何度も述べてきたが、わたしはほんとうにマケインがこのような努力をしているのを見たことがないのである。

スプリングスティーンは黒人アーティストではないではないか、と思われるふしの方もいらっしゃるかも知れないが、わたしは実は高校生の頃より彼の大ファンである。彼は実はブルージーなのだ。かつての白人の強烈なフォーク・ロック・シンガーはブルージーである。公民権運動のテーマソング、「ウィー・シャル・オーヴァーカム」はそのような伝統が息づく、テネシー州のハイランダー・フォークスクールで生まれた。

労働者階級の奥底に深く入っていけば、黒と白の境界は消えていく。

さて、スプリングスティーン曰く。「俺の敵はどうやら退散したそうだが、まだ勝利を当て込んではならない、後はどれだけの人間が選挙当日に票を投じるかが問題だ」。

さて人種の観点から見たこのコンサートの報告はこれから少しずつ行っていく。次にこのコンサートに触れるときには、まずは観客層について思ったことを綴りたい。

2008年10月09日

有権者登録運動について(4) ── Blue States と Red States

さて、このタイトルで前回予告したように、少々堅苦しいがアメリカ大統領選挙の仕組みを紹介しよう。

昨日の大統領候補テレビ公開討論を終えた直後のCNNの調査では、ついにオバマの支持率が54%に達した。しかし、これは大統領選挙に必要な「票」の54%が支持したことを意味しない。

アメリカの大統領選挙は、州ごとに票の集計が行われ、州の第一位の者がその州に人口比に応じて割り当てられた選挙団 electorate を獲得するという仕組みになっている。そのため、人口の少ない州でいくら「強烈に優勢」であっても、大きな州で「僅差で敗北」を続ければ、選挙には負けることになる。したがって、算術的な計算のうえでは、獲得票数で勝っていても、選挙戦略をまちがえれば選挙自体に負けることもあり得るのだ(実際にそのような事態が生じそうになったこともあるーー歴史的事例に関してはヴァージニア大学が運営している Geostat Center の地図がわかりやすい)。

では、この選挙団の獲得数にみる「支持率」も、最近ではネットですぐに見られるようになった。たとえば、Electoral - Vote.com が提供する速報は、歴史的時系列的な地図も簡単に見られ、もっとも親切でわかりやすいものになるである。ちなみにこのサイトはRSSフィードはもとより、 iPhone 用のアプリ(iPod Touch でも動くはず)もあるので便利である。

さて、この地図を、特に南部に着目して、少し前の選挙までさかのぼって見てほしい。

南部とロッキー山脈の諸州では、なんと驚いたことに、1974年の選挙以来一貫して共和党候補が選挙団を獲得している。そしてまた、驚いたことに、ニューイングランドの北東部の州は、入れ代わって民主党が一貫して選挙団を獲得している。

アメリカの報道機関は、このような地図を描くにあたり、民主党が獲得した州を青色、共和党が獲得した州を赤色で塗る。いわゆる「Blue State と Red State の対立」という構図は、このような事情を反映して言われるようになったことである。

そしてここで強調したいのだが、黒人を初めとするマイノリティの権利に敏感(それを遺憾に思う人間は「マイノリティに対して甘い」と言うだろう)だった民主党は、南部の州を「失った」のである。「失った」と言うのは、1968年まで、つまり公民権運動がいちおうの「終結」を迎える年まで、南部は民主党の「牙城」(英語では Solid South と言う)だったからだ(このような事態の転変についての詳細は右の本が詳しい)

なお、いま先ほど放送されていたCNNは、ミシガン州が民主党に傾くのが有力になったので、「オハイオ州とペンシルヴェニア州が鍵を握る」と報道していた。このふたつの州は、上のリンクにみるように、大票田とは言えないものの、キャスティングボートを握るには十分の選挙団をもっている。

マケインがミシガン州から「撤退」したのは、このような事情を考慮してのことである。野球に喩えてみよう。9回まで12対0。そこで抑えのエースを投入する監督もいなければ、さぁ反撃だと怪我で休ませている主力打者を代打に送る監督もいない。ふつうならそのような「余力」は「次の試合」に「温存」させる。それが指揮官というものだ。ここで「最後まで全力でやるのが本来の姿だろう」などと「正論」を言っても通用しない。アメフトに通じている方ならば、最終クォーターを迎えて、もう敵側がどう考えても逆転できないとわかった時分には、たとえゲームが続いていても、スポーツドリンクをヘッドコーチの頭にかける「儀式」が行われているのを観たことがあるだろう。そうこれはプラグマティックな算術の世界なのである。

ここで気づかれた方もいるかもしれない、ヒラリー・クリントンが不評を買いつつも自分こそが electable だと主張し続けたことの根拠には、このような算術があった。スーパーチュースデイ以後のオバマの脅威的な連勝は、実は本選挙になると民主党には勝ち目のない Red State で起きていたのだ。

ところで、CNNと違った観点から、わたしはこの選挙がほんとうに Change を意味するならば、それはくどいようだが(結果はともかくも)ミシガン州の投票「動向」と、ヴァージニア州やノース・キャロライナ州などのバトルグラウンドとなっている南部の州が重要な意味をもつと思っている。では次回のこのエントリー題での記事はこの点について詳述しよう。

2008年10月11日

バトルグラウンドからの報告(7) ── ついに身体を腐食し始めた人種主義の毒

わたしがお世話になっている研究所の人と選挙の話をしていて、こんなことを言う人がいた。「民主党も共和党も直接に人種を問題にすることを必死になって避けている、だけどこの選挙の争点のひとつは間違いなく人種だ、必死になって避けているがゆえに、返って危険な状況が生まれている」。

ちょっとわかりにくい話ではあるが、少しそこのところを最近の展開をふまえて解説したい。

CNNの看板番組 Anderson Cooper 360 が報じ、今日もLarry King Live が詳述しているところによると、ミネソタ州でのマケインを支援するタウンミーティングでこんなやりとりがあったらしい。

白人女性:「わたしはオバマを信頼しません。彼について書かれているものを読んだんですが、彼はアラブ人ではないですか」

マケイン:「いえ、そんなことはありません。彼は家族を大切にする立派な人物です。わたしはただ根本的政策で違う意見をもっているだけなのです。この違いこそが選挙運動で大切なのです」

次には男性が「わたしはもうオバマが怖いんです、怖くて仕方がありません」。

映像を見ると、マケインはそうとう慌てている。「何も怖いなんて…。怖くなんかありません」とやみくもに否定するだけ。

第2回の討論会が終わって以後、共和党は新たなオバマ攻撃材料を選挙戦に持ち込んできた。バカらしいことではあるが、それはオバマの名前。彼の名前をミドルネームまで正確に綴ると、それはバラク・フセイン・オバマになる。共和党幹部は、このフセインというところを殊更強調する選挙演説を行ったり、サラ・ペイリンに至っては「テロリストとねんごろになっている」"pal around a terrorist"(これはオバマの支持者のなかに、60年代の連続爆弾犯の過激派がいるのを揶揄したもの)とまで述べてきた。下にあるクワミ・キルパトリックとの関係をやり玉にあげる公告と良い、遠回りのメッセージとして、「こいつはまっとうなアメリカ人なら信頼するはずがない「人種」に属している」と言い続けてきたのである。

ところが、「上品になったアメリカ」では、人種主義に訴えることを直截な表現で公共の場で行ってはならない。なぜならば、そうすることで離反する人びとが着実に増えているからだ。

世は「ブラッドレー効果」の時代。この時代にあっては、世論調査の調査員に対して対面を取り繕う層(英語でswing vote、敢えて訳せば「無党派層」になろうか)に訴えてこそ意味がある。しかし、無党派層はこれでは離反する。なぜならば、彼ら彼女らは世論調査の調査員に対しても「本性」を見せることができない人びとだからだ。

したがって、人種主義に訴える共和党に戦略は、「わかるひとにはわかる」形、「コード化されたことば」coded wordを使ってこそ、最大の効果があがる。直截で赤裸々な人種主義はリスクが高いのだ。クスリはリスク…

ところがミネソタの女性は、直截に言ってしまった。こまったのがマケイン。ここで

「はい、そうですアラブは信用なりませんし、怖いんです」

と言えばどうなるであろう。

イラク戦争の最大の支持勢力はサウジ・アラビアやアラブ首長国連邦。アメリカはそもそも湾岸戦争のときに、クウェートを救うために戦争を率いた。大統領候補が「アラブは信用ならない」と言ってしまったら、これは「アメリカの国益」にも大きな悪影響を与える。

それを民主党が見逃すはずがない。ああ、しまった、大統領候補討論会もまだ一回残っている。

しかし、共和党は、この女性が勘違いしてもおかしくないような運動を展開してきたのである。その「毒」が早くまわり始めてしまった。それで共和党自身が「解毒」に必死だ。この「毒」は、「共和党に一票」分だけ効いてくれば良かったのだ。しかし、どうやら悪辣な公告の度が過ぎたようである(『ニューヨーク・タイムズ』論説文のマケイン批判を参照)。

さてもう一度

「民主党も共和党も直接に人種を問題にすることを必死になって避けている、だけどこの選挙の争点のひとつは間違いなく人種だ、必死になって避けているがゆえに、返って危険な状況が生まれている」

2008年10月12日

バトルグラウンドからの報告(8) ── ジャッキー・ロビンソンとバラク・オバマ

英語で play hardball という慣用句がある。文字通りだと、「硬式で試合をする」だが、これは「激しくやりあう」という意を持つ。

日本であまりにも一般化したスポーツだけにわかり難いが、野球は危険なスポーツである。いわゆるアメリカの4大球技(ベースボール、フットボール、バスケットボール、アイスホッケー)のなかで考えても危ない部類に入るだろう。よく「野球をやっていた」と言う人がいるが、そのなかで「公式野球」をやった人はあまり多くはいないはずだ。何はともあれ、石のようなボールが当たると痛い。

そして野球というスポーツは、痛いときに痛いやつはたいていひとりだ。

体が接触するプレーだと、相手に怪我をさせるようなことをした場合、そのプレーの激しさで自分も傷つく危険がある。だからハードなプレーには自ずとブレーキが働く。しかし、野球はちがう。ピッチャーが遠くからバッターの頭を狙えば良い。

1947年、ブルックリン・ドジャースのプレーヤーとして、黒人として初めてのメジャーリーガーになったジャッキー・ロビンソンは、その選手生命のなかで、何度も文字通り生命を狙われた。黒人が「でしゃばる」ことを良く思わない投手から、フラッシュボールどころか、頭めがけて何度も何度も何度もボールを投げられたのである。

現在なら、そんなことがあれば、乱闘試合になる。しかし、ジャッキー・ロビンソンは、ひたすら耐えた。そもそもロビンソンを「抜擢」してくれたドジャースのオーナ−、ブランチ・リッキーとの約束が「反撃しないこと」「かっとならないこと」であったし、当時の時代状況からして、反撃したりすれば、ロビンソンは非難の嵐に巻き込まれたであろう。だから耐えに耐えに耐えに耐えた。それは己の生命すらも危うくすることだった。

さて、サラ・ペイリンが、暴言を吐いてたまらない。ところが、それに対しオバマが反撃すると、上のような公告を流される。

白人に対して黒人は手をあげてはいけない。これはロビンソンが生きていた時代のアメリカの掟だった。

白人女性のことを黒人は語ってはいけない。これは奴隷解放後からいままで生きているアメリカの掟のようだ。一度のペイリンを(正当に)批判し上のような公告を流されて以後、彼はひたすら耐えている。

おそらくリスクは多いのにも関わらず、政治家としての業績は凡庸なペイリンを起用したのは、共和党の戦略的思考による。「「黒人男性」が「白人女性を襲っている」」という構図をコード化した形で描くことにより、サブリミナルな人種主義に訴えかけようとしたのだ。もう一度、リンクを貼った動画が観てほしい。ここに描かれている「絵」は何だろう。

このような「きわどい」選挙戦に立っているオバマの支持者のなかでは、最近は「聡明なすばらしい人だとはわかっていたが、最近になってすごく勇敢 brave な人物なんだというのがわかってきた、普通の人には耐えられないことを耐えている」という人も現れている。

わたしもそう思う。

「黒人初めて」となった人物は、ジャッキー・ロビンソンのような苦しみをみなが経験してきた。いまその溜飲がおろされようとしているのだ。「黒人初のアメリカ合州国大統領」、これが誕生すれば、以後、この国からはロビンソンの苦しみは消える。

ここに「黒人団結票」が存在する理由がある。喧伝されている「ポスト人種」の時代が来るとすれば、それは2008年11月5日だ。

2008年10月13日

バトルグラウンドからの報告(9) ── 「わたしはオバマが怖いんです」の動画

YouTube に、10月11日に報告した事件の動画がアップロードされている。

これでみてわかるように、マケインは明らかに動揺している。必死に「オバマはアラブ人」という言明を否定していることからわかるように、この人は悪い人ではないようだ。

しかし、少し卑劣な「火遊び」が過ぎた。

再建期の人種暴動も、南部公民権運動の暴力も、政治家が煽りに煽って起きたこと、それをどうやら忘れてしまっていたらしい。

2008年10月15日

バトルグラウンドからの報告(10) ── ミシガン州、当然、オバマがリードを拡大

『デトロイト・ニュース』紙が報道した世論調査によると、10月8日現在、ミシガン州でのオバマのリードはついに二桁台に達した。

オバマ:54%
マケイン:38%
未定;7%

ちなみに前回の調査では

オバマ:48%
マケイン:44%

となっている。ミシガン州からマケイン陣営が撤退したことがはっきりと響いてきている。

しかし、これはまだ「ワイルダー効果」によって本選挙で逆転が起きる可能性が有り。

アメリカ時間の今夜は最後の大統領候補討論会だ。

2008年10月16日

バトルグラウンドからの報告(11) ── オバマ陣営、ミシガン州の余力、他州へ移動

本日『デトロイト・ニュース』紙が報じたところによると、ミシガン州の民主党は、大統領選挙の活動にあたっている運動家の半分を、ほかのバトルグラウンド州に移動する意向らしい。これはこのところの同州でのオバマ有利の報道を受けてのこと。CNNなどはすでにこの州を青色に塗り替えた。

これで焦点となる州は、ほぼ

・フロリダ
・オハイオ
・ペンシルヴァニア
・ヴァージニア

に絞られてきた。さらにはテキサスでの共和党の苦戦も伝えられており、ともすれば大きな「地滑り」が起きる可能性すらできている。

さて、ミシガン州が民主党陣営に入った。これは今後を占う意味できわめて大きな意味をもつ。次回はこのことについて、先日行った民主党の集会を参考に解説してみる。

バトルグラウンドからの報告(12) ── 「オバマ後援会」主催のコンサート(2)

20081015_obama_rally_small.jpg1980年の大統領選挙、ミシガン州はその後のアメリカの選挙政治を特徴付けるひとつの「政治集団」を生み出した。レーガン・デモクラットがそれである。

1936年の選挙以来、アメリカの民主党は二つの大きな支柱をもっていた。それは黒人を始めとするマイノリティと労働組合である。ところが、1960年代以後、民主党がマイノリティの権利を擁護する姿勢を強めるなか、白人労働者階級は自分が支持してきた党に「見捨てられた」と感じ始めていった。

それはある意味では自然なことである。経済全体が拡大しない限り、マイノリティの生活が向上することは、彼ら彼女らと階層を接していたものたち(具体的に言うと、白人労働者階級)の間での経済競争の激烈化、いわゆる「パイの分け前争い」につながってしまう。その実、1970年代以後、アメリカ経済は長期の不況に見舞われ、経済の拡大どころではなかったのだ。

この時代を象徴するのが、日本製の自動車の「洪水」のようなアメリカ市場への進出である。ミシガン州は、フォード、GM、クライスラーが本社を抱える場所。この州はかつては「民主主義の兵器廟」(自家用車生産は戦時には簡単に軍用車両生産に切り替えることができる)と呼ばれた世界の自動車工場である。

この時代(第二次大戦期から1970年代まで)の経済体制を、ケインズ主義経済とも言えば、フォーディズム体制とも呼ぶ。フォーディズムの中核には労働組合が存在した。そのなかでも最大の組合が全国自動車労働組合(United Automobile Workers Union、UAW)であり、その本部はミシガン州デトロイトにある。この時期、日本でも、デトロイト発のニュースでアメリカの労働者がトヨタの自動車をハンマーでたたき壊す画像がよく伝えられたし、ビンセント・チンという名前の台湾人が日本人に「間違えられて」殺害されるという悲惨な事件も起きた。

この体制は、白人労働者階級(日本ではより穏便に響く「勤労者世帯」という言葉がなぜか好まれる)とマイノリティが利害の一致を見ている限り維持されるものだった。ところが、1980年、ケインズ主義的な経済政策、いわゆる「大きな政府」を解体することを中核としたロナルド・レーガンが提唱した政策が白人労働者階級に訴求したのである。実際のところ、英語ではただ working class と言うことの方が多いが、通例、ただ単に working class と呼んだ場合、そこに黒人は入らない。これは、正確には「黒人と利害が対立する階級の白人」を意味する「コード化された言葉」coded word のひとつである。そして日本人に向けられた敵意は、もちろん、黒人にも向けられたのだ。

しばしばデトロイト郊外のマコム郡は「レーガン・デモクラットのふるさと」と呼ばれる。

さて、日本でも広く報道された民主党予備選挙、特にその後半になってバラク・オバマは労働者階級に人気がないということが言われてきた。このときに白人労働者階級の支持を得ていたのは、もちろん、ヒラリー・クリントンである。したがって、11月の本選挙での問題は、このクリントン支持層がどう動くかにあった。

ミシガン州でオバマの支持率が高い。これは、では、何を意味するのであろうか?

白人労働者階級から広く支持を集め始めていると見なすのが自然であろう。ここに至ってのオバマへの追い風は、気がついてみれば業界こぞって悪徳高利貸し商法に加担していた未曾有の金融危機から吹いていることも確かである。規制緩和、規制緩和と、政府は小さければ小さいほど良いと唱えてきた政治のツケなのだ。これを何とかするためには、それこそ「根本的な改革」fundamental change が必要である。政治を考える思考自体を変えなくてはならないのだ。

さて、左上の写真は、ブルース・スプリングスティーンが駆けつけたオバマ支援集会の観衆の姿である(画像クリックで拡大)。小さな球場を埋め尽くしたその人びとは白人労働者階級だ。この集会のチケットには所属する組合の名前を記す欄があったが、そこに何らかの名前を書いた人はきっと多い。

1980年代以後の共和党の優勢は白人労働者階級とマイノリティとを敵対させることによって維持されてきた。今回、それが揺らごうとしている。少なくともミシガン州では大きく揺らいでいる。

スプリングスティーンは、下の YouTube ビデオで観られるように、「敵は退散したらしいが、まだ安心するには早いぜ」と語るとともに、これ以後、オハイオ州のコロンバス、ヤングスタウン、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアでの集会に参加すると述べている。そう、これまでこのブログを訪問された方はご存じのように、これらはバトルグラウンドだ。

ちなみに彼は一貫して民主党支持であり、2004年にもジョン・ケリーの選挙応援を行った。きわめて「アメリカ的」に思える彼は、しかし、偏狭な「愛国心」のシンボルとして利用されることがある。それを最初に行ったのは、Born in the U.S.A.が大ヒットしていた1980年のロナルド・レーガンである。レーガンの政治利用を聞いた彼は、その後に行ったコンサート会場で、自分の立場を明確にするため、1970年代の鉄鋼不況を綴った名曲、"The River"を、アメリカ労働総同盟・産別会議会長に捧げると語って歌った。

ミシガン州での流れが何らかの意味を持つとすれば、それはこれらの州も「雪崩を打って」民主党陣営に加わるかもしれないということであろう。「レーガン・デモクラットのふるさと」が「本来のふるさと」の民主党に帰ってきたのだから。

本日の朝の時点でのCNNの予測では、マケインが勝利するには、まだ接戦となっている諸州で全勝するしかないらしい。予測は所詮予測だが、わたしがここで述べてきたのはこのような単なる数字上の計算ではなく、バトルグラウンドで感じた観測である。

よく言われているように、バラク・オバマは、これまでの「黒人政治家」とは異なる。ジェシー・ジャクソンにせよ、アル・シャープトンにせよ、かつて大統領予備選に出馬した黒人政治家は、選挙に勝つことではなく、選挙運動を通じて黒人のおかれている環境に対する関心を高めることが目的だった。ところがオバマの場合は、あくまでも勝利が目的である。ミシガン州での選挙戦は、同州の歴史上最大の選挙運動だったと報じられているが、それは勝利を目的にするオバマの選挙運動全体のなかで、この州が占める政治的意義が大きかったからだ(このカッコの部分は、討論会の報道を観たあとに書き足している、オバマはアメリカの経済的苦境を語るのに「デトロイト」という換喩法を用いた)。

さらに、南部ヴァージニア州やノース・キャロライナ州もオバマが逆転しそうになっている。ここはラストベルトと呼ばれる中西部や北東部とは違った意味合いを持つが、その解説は次回に譲りたい。そろそろ大統領候補討論会の時間だ。

2008年10月17日

バトルグラウンドからの報告(13) ── 怒らない「黒人政治家」

マケインは「時には怒りを見せ、また別のときには毅然として」振る舞い、オバマは、マケインからの攻撃をかわすにあたって「時には穏やかに、また別のときには参ったなという表情」をみせた。これは本日の『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面に掲載された昨日の大統領候補討論会に関する記事である。

黒人男性が白人女性を攻撃してはいけない、それはタブーを破ったことになる、という切り口から、「黒人初」の人物が追わなくてはならない重責についてつい最近ここで解説してみた。オバマは、感情的になって挑撥するマケインの手口には乗らなかった。黒人は怒ってはならないのである。

抗議運動型の「黒人指導者」、たとえばジェシー・ジャクソンやアル・シャープトンなら事情は別だろう。彼らの選挙戦は勝つことではなく、怒りを表現することに意義があり、その存在は決して軽んじてはならない。彼らのような存在はこれからも必要であろう。ところがオバマは違う。

マジョリティが白人のアメリカにあって、「黒人政治家」が必ず行わなくてはならないことは、「わたしは信頼できる人物である」ということがまず一つ。そしてそれにも勝るとも劣らず重要なのは「わたしは決してあなたに「復讐」はしない」ということを言外に伝えること。

誤解を恐れずに思い切って日本の文脈に置き直して考えてみよう。将来、在日コリアンの首相候補が出てきたとする。その候補が大日本帝国時代の日本のアジア政策をことあるごとに非難したとしよう。それでも結構主張は前向きだ。こんなことを言ったとしよう。「日本はかつての悲劇を乗り越えて、アジアの新しい時代を切り開かなくてはならない」。でも必ずこう言う。「あのときの犯罪行為をわたしは決して忘れません」と怒り猛って語る。さて、市民からこの候補は高い人気を得ることができるだろうか?

20世紀初頭の国際外交や世界秩序が帝国主義的拡張主義を必要としていた、だから日本がやらなければ逆にやられていた。これはいわゆる「自由主義史観」が唱える常套句だ。そしてこのような史観を述べるものはこう言うことがある。「日本がやったことは西欧が奴隷貿易を行ったようなこととはまったく違う、だいたい台湾や韓国には帝国大学を建設したのではないか」。

さて、奴隷制を行った人びとは逃げ場がない。そしてその実、この「犯罪行為」の「言い訳」をするのはたいへんなことだ。奴隷制を正当化する論理がないわけではない。たとえば野蛮なアフリカ人を文明化した、という主張がそうだ。ところが、このような論陣を張る人間は「ナチの亜流」と見なされるのが通常である。ほんとうに奴隷制を行った人びとは逃げ場がないのだ。

そのような歴史的経緯があるなかで「怒り猛った黒人」に票を投じるのは簡単なことではない。もちろん簡単に行える開明的な人物も多いが、大統領選挙を支配するほどそのような開明的な人物は多くはない。

つまり、《過去の歴史的悲劇に罪障感をもちつつもどこかで自分を防御したい人物》が固めた「疑念」と「防御」の腕組みをそっと優しく解いてやらなくてはならないのだ。

おそらくオバマはそれに成功したに違いない。今朝発表されたCNNの予測では、本日投票が行われた場合、オバマが選挙戦を制するらしい。ここまでどちらか一方に選挙戦が傾いたのは今回は初めてだ。

もちろん、これは「本日投票すれば」という仮定条件がついた予測である。まだ投票日まで19日ある。その間、たとえばオサマ・ビン・ラディンをついにアメリカ軍が逮捕したとしよう。このような劇的な事件が起きた場合、一気に形勢が逆転する可能性がある。

『デトロイト・フリー・プレス』紙は、昨日の討論会を報道するにあたり、「討論会第3ラウンド、両者強打の応酬」という大見出しを掲げた。わたしはこれとは違った見方をした。オバマは強打を繰り出していない。マケインの強打をかわしただけだ。

その姿は「時には蝶のように舞い、また別のときにはハチのように刺す」、ミシガン州のどこかにいまは静かに住んでいるあの人物、「もっともグレートなやつ」、モハメド・アリの姿を彷彿させるものだった。

2008年10月20日

バトルグラウンドからの報告(14) ── コリン・パウエルが描いた〈人種〉のサブテクスト

アメリカNBCテレビの日曜日午前中の人気番組 Meet the Press で、コリン・パウエル前国務長官/元統合参謀本部長が「バラク・オバマに投票する」と語ったことは、ネットで見るかぎり、日本にも素早く伝えられているようだ。

だが、日本での報道は、彼がインタビューで語ったことの核心部、もっとも大きな反応を引き起こしている部分を伝えていない。彼は、政策論でオバマが優れているからオバマを支持するなどとは言っていないのだ(YouTube のリンクを参考)。

彼はこのインタビューで、わたしがこのブログで度重なり伝えてきた、共和党のネガティヴ・キャンペーンに対する激しい嫌悪感を示している。そして、肝心の部分は終わりにさしかかったところだ。ここは、以前ここで紹介したミネソタ州でのマケイン集会で起きた事件、オバマはアラブ人だから怖いといった女性の発言を否定し、その上でオバマの人格を賞賛してしまったマケインの行動に表れた「偽善」を実にするどく突いている。

逐語訳はできないが、おおまかに言って彼が言っていることはこうだ。

「オバマ上院議員はムスリムではありません、そうです、それは当たり前のことです、彼はムスリムではない、でもムスリムではないということそれ自体に何の価値があるのですか、アメリカ人のなかにムスリムがいてはいけないのですか、こんなことを見たムスリムのアメリカ人の子供がいったいどんな気持ちになるかわかっているのですか、わたしも「政治」が何だかはわかっていますが、それにしてもマケイン陣営がやっていることは行き過ぎです」。

大胆且つなるべく面白くなるように例えたら、こうなるだろう。

共和党はずっとこう言ってきた。「対抗馬のアタマは薄くなっている」。

そうするとやがて有権者のなかに、「あの候補はハゲでしょう」という人が現れてしまった。

それで共和党選対は否定に必死になる。「いえ、そんなことはぜったいに言っていません。わたしたちはアタマが薄いと言っていただけです。ハゲなんて言ってません。あの候補はハゲではありません、立派な人格者です」。

ハゲはたまらない。なぜなら、こう言われたとたん、《ハゲ=非人格者》というとんでもない等式ができるから。

コリン・パウエル、この人物の識見が高いと思ったのは今回がわたしは実は初めてだ。それにしても、彼が今日行った指摘はすばらしい。誰もこのような視角から論じようとしなかったのだ。アラブ人の気持ちがわからなかったのだ。

ずっとわたしは言ってきた。この選挙のテクストは人種である。それがサブテクストになっている。《黒人/白人》の関係論に拘泥してきたために、わたしはほかの軸が見えなくなってしまっていたようだ。

パウエルがこのことに気づいたのは、彼がさまざまなフィールドで「黒人初」を経験した人物だからだろう。彼を(意識やアイデンティティの面で)黒人だと思ったのもわたしは今日が初めてだ。

しかし誤解のないように断っておくが、それは彼がオバマを支持したからではない。支持するレトリックに彼の黒人性が現れているのだ。

2008年10月22日

バトルグラウンドからの報告(15) ── アナウンスメント効果と民主主義

この前ここで説明したブラッドレー効果と違い、日本の選挙でもしばしば言われることだからご存じの方もきっと多いかもしれない。大統領選挙は、各種の世論調査やわたしが肌で感じたことから考えて、今度は「アナウンスメント効果」を考えなくてはならないところに来たようだ。第3回の討論会後、オバマ陣営は「安心するのはまだ早い」と言っているが、それもこの効果を考えてのことであろう。

アナウンスメント効果とは、世論調査である政治勢力の優勢が伝えられた(アナウンスされた)場合、その優勢の政治勢力とは反対の党に投票したり、もしくは勝利が確実だと当て込んで投票に行かないという動きが現れることを言う。

民主主義とは、実に良くできた制度だ。極端な方向に政治が傾かないようになる動きが組み込まれているのである。ほかに良い制度があると夢見ることはできるだろうが、現実としてわれわれはこの制度以上に優れているものを知らない。

そして、これはまた後日詳述したいが、「民主主義とは衆愚政治だ」と発言したり、「政治を知らない素人とそれを知っているプロとが同じ一票だというのはおかしい」とか述べたり、「民度が低い」などというわけのわからない語彙を駆使したりする人間に限って、民主主義それ自体への理解はきわめてお粗末なものである。彼ら彼女らは、そのような言辞がファッショな政治に利用されるということをまったくわかっていないのだ。民主主義が作り出した自由な言論空間があるからこそ、自分たちの無知ぶりが「商品」として流通できるのにも関わらず、その自分自身が依拠する大枠の世界のことをまったく理解していないのである。

実のところ、黒人研究に従事しているわたしの識見からして、わたしはそのところ(民主主義の価値)を簡明かつ論理的に説明することはできない。そこで民主主義が良い制度だということに疑問を持たれる方は、是非右の書を参考にしてもらいたい。

さて、日本語でいう無党派層、英語でいう independents とは、政治に関心がない層を言うのではなく、強い関心を持つがゆえに特定の党派を支持しない人びとのことを言う。幅広く報道されているように、現代政治を趨勢を決めるのは政党政治ではなく、この層の支持をどのようにして取りつけるかにある。

具体的に言ってこういうことだ。小泉純一郎元首相が「民意に訴えかけた郵政選挙」、知っての通り、自民党が空前の圧勝をした。衆参ともに単独過半数を獲得した自民党の勢いに対し、しかし、その後すぐに脅威論がでてきた。「勝たせすぎはまずい」というのがその論理の骨子である。単独で改憲すらできる勢力になったのだから、そこに脅威を感じてもまちがいではあるまい。

すると、もう同じ候補で投票しましょ、ということになると、違う投票行動をとる人びとがきっと現れてくる。各種世論調査が毎日のように発表される現代政治では、この「もう一度投票しましょ」気分をもつ層をいかに引き込むかが鍵を握るのだ。だから、長い時間がかかってその後の参院選で、そのような人びとは(日本の)民主党に票を投じることになった(「長い時間」をかけないためには、予備選を行うのがいちばんてっとり早い)。

オバマは、民主党予備選以来、実に巧みにこの層を取り込んできた。そもそも当初は「大統領になるのが不可避の候補」 inevitable candidate と呼ばれたヒラリー・クリントンを苦戦に追い込み、そして最終的には撤退させた力はそこにある(大統領を夫に持つがゆえに、民主党員・民主党支持層の支持を獲得するのは当然のことだったから)。

オバマのこの優勢ぶりはアナウンスメント効果を危惧してあまりある。なぜならば、彼の支持層の多くは無党派層だからである。

これまでも述べてきたように、黒人の「団結票」だけでは大統領選挙に勝つことはできない。

ところで、ずっとこのブログのエントリーのカテゴリーが「政治」と「選挙」になってしまった。それでも実のところ、この「歴史的選挙戦」はまだまだ語りつくせていない。それでも投票日まで2週間を切った。そこで、それまであるたけのことを語れるように、「事件」が起きないかぎり、次のテーマを予告したいと思う。

次回は、では、この選挙戦がもつ歴史的意味について語ろう。歴史的と言っても、「史上初」という類のものではない。あとから振り返ったときに、この選挙が歴史の分水嶺になるかもしれない、そんな可能性についてコメントしていきたい。具体的に言うと、次は、現在バトルグラウンドになっているヴァージニアとノース・キャロライナの結果が持つ意味である。それまで時間がある方は、ヴァージニア大学の図書館が提供している大統領選挙結果の地図を、1968年以後の南部の帰趨に着目して見ていて頂ければ幸甚である。

2008年10月26日

バトルグラウンドからの報告(16) ── ヴァージニアとノース・キャロライナの帰趨が持つ意味

いよいよ大統領選挙もあと10日を残すばかりとなってきた。ここまでのところオバマの圧倒的有利。その勝利のあとに述べることになると、「後出しジャンケン」に近いものになってしまうので、投票日が来る前に述べなくてはならないことは急いで述べておきたい。次期大統領は、おそらく3名の最高裁判事を指名するといわれている。現在最高裁は保守派に力が傾斜していること、そして判事には任期がないということを考えると、共和党の勝利は今後約20年間の保守政治を意味し、民主党の勝利は保守からリベラルへの潮流の変化を示す。そのことを考えても、今回の選挙が将来にもつ意味は大きい。

そのことを踏まえたうえで、前の予告にしたがって、今回は中西部のバトルグラウンドではなく、南部のヴァージニア州とノース・キャロライナ州が今回の選挙で持つ意味から始めよう。

これまでの大統領選挙の結果を見ればわかる(ヴァージニア大学のサイトのなかにあるこの地図がわかりやすい)ように、1972年のニクソンの強烈な地滑り的圧勝以来ジミー・カーターが勝利者となった1976年を除き、南部は一貫して共和党の「票田」となっている。さらに重要なことに、これら共和党陣営に加わった諸州は、1968年に人種隔離の維持を訴えて民主党から離脱し、独自の選挙戦を展開したジョージ・ウォーレスの票田を継承しているということだ。

つまり、公民権運動を陰から支援し、公民権法制定の原動力となった民主党は南部から「見捨てられ」たのである。ノース・キャロライナ州のジェシー・ヘルムス、サウス・キャロライナのストロム・サーモンド、ジョージア州のニュート・ギングリッジ、ミシシッピ州のトレント・ロットなど共和党保守派は多くこれらの南部から選出されている。

ところでオバマはこれら南部諸州で圧倒的強さを示した(『ニューヨーク・タイムズ』のこの地図をみればよくわかる)。日本でその頃よく語られた表現が「黒人人口が多いこの地域ではオバマ氏の圧勝が予測されます」といったものだった。

しかし、この表現は、大統領選には通用しない。これらの州の多くで民主党は勝利を見込むことがまったくできないのである。その事情は、南部出身であったビル・クリントンでさえ、南部共和党保守派の力を崩すことができなかったことから明らかだ。

ところが南部のなかでもいわゆる「境界州」と呼ばれるヴァージニア、19世紀後半より比較的リベラルなことで知られていたノース・キャロライナは、今回バトルグラウンドとなっている。そしてオバマは、民主党予備選のとき、ヴァージニアでは64%対34%、ノース・キャロライナでは56%対42%という二桁台の差をつけてヒラリー・クリントンに圧勝した。

なぜならば、ヒラリー・クリントンは、これらの州はいずれにせよ本選挙で共和党の票田となるのが確実なため、目立った選挙戦は行わなかったのである。

この民主党予備選の地図と、世論調査の最新動向を横にしてみれば、ヒラリー・クリントンの選挙戦が本選挙をにらんで実に手堅い戦略に依拠していたのがわかる。「共和党支持州 Red State」で確実に勝利をすることでオバマは、ヒラリー・クリントンを追い込んでいったのである。だからこそ、「大統領になるのが不可避の候補」 inevitable candidate を自負していたヒラリー・クリントンは「本選挙で勝てる力をもっているのはわたし」となかなか負けを認めようとしなかった。

しかし、ノース・キャロライナ州は、10月23日の世論調査で、49% 対 46%でオバマが若干の有利、ヴァージニア州に至っては51.5% と 44.0%と、「ワイルダー効果」を踏まえてもオバマが勝てるほどの大差でリードとなっている。つまりヒラリー・クリントンが「諦めていた州」が民主党に傾きつつあるのだ。

ヒラリー・クリントンは、南部で民主党が勝つのは厳しいと目した。ここでもう少し歴史的経緯を踏まえて考えてみよう。南部で民主党が地盤を失ったのは、ほら、公民権法とその後のマイノリティ政策が原因である。そしてクリントンはまだその「失地回復」はできないと考えていた。

ところが「黒人候補」がそれを獲り戻ろうとしているのだ。これは、アメリカの人種関係、そしてそれに多く規定され続けるアメリカの政治の変化を語ってあまりある現象だといえよう。最終的選挙結果がでなければ何ともいえないところではあるが、「アメリカ政治の歴史的変化」が起きる可能性があるのだ。

政治や社会はゆっくりにしか変わらない。それを踏まえるとゆっくり変わっていくところを、政治や社会をみつめるものはじっくりと見なくてはならない。そして、いま、そして、バトル・グラウンドでゆっくとした変化が起きそうなのである。

戦後の大統領選挙で、「地滑り的勝利」 landslide victory と呼ばれた選挙は3回しかない。1964年のジョンソン1972年のニクソン1980年のレーガン、なかでも後の二つは政治は保守へ大きく振れた。現在、民主党の「地滑り」、さらには完勝 sweep という予測がなされているが、もしそれが現実になるとすると、それは大きな歴史的意味をもつことになるであろう。奇しくも共和党候補の出身州は1964年のバリー・ゴールドウォーターと同じ、アリゾナ州である。ひょっとすると、1964年と同じような地図くらいにはなるかもしれない。

2008年10月29日

バトルグラウンドからの報告(17) ── 魅力は、自己規律、知性、前向きなこと

本日、アメリカのネットワークテレビでコメンテーターをしている方の講演を聴き、その後レセプションにお邪魔してきた。その人物(黒人女性)が言うことには、オバマには、三つの類稀な資質があるという。

・自己規律 discipline
・知性 intellect
・前向きなこと optimism

彼女の意見では、1984年と1988年のジェシー・ジャクソンの選挙戦のときと、オバマの表向きの政治的メッセージは同じらしい。

それはチェンジ。

思えば政権政党でない限り、言うことは決まってチェンジ。チェンジは「政権交代」と訳しても良い。つまりアメリカの民主党の主張は日本のそれと大して変わらないのである。そしてまた、政権政党が野党候補の「経験」を問うあたりの構造まで同じだ。

では、オバマは、いったいどこが質的に、幾多あるチェンジと違うのか。次回はこれについて語ろう。

2008年11月01日

バトルグラウンドからの報告(18) ── Are You Ready for Change?

オバマの言う「チェンジ」と旧来の「チェンジ」の相違を語る前に、いささか頭の体操をしてみたい。

前回ここで紹介した政治学者が、そのとき、このようなことを述べた。「〈黒人〉と言われている集団の具体的な像は、社会的、政治的に決定されるものであって、生物学的・生理学的な根拠はどこにもない」。

これは、いわゆる「社会構築主義」の教科書的定義にすぎない。ところが、オバマの選挙戦を語る際に、彼女が使った以下のような比喩は、この一年間の間におきた現象をよく物語っていると思われる。

これを読んでいる方、「リンゴ」を思い浮かべてください。そのなかで「赤いリンゴ」を思い浮かべた人はどれくらいいるだろうか。また「青いリンゴ」を思い浮かべた人はどれくらいいるだろうか。はたまた、「銀色の背景に白く浮かぶリンゴ」、つまりアップル社のロゴを思い浮かべた人はどれくらいいるだろうか。彼女がいうには、オバマは、この最後のリンゴに喩えられるというのである。

とはいえ、これは何もアップル社を宣伝してのことではない。その言わんとすることはこういうことだ。

オバマは旧来の人種政治の枠組みでは捉えられない新たな現象であり、1960年代以前、公民権運動以前には存在しえなかった「黒人」が政治の最前線に登場してきたことを意味する。

さて、オバマの支持層のひとつが18歳から29歳までの青年層。年配の方のなかに、上にあげた三つ目のリンゴをイメージする人びとは少ないであろう。なぜならば「オバマ」は新しい「現象」なのだから…

そのオバマの「新奇さ」は「人種」だけに留まるものではない。

彼は「これまでの二大政党の候補のなかではもっとも薄い履歴書の持ち主」と呼ばれているし、実際にそうだ。だから共和党は彼の「経験不足」の攻撃にやっきになり、5500人の人口しかなくても市長を経験したことのあるペイリンの方が大統領として資質を備えていると豪語したのだ。

9月の共和党大会で演説を行ったルドルフ・ジュリアーニ前ニューヨーク市長は、そのようなオバマの経歴をきわめて陰湿な形で揶揄した。オバマに言及し、彼の経歴「コミュニティ・オーガナイザー」を紹介するときに、露骨に皮肉を込めて吹き出してみたのである。

ところでしかし、実際のところ、「コミュニティ・オーガナイザー」が大統領になるというのは大変なことだ。邦語がある彼の伝記の訳語ではこのことばに日本語があてがわれていないが、敢えてその仕事の内実から意訳すると、それは「市民団体職員」になるであろう。この経歴の持ち主は日本国首相にもなれないかもしれない。さらにこれに「大学教授」というのが加われば、それは、自民党や民主党というより、むしろ社民党の議員の響きがある。

ずいぶんと前置きが長くなったが、本題の「チェンジ」の内実に迫ろう。

アメリカ政界に必要なのは「変革」である、そのようなことぐらい、実は、政治家なら2006年中間選挙の共和党の惨敗を見て誰もが理解していた。だから、ブッシュ政権と距離をもつことが必須となったのだし、マケインが候補指名受諾演説で「ワシントンには変化が来ている」と言ったのもそのためだ。現状維持では選挙に勝つことはできない。

正直のところを言って、わたしは、そのような状況のなかで大統領予備選が始まったとき、当初のところヒラリー・クリントンを心情的に応援していた。なぜならば、オバマの今回の選挙戦は2012年か2016年を見据えての「予行演習」であり、クリントンならば共和党保守派に互するに十分の政治力をもっていると思ったからだ。そしておそらく、そのような見解は、少なくとも3月まではリベラル派の意見の体勢であっただろう。またこれははっきりと言えることだが、黒人研究に従事している人間のなかで、現在の状況を「予測」したと豪語する者がいるとすれば、それは、その人物がひどい日和見主義者か、ろくすっぽ研究を行っていなかったからである。過去の出来事を振り返れば、大統領はおろか、大統領候補にすらなるのは無理だと思うのが自然だからだ。

したがって、もうすでに政策の面ではともかく、政治の面ではアメリカでは「変革」が起きたのだ。

つまり、オバマの言う「チェンジ」とは、狭義に解釈して、「政権交代」と理解するべきではないのだ。9月に共和党も「チェンジ」をスローガンにしてからは、共和党の「チェンジ」と自分の「チェンジ」を差異化するために、彼はしばしばこう言っている。

We need a fundamental change in our policy, in our politics.

ポイントは最後の方だ。彼は政治を考える方法、政治行動のあり方、それを根本的に変える必要があると言っているのだ。

これは時と場合により、こうも響く。「アメリカの政治制度は人種主義によってゆがめられてきた、その政治のあり方を変えましょう」。以前、彼は怒りを表現しない「黒人政治家」であり、そうするには理由があるということは述べてみた。その議論に今回の議論をつなげると、こうなる。彼はこう訴えているのだ。

人種主義を超克した新たな「アメリカ政治」をつくろう、そのリード役をわたしに任せてほしい、わたしは過去のことで怒ったりはしないから、一緒にその変革への一歩を踏み出そうではないか。

もちろんこれは美辞麗句である。他面、人種主義や偏見といったものは、どす黒い情念だ。

しかしだからこそ、アメリカの有権者はこう問われているのだ。「あなたには勇気がありますか?」。だからオバマは、政治集会の際に、こんな常套句を使っている。

Are you ready for change?

こう説明するともはや明らかだろう。少し注意して彼の演説に耳を傾けてみれば、彼がこの言葉に冠詞をつけていないのがわかる。これを「政権交代への準備はできているか」と取ってはまったく真意を外している。政権交代が頻繁におきるアメリカ政治にあっては、もはやそれは問われるものですらない。彼は、変革には痛みや怖れが伴う、そんな変革への心構えはできているのか?、とアジっているのである。

〈アメリカ〉は、この選択を迫られ、恐怖と希望の狭間で震えている。

インターネットの活用や、それを通じた政治寄金の集め方など、オバマの選挙戦術は、アメリカ政治に大きな変革をもたらした。そしてここ最近、このブログで報じてきたように、1988年の大統領選挙以後、邪険な力を思う存分発揮してきた誹謗中傷公告がバックファイアするにつれ、アメリカの大統領選挙のあり方に今後大きな変貌が生じる可能性も出てきた。

この白熱した選挙戦の結果、ミシガン州での有権者登録者の率は有権者総数の98%に達したという脅威的な数値の報道もなされている(おそらく10月中旬に二大政党が選挙運動を止めたミシガンがこうならば、他州の状況も同じであろう)。

さて今回はチェンジについて述べてきたが、実のところ、書きながらも、どうまとめて良いのか不安であった。いまのわたしは、これを書き終えて、若干見通しができたところにいる。「変革」について述べた次は、では、彼が継承した「遺産」について述べてみよう。

バトルグラウンドからの報告(19) ── 「この街で何かが起きている」

こちらに来てから知り合いになった黒人の政治学者の方がこんなことを述べていた。その学者は、オバマの自伝の書評を頼まれて初めて、彼の著作 Dreams from My Father を買おうとした。ところが、書店が言うには、置くとすぐに売り切れになるので在庫がなく、一週間待たなくてはならないと説明を受けた。そこでこう思ったらしい。「この街で、この圧倒的多数が白人の街で何かが起きている」。

その後、今年の2月28日、公民権運動の英雄のひとりで連邦下院議員のジョン・ルイスは、「オバマ上院議員の立候補は、この国の人びとのハートとこころのなかで起きていた新しい運動、アメリカの政治史を画する新しい運動の象徴になっています。そしてわたしは人びとの側に立っていたいのです」という声明を発表し、それまでのヒラリー・クリントン支持の立場を改め、オバマ支持を表明した。そのときに彼はまた、1月のアイオワ党員集会以後の2か月間、かつての公民権運動時代を思わせる若者の動きがあること、そしてその動きの先頭にオバマがいることを驚愕が混じった喜びで語っていた。

驚くのも無理はない。オバマが生まれたのは1961年8月4日。彼は1960年代公民権運動を知らない。

夏にアメリカに来て以後、ここで述べてきたように、さまざまな場で「有権者登録」を呼びかける人びとに出会ってきた。これまでこのような活動をしている人びとと出会わなかったわけではないが、今年に限ってははっきりと以前と異なる特徴があった。それは有権者登録を呼びかけている人びとが若いということ。

それは1964年フリーダム・サマーを思わせるものだった。そして彼ら彼女らは、今週末、4日の投票日に確実に投票所に行くことを呼びかける Get-Out-the-Vote 運動に精力を集中している。

実はオバマの政治経歴には手痛い「敗戦」の跡が残っている。2000年、ブラック・パンサー党シカゴ支部の創設者の一人、ボビー・ラッシュが現職を務めている連邦下院議員の席を狙って彼は立候補した。ところが、彼の人種的アイデンティティが問題になるなか、彼はラッシュの前に完敗したのである。

実はこの敗北を契機に、彼は自分のルーツを忘れていては政治の世界で活躍することはできないと悟り、シカゴのサウスサイドの黒人政治家のサークルのなかに足を踏み入れ、そこで足場を固めることを改めて行い始めたという。当然のことだが、このときに彼はかつての公民権運動家たちと親交を深めることになったのだ。ボビー・ラッシュは敵に回すものではなく、学ぶ先達であると理解したのである。

そのような彼の運動が公民権運動の影響を受け、その流れを汲んでいたとしても何の不思議はない。

これが、彼が継承したものの唯一最大のものである。

今年の夏の民主党全国大会、それはワシントン大行進からちょうど45年目にあたった。キングの偉業を称える特別の催しもあり、その後、指名受諾演説を行った彼は、あたかもキングの衣鉢を継承したもののように見えた。そして実のところ、民主党全国委員会は、まさにその効果を狙ったのだと思える。

そしてまた、夫人のミシェル・オバマが演説を行った日には、幼い子供たちもステージ上に現れ、「ホワイトハウスの住人になる黒人家族」の姿がはっきりとアメリカ市民の前に提示された。そして、それもまた、60年代のある光景を思わせるものだった。幼い子供がいる若い大統領。そうジョン・F・ケネディである。

今年6月のアメリカ学会政治分科会で報告を行った際、わたしはオバマの選挙参謀のなかにシカゴ民主党主流とそれから少し左に位置する陣営との「手堅い連合」が生まれていることを指摘した。簡単にそれを振り返ると、デイレー市政の一翼を担っている人びとと、シカゴ市政の文脈では「レイク・フロント・リベラル」と呼ばれている人びと、そしてサウスサイド、ウェストサイドの黒人政治家の大連合が、彼の選挙参謀の重鎮のなかに簡単に見て取れるのである。

これは、実際のところ、簡単にできる話しではない。以前に一度シカゴ市政では、白人リベラルと黒人の大連合が成立したときがある。1983年から死去する87年まで同市の市長を務めたハロルド・ワシントンの時代がそうである。ラディカルな黒人政治学者のマニング・マラブルは、このときに見られた白人労働者階級と黒人の連合政治を、公民権運動の遺産を継承する最良のものだと評価している。

バラク・オバマは、市民団体で働いていた時代、ハロルド・ワシントンとの親交があり、それがきっかけで政界を目指すことになっている。彼の自伝の邦語訳では「ハロルド市長」と、実に奇妙な訳語があてられているが、原文では単なる Harold。つまり、ファーストネームで呼び合う間柄だったのだ。

そのハロルド・ワシントンの市政の特質が、黒人の人種としての特殊利害を追及するのではなく、より包括的 universalistic な文脈に問題を置き直し、政策を推進することにあった。これはオバマの政治姿勢そのものだ。

以前、わたしは、ここでニューワーク市長のコーリー・ブッカーを紹介するのと同時に、オバマのことを新しい世代の黒人政治家として紹介した。この新しい黒人政治家は、実のところ、黒人の運動の最良の部分を継承するものでもあるのだ。なお、わたしはニューワークとシカゴに関心があり、彼らのことを知るに至ったわけであり、何も日本でいち早く彼を「発見」した人物であると主張するつもりはない。彼の活躍を知るに至ったのは、20年以上地味な研究を積んできたことの嬉しい喜びであった。

さて、いよいよ投票日まで時間がなくなってきた。歴史研究者は予測など下手にするものではなく、下手な予測はブログ炎上の契機になりかねないが、次回は思い切って観測可能なことについていくつか述べることにしたい。冒頭で紹介した言葉を述べた方は、こうも言っていた。「さあ、われわれの候補の行方を期待とともに見守ろうではないか」。

2008年11月04日

バトルグランドからの報告(21) ── Way Out of No Way, Keep Your Eyes on the Prize, Hold On!

20081104_michigan_union_obama_small.jpgネットで日本における報道をみると、この選挙の争点は経済に代表される国内政策だという議論が支配的である。しかし、はっきり言おう、これはまちがっている。

では、バラク・オバマ流に、問題点を4つ指摘しよう(左の写真はクリックで拡大)

ナンバー1。首尾一貫してオバマがリードしているにもかかわらず、接戦と報じられているのはなぜか。日本ではなじみのない政治学用語であるブラッドレー効果が、改めて取り沙汰されているのはなぜか。ブラッドレー効果が起きるというのは、「アメリカ人なんて、きれい事はたくさん並べるけど、結局のところ人種主義者なのよ」と言っているに等しい。これは昨日述べたことでもあるが、わたしは、そのような意見に対してこう述べたい。ブラッドレー効果はいくらかは起きるのはまちがいないが、選挙の帰趨を支配することはない。

ナンバー2。本日もオバマは遊説先で「期日前投票」を呼びかけている。なぜならば投票日には何が起きるかわからないかららしい。そういうのも無理はない。2000年フロリダ州、2004年オハイオ州と、投票権の剥奪と投票妨害が露骨に行われるということが続いたからだ。しかも、それはマイノリティの居住区を標的にしていた。現在行われている期日前投票では、予測できることではあるが、投票を行った者の圧倒的多数がマイノリティであると報じられている。

ナンバー3。経済はもちろん争点だ。しかし、ブッシュ政権の政策がまちがっていたこと、野放図な放任主義が今回の経済危機の原因であること、この大枠の認識についてオバマとマケインのあいだに差異はない。どちらが大統領になるにせよ、「規制」が強まることは、したがって、簡単に予測されることであり、税制における差異は、大半の有権者の関心を集めるには、専門的すぎる。

ナンバー4。共和党が選挙戦の武器にする「大きな政府」「テロ」の二つは人種を暗示する「コード化された言葉」である。前者は福祉に依存する都市の黒人やラティーノ、後者は中東出身者。後者の人種化は実に都合が良い。オクラホマ連邦ビルを爆破したのが「アメリカ第一」(今回の共和党のスローガンは Our Country First)を唱える武装民兵だったことはすっかり忘れているのだから。

さて、40 年前のキング牧師暗殺のあと、ロバート・ケネディ上院議員がこう述べた。

「あまりあせるのはよくありません、黒人は、そうですね、ええ、あと40年もすれば大統領になれるでしょう」。

ロバート・ケネディは、公民権運動の支援はもとより、ブラック・パワー運動にも一定の理解を示し、黒人層のあいだで人気の高い政治家だった。ところが、恩着せがましいところがあるこの発言に、黒人市民は嫌悪感に近い感情を覚えた。1968年、黒人ははっきりと We Can't Wait と言い始めていたのである。

今年は、それからちょうど40年目に当たる。

その間、シャーリー・チザム、ジェシー・ジャクソン、アル・シャープトン等々、数多くの黒人が大統領選に挑んだ。ところが二大政党の予備選を勝ち残る人はおろか、その近くにさえ行った人物もいなかった。1988 年のジャクソンの11州で1位、それが最高だった。

ジェシー・ジャクソンらとはっきりことなること、それは抗議の声を届けるためではなく、選挙に勝つためをオバマは目標、自分の「希望」にしたということだ。その目標は、おそらく彼が政策論を論じた著書のタイトルに現れている。

希望をもつ大胆さを Audacity of Hope

そして、このタイトルもまた、黒人政治の伝統にはぐくまれたもの。論争を呼んだジェレマイア・ライト氏の演題からインスピレーションを受けたものだ。

大統領選を本格的に争う黒人は、遅かれ少なかれ現れると思っていた。しかし、近年の政治の流れからして、

黒人英語、エボニックスの表現に"way out of no way"ということばがある。方法はなくても何とかして成し遂げろ、これは、奴隷制に始まる不条理な世界で生きてきた人びとが継承してきたもっともたくましく高貴な遺産だ。

その遺産をまちがいなく継承しているオバマは、ハロルド・ワシントン当選当時のシカゴの黒人コミュニティを回顧してこう述べている。

「ハロルドがサウスサイドの人びとに持つような意味、果たしてわたしはそれを持つことができるだろうか、そう自問してみた。そしてもしわたしのことをよくわかってくれたならば、彼らはハロルドに対して抱いた感情と同じ気持ちをわたしにも抱いてくれるだろうか」

11月4日、全米各地が、「記録級の投票率」を予測し、投票ができるまで数時間もかかる混雑が危惧されている。まちがいなく、今日は長い一日になる。

そのムードは、いささか 1963 年にジェイムス・ボールドウィンが感じたものを思わせる。彼はこう述べている。

「いかなるものであれ、天空に大変異が起きるのは恐ろしいことだ。なぜならばそれは、誰しもが持つ現実感覚を激しく攻撃するからである。そこで言いたいのだが、黒人は、白人が支配する世の中にあって、ある一つの動かない星となっていた。じっとしていて動かすことができない支柱となっていたのである。黒人たちがそれまであてがわれていた場所から動きだすにつれて、天と地が大きく揺れ動きはじめている」。

アメリカの天と地が動き始めた。

Way out of no way, Keep your eyes on the prize hold on!

2008年11月06日

決定的勝利、人種の壁を破壊する

今日のエントリーのタイトルは、本日のタイムスのトップ記事の見出しである(ちなみに明け方まで自分の住んでいるレジデンス・ホールの方々と語り合っていたため、新聞を買いに外に出たときには、すでに売り切れていた)。

ここでわたしは、大統領選の中心は経済危機を初めとする国内問題であるというのはまちがいであり、いつのときでもつねに人種であると主張してきた。選挙運動はそう展開しているし、アメリカ大統領選挙の歴史自体がそうであると伝えてきた。

ところが〈人種〉に関する問題に触れるには、それなりの「覚悟」がいる。この問題には、だからこそ、選挙選のテーマとして表立って取り上げられはしなかった。それゆえ日本のメディアは、表面だけをみて勘違いしたのだろう。

バラク・オバマの政治的才覚の極みは、このいつ爆発するかわからない問題の「解決」に拘泥するわけでもなく、そしてまたそれを「回避」するわけでもなく、かくして一見「世渡り上手」に振る舞っているようにいて、実は正面から取り組んでいたところにある。

その結果、「人種の壁」は「破壊」された。

彼の存在自体が象徴するものの意味は、言語をこえたところで、この選挙戦を目にしたものたちのこころに響いたのだ。

アメリカの選挙戦では、テレビなどの放送メディアを駆使した運動を「空中戦」と呼び、運動員を展開させ、遊説を行っていくことを「地上戦」と呼ぶ。ここでも紹介してきたように、地上戦はオバマが圧倒的な「戦力」を駆使した。そこには、ブッシュの8年の政権のあいだにすっかり気恥ずかしくなって言えなくなってしまった理念の復活、「アメリカ民主主義の力」の復活があった。

Are you registered vote? と呼びかける彼ら彼女らの姿は公民権運動家の姿とわたしのこころのなかでは重なった。そして、市民ではないけど、こうこうこういった事由であなたたちのやっていることに関心があるから話を聞けないかと聞くと、みながこう答えてくれた。"Yes, you can"

オバマの選挙戦は、キャンペーンというより、ムーヴメントである。

さて、彼の自伝を読み返していると、改めて気になるセンテンスがあった。次回は、そのセンテンスを、彼の当選がきまった瞬間を振り返りながら、解説してみたい。

2008年11月07日

I promise you, we as a people will get there ── バラク・オバマにキングが微笑みかけたとき

20081105_cnn_projection_small.jpg4日、開票速報をわたしは知人たちと一緒に観ていた。選挙の結果が出るまでは一緒に観ようと言ってイスに座ったのだが、当初は深夜にピザの宅配を注文することはもはや「予定」に入っていたし、徹夜も覚悟していた。ところが、改めて振り返ってみると、事態は恐ろしいほど早く進行した。

選挙の行方を支配する最初のバトルグラウンド州の帰趨が決定したのは8時45分頃。ペンシルヴァニア

9時30分頃、オハイオ州も民主党へ。

この時点で開票が始まっている州のなかで行方が注目されていたのはノース・キャロライナ州とヴァージニア州。この二つは先にここで述べた通り、歴史の岐路を示すかもしれない最重要州だ。そう簡単には決まらない(実際のところノース・キャロライナ州は本日結果が判明した)。

そんななか、これまでの世論調査などをもとにCNNが「マケイン勝利の可能性」を計算し始めた。その「計算」によると、太平洋岸3州が共和党に行くことは有り得ないので、ほかのすべての接戦を制しないとだめらしい。オバマが勝つ、そんな期待がこの時点で大きく膨らみ始めた。

ところが、国内に時差のあるアメリカという大陸国家、これから先の開票が進まない。わたしたちは、そこで、開票速報のパロディをやっているコメディチャンネルに切り替えて、カリフォルニアでの投票が終わる11時までしばし笑って楽しむことにした。

そうするとこれからが早かった。10時50分過ぎ、なんとヴァージニア州の行方が決まった。そして大票田のカリフォルニア州での投票がおわる11時をほんの少し過ぎたところ、なんとネットワーク局が一斉にオバマの勝利が確定と報じた。ウェストコーストでは、したがって投票が終わると同時に決まったようなものだ。

2000年の大統領選挙の大騒動があって以後、ネットワーク局は開票速報のあり方を吟味し、発表には慎重になっていると聞かされている。それでもこの結果はほんとうなのか?信じて良いのか?テレビの画面はおびただしい人が集まったシカゴのグラント公園、そしてこの日のために特別のライトアップをしたこの街が誇るスカイラインが映されている。

午後1過ぎ、オバマがステージに現れた。そして彼はその演説のなかで、こう述べ始めたのだ。

The road ahead will be long. Our climb will be steep. We may not get there in one year or even in one term, but America,

このとき、わたしには、マーティン・ルーサー・キング博士が暗殺される前日に行った演説が思い浮かんだ。

キング博士はこう言っている。

Like anybody, I would like to live a long life. Longevity has its place. But I'm not concerned about that now. I just want to do God's will. And He's allowed me to go up to the mountain. And I've looked over. And I've seen the Promised Land. I may not get there with you. But I want you to know tonight, that we, as a people, will get to the promised land!

オバマがこの部分でキング博士を意識していたのはまちがいない。なぜならば、この一節はあまりにも有名なものだからだ。誤解のないように言っておくが、これを思いついたのは、わたしがとりわけてキングに詳しいからではない。

2008年11月5日、オバマは、このあと目を一段と鋭くさせ、黒人教会で育まれた独特のゆったりとしたケーデンスで、こう言い切った。

I have never been more hopeful than I am tonight that we will get there. I promise you: We as a people will get there.

ここでテレビに映し出されたジェシー・ジャクソン、彼の頬には涙が伝っていた。オバマは、キングの言葉、いやむしろ正確にはこう言うべきだろう、アメリカの人びとにキングが残した遺言をはっきりと引き受けたのだ。may not を will と肯定型に置き換えて。「「約束の地」に辿りついて見せる」と言い切ったのだ。

このことばが響いたのは何も「黒人」だけではない。そうわかっていたからこそ、オバマは、指示代名詞 there を用いたのだ。「そこ」と言っても、それはみなにわかったのだ。

グラント公園を埋め尽くした20万人が Yes We Can と初めて大きな声で連呼し始めたのは、この決定的フレーズのあとである。

ここでキング暗殺後の40年間、暗くアメリカを覆っていた雲が一瞬ではあっても開き、キング博士が微笑みかけた。

もちろんこの演説のなかには、106歳のアンナ・ニクソン・クーパーさんの逸話を初め直截的に黒人の闘争の歴史に触れたところもある。しかし、その歴史を確実に踏まえたうえで、もっとも強く「新しい時代が来たのだ」と宣言したのは、実は、「黒人」ということばも、「人種」ということばも、「公民権運動」ということばも出てこないこのような箇所なのである。

ここにこそ、バラク・オバマの人のこころに訴えかける政治家としての類まれな才能が現れている【続く】

2008年12月01日

バラク・オバマが目指す政治(3) ── 勝利演説完全解読(2)

さて、前回の問いに答えることからまず始めよう。

おそらく、「わたしは目がねをかけています」ということを、選挙遊説のたびに言うものはいないだろうし、選挙戦を通じてまったくその事実に触れないものだって普通に存在するはずだ。

もともと〈人種〉とは、人間がもつ属性のなかのひとつに過ぎず、それはひとつの属性であるという意味において、目がねと同じものである。しかし、この〈人種〉という属性が殊更重要な意味を果たしているのは、それが社会によって強い意味づけを施されているからである。

この社会的力は人の意思で簡単に変えられるものではない。この力が変わるには、人びとの意識的な営為とともに、人為を超えた時の流れが必要だ。何はとまれ、現在のアメリカ社会ではこの力を否定していて政治世界を生きられるものではないのである。

したがって、オバマの〈人種〉は、「わたしは黒人です、だから…」ということをわざわざはっきりと言わなくても、彼が存在するその場を既に規定し続けていたのである。よくオバマは〈人種〉について言及しないから黒人政治家ではないという論評が(特に民主党予備選序盤の日本のメディアで)見られたが、これほど馬鹿げた議論はない。

なぜならば、オバマが黒人政治家であること、これはオバマ本人が逃げようにも逃げられない社会的現実なのだからだ。

この峻厳なる現実がまず存在していた。そしてオバマはそこから逃げなかった。むしろ事態は、その反対であり、自分が当選すれば、それがアメリカ史上初の「黒人大統領」の誕生を意味するという「歴史性」を強く認識していた。そして、「黒人」、つまり「奴隷の子孫」がアメリカ合衆国大統領になるということそれ自体に、「〈テロとの戦争で失墜したアメリカ民主政治〉、それを再生する」という政治的アジェンダとを直結させていったのだ。

みずからを「歴史の体現」とするこの大胆な戦略、それを彼はことばにして表現することなく実行していった。なぜならば、彼の風貌がぱっとみてわかるアフリカ系だからである。

先に述べたキングの引用に見られるとおり、この選挙戦にはいろんなところでいろんなシンボリズムが用いられていたが、昨年に始まったオバマの選挙戦の開始点と終着点もそのひとつだ。

開始点は、リンカン大統領生誕の地、イリノイ州の州都、スプリングフィールド
終着点は、南北戦争の北軍の最高司令官の名前を冠したグラント公園

「俺に投票しろ、それが民主主義の豊かな生命力を物語ることになる」。こんな横柄なことを述べたところで、誰も見聞きしないだろう。しかし、現実として、オバマはこれと同じメッセージを、より崇高なことばに変えて、はっきりと宣言したのだ。

彼は勝利演説の冒頭でこう言っている。

「どんなことだって可能なところ、それがアメリカだということをまだ疑っているものたち、われわれの建国の父祖たちの夢はまだ生き続けているということをまだ疑っているものたち、われわれの民主主義のパワーを懐疑的に見るものたちがいたとして、今宵の結果があなたたちがそのような人びとに対して示した答えなのです」。

ここでいまひとつのポイント。オバマは、ここで、自らの人種的象徴性がもった意味を、すでに能動的な市民(「あなたたち」)の功績に帰し、それを称えている。ここで、「俺に投票しろ、それが民主主義の豊かな生命力を物語ることになる」といえば自己中心性が高まってしまうメッセージを脱中心化し、民主主義そのものの理念のなかに選挙の意味を埋め込んでいるのだ。

さらに肝心なことに、ここで「自分」を「中心」から退かせるとともに、〈人種〉は消えているようでいて帰って大きな存在感を示している。何はとまれ、オバマはここで〈人種〉はつねにアメリカ民主主義の弱点であった、その弱点を克服したのだ、と宣言しているのだから…。

このレトリックの巧妙さには、改めて考えてみて、驚嘆せざるを得ない。

かくして彼の演説のなかでよみがえった能動的市民の政治活動が彼のことばによって称えられていく。

学校や教会を一回りするほど伸びた投票者に並ぶものの列、それはこの国が歴史上なかったほどの数にのぼり、票を投じることができるまで3時間、4時間と待たなくてはならない、そして多くのまた生まれて初めて投票したそんな人もいる、そんな人びとみんながくだした結論なのです。この選挙だけはこれまでとは違ったものにならなくてはならない、自分たちの声が今度こそは違った結果になるかもしれない、そんな信念をもった人びとがいたからこそ、この結果が生まれたのです」。

さて、この次、この能動的市民のカタログをオバマは作り始める。そこでは、実は、アメリカ大統領選挙戦史上初めてのとんでもないことばが大胆にも潜み込んでいた。

【続く】

2008年12月02日

バラク・オバマが目指す政治(4) ── 勝利演説完全解読(3)

今回の解説は、オバマ演説の訳から入ろう。

「それは、若い者も老いた者もともに下した答、民主党支持者も共和党支持者も、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系、アメリカ先住民(Native American)、同性愛者(gay)、異性愛者(straight)、身体障害者(disabled)、健常者(not disabled)も一緒になって下した答えなのです。そうしてアメリカ人は世界に向かってひとつのメッセージを発しました ── アメリカが個人の寄せ集め、共和党支持者が多い集(red state)と民主党支持者が多い集(blue state)によって分断された政治を単につなぎあわせたものであったことなど一度もなく、われわれはいつの時であっても、ひとつの統一されたアメリカ合衆国だったのです」。

この演説の後半部は、2004年の民主党大会の基調演説を彼が行ってきた主張をそのまま繰り返したものである。アメリカを〈人種〉や政治思想によって分断された国家であるとみなす考え方は、1990年代半ばより広く共有されてきた。ここでオバマは、そのときに広く読まれた著書、アーサー・シュレジンガー・ジュニアのThe Disuniting America をはっきりと意識しつつ、シュレジンガーらの主張を否定し、その勢いを一気にアメリカ愛国主義につなげている(しかしながら、「ケネディ神話」を作り出した人物のひとりであり、それゆえケネディをこよなく愛するこの老歴史家は、オバマ当選を喜んでいると思う、たぶん…)。

さて、前回指摘した「アメリカ大統領選挙戦史上初めてのとんでもないことば」は、すらすらと述べられたこの演説の前半部にある。実は、アメリカ先住民ということば、そして同性愛者ということばが、このような舞台の演説のなかで発せられることはなかった。オバマにこれができたのは、彼が自分が黒人であることをはっきりと意識していたからにほかならない。

しかし、これはよく考えるととんでもないことだ。日本の総理大臣が、「わたしが総理になれたのは、国民の熱烈なる支持があってのことです」と慇懃に礼を述べ、そのあと支持層それぞれに挨拶し始めるとしよう。そのなかに「ゲイ」ということばがでることなどありあり得ない(もちろん、この選挙で、カリフォルニア州の住民投票はゲイから婚姻の権利を剥奪することを是とした。その問題はあまりにも大きいが、実際のところ、このわたしにはそれを論じる力がない)。

選挙結果が世界に知れ渡ったあたりから、アメリカではオバマ当選を祝う各国の姿が報じられた。そのなかには、もちろん彼の父の国、ケニヤの姿もあったが、多くは、香港のイギリス系、フランスやドイツのアラブ系といった、彼と同様ハイブリッドなアイデンティティを抱く人びとの姿だった。日本からの画像は、福井県小浜市の勝手連。それは実に異様だった。

話をもとに戻して、オバマはこれまで大統領選挙で無視されてきた人びとをこうして登場させる一方、ある人物像を退場させた。それは、ジョン・マケイン(わたしが参加した集会で、ブルース・スプリングスティーンは彼のことを「もうすぐ歴史の脚注にしかすぎない存在になる人物」と言ったが、もはやはっきりとその「定位置」を確保してしまった感がある)が、テレビ討論会で突然「テレビの前のジョー、配管工のジョー、わたしはあなたのための政治をしようとしているんです、オバマ上院議員はあなたのような人びとに対し増税を行い、大きな政府をつくろうとしているのです」といったことを述べ立て、周囲をひかせてしまったその「配管工ジョー」である。

このブログの大統領選に関する記事を読まれている方ならお気づきの方も多いはずだ。この「配管工ジョー」は白人、政治思想はレーガンデモクラットである。

政治的言説の舞台から、かくして登場者が入れ替わった。こうしてみるとオバマは、政治舞台の登場者であるというよりも、ここではむしろ演出者である。

2008年12月14日

バラク・オバマが目指す政治(5) ── 勝利演説完全解読(4)

前にエントリーを書いてから、学期末ということもあり、少しバテてしまった。今回は、この演説の「最初」の佳境に入る。このブログのために再度演説を画像からおこしていて、改めてこの演説の意味の重層性に驚いている。今回は、したがって、ヘヴィな解説になると思う。

まず英語の原文を示そう。

It's the answer that -- that led those who've been told for so long by so many to be cynical and fearful and doubtful about what we can achieve to put their hands on the arc of history and bend it once more toward the hope of a better day. It's been a long time coming, but tonight, because of what we did on this day, in this election, at this defining moment, change has come to America

これを訳すとこんな感じだろうか。

「またそれは、ずいぶんと長い間、ずいぶんと多くの人に、歴史が描く円弧を自身の手でしっかりとつかみ、それをもう一度より良い明日の方向へ曲げるには、やれシニカルになっている、やれ恐怖心で、そしてさらには猜疑心でいっぱになっていると言われてきた人びとが出した答なのです。この答がでるまでに、ほんとうにずいぶんと長い時間がかかりました。しかし、今夜、私たちが今日行ったことによって、この選挙によって、そしていまこの決定的瞬間に、変化のとき、それがアメリカにやってきたのです」。

さて、この訳を読むと、「歴史の円弧を自身の手で…」の部分、さっぱり意味が通じないはずだ。なかには、これを「手を伸ばすことができたのです。歴史を自分たちの手に握るため。より良い日々への希望に向けて、自分たちの手で歴史を変えるために」と訳しているところもあるが、正直言ってこれではこの一節が持つ重みがまったく伝わらない。

オバマは、3行目で "once more"と言っています。直訳は「もう一度」。さてでは最初の一回はいつのことだったのでしょう? 少し日本の新聞の訳をみたが、全部不正解です、まったくわかっていません。先に紹介した訳は、ここをまったく無視しています(さらにこの訳は、「あれはできないこれはできないと言われてきました」と訳していますが、そんなこと彼は全然言っていませんよ、achieve anything とは言ってないじゃないですか?、政治行動に関してだけここは述べているのです、その内実がわからないのでごまかそうとしていますね、この訳は)。

では、今回が"once more "ならば、前回はいつだったのでしょうか?

答え:公民権運動のときです。

なぜか、なぜそう言えるのか

それは、その直前にある"arc of history"という言葉があるからそう言えるのです。

人類の営為=歴史を天空を描くアーチに喩えることは、実はマーティン・ルーサー・キングが十八番としたものだった。彼は"bend"という動詞も使ってよくこう述べていた

The arc of the universe is long, but it bends towad justice。「空を描く天空の弧は長い、だがそれは正義がある場所に向かって弧を描いているのだ」

さてよく考えるとこの比喩はおかしい。だからすこしピンぼけな感じがする。比喩が懐にポンと落ちない。

おかしいのは、「天空の弧」の中心には「地球にいる人間」が立ち、それを「中心」にして宇宙の秩序が説明づけされているからだ。現代のわたしたちはこんな天空の描き方はしない。これは「天動説」なのである。

それもそのはず、この文言を最初に述べた人は、中世の神学者、アウグスティヌスである。彼の思想を現代の政治に持ち込んだのは、神学博士であるキングの解釈があってのことだ。

「あのねぇ、学者先生、それはあんたの深読みでしょ」、そう述べたい人がいるかもしれない。だから少し念を押しておこう。

ちがいますよ、オバマははっきりとキングの演説を意識しています。意識している証拠があります。

1966年投票権法の期限延長法案が連邦議会上院で討議されたとき、彼は、キングが行ったこの演説(それは投票権法の可決を迫るセルマ=モントゴメリー行進の最後の集会──公民権運動史上、主要黒人団体が最後の団結を示した行進──で述べられたもの)をはっきりと出典を明示して議場で、こう演説している。

Two weeks after the first march was turned back, Dr. King told a gathering of organizers and activists and community members that they should not despair because the arc of the moral universe is long, but it bends towards justice. That's because of the work that each of us do to bend it towards justice. It's because of people like John Lewis and Fannie Lou Hamer and Coretta Scott King and Rosa Parks, all the giants upon whose shoulders we stand that we are the beneficiaries of that arc bending towards justice.

「(セルマ=モントゴメリー行進の)最初のデモ隊が撤退させられたあと、キング博士はオーガナイザーと活動家、そしてコミュニティの人びとに対してこう述べました。「空を描く天空の弧は長い、だがそれは正義がある場所に向かって弧を描いているのです、だから悲嘆に暮れるべきではないのです」と。そうなるのも、わたしたち一人ひとりが、天空の弧を正義の方向に向かうように行動しているからです。ジョン・ルイス、ファニー・ルー・ヘイマー、コレッタ・スコット・キング、ローザ・パークス、その他もろもろ偉大な人びとの存在があってこそ弧は正義へと向かい、そんな彼ら彼女らの偉業のうえにわれわれは立っています。われわれは、弧が正義へと向かい始めたことの受益者なのです」。

つまり、1966年にははっきりとしていた天空の円弧の方向は、その後一度見えなくなり、2008年11月に再度そもそも向かっていた方向に「曲げられた」のだ、そう彼は述べたいるのだ。

ここの意味の重層性、強烈である。

その次の箇所はこれに比べるとそれほど重くはないが、それでもその時間感覚の表現は絶妙だ。

時制を少し変え、語句を抜き去れば、ここにこんなフレーズが見えてくる。

It's been a long time coming but , , , change has come. . .

こうすれば、リズム&ブルースの好きな人は、すぐにピンと来るでしょう。そうです、サム・クックの名曲、「ア・チェンジ・ゴナ・カム」の歌詞をもじっているのです。この曲は、映画『マルコムX』のなかで、マルコムXが煩悶の末にネイション・オヴ・イスラームを脱会することを決断するシーンで流れる曲でもある。

公民権法が成立した1964年(サム・クックが殺害される年)、クックはこう歌った。

It's been a long, long time coming, but I know, ou, ou, ou, a change's gonna come

ここでのポイントは時制にある。クックが近接未来形を用いた箇所で、オバマは大胆に現在完了・完了形を用いている。1964年公民権法が約束した変化の到来を、44年後に宣言したのだ。

なお、右のCDは、1990年代になって発売されたベスト盤だが、これに収録されている「ア・チェンジ・ゴナ・カム」は、公民権運動の歴史に少しでも関心があるものには必聴のものだ。64年に発売されたシングル盤にはない歌詞が入っているものが収録されていて、その「発掘された」歌詞の部分は、明らかに公民権法成立によって到来した新しい秩序のことを歌っているのである。

しかし、ほんとうにほんとうに実に長い時間だった。

さらにオバマの才覚。キングの演説(YouTubeのリンクを参照)では、"How long, not long”というフレーズが繰り返されている。ブラックパワー宣言が行われ、ロサンゼルス・ワッツ地区では大規模な人種暴動が勃発した1966年の夏、キングは、たちこめる暗雲(と催涙弾のガス)を振り払うかのように、夢が現実となる日まで「長くはない」と断言していた。黒人のキリスト教の伝統のコール・アンド・レスポンスを駆使しつつも、自分で自分に言い聞かせるかのように何度も何度ももそう述べていた。

そう、今回解説している箇所の前半部と後半部は、時間の表現、long によってつなげられているのだ。わかりやすく翻案すると、オバマはこう言っているのである。

「キング博士、あなたは長くはかからないとおっしゃいましたが、実際のところ長くなってしまいました。その間、人びとはシニカルになり、怖れを抱き、猜疑心でいっぱいになっていったのです。でも、それも終わりです、今夜、変化が来たのです、ご安心ください」。

さて、よく英語を聴いて欲しい。中学2年で習う文法が実に巧妙に使われている。クックの近接未来 is gonna come (is going to come) が、オバマでは現在完了 has come になっている。まだ現実でない(近接未来)の実現が完了したのだ。

これは、おそろしく大胆な宣言だ。

こうやってみると、オバマの演説の bottom line にはいつも「アメリカ黒人の経験」が存在しているのがわかるだろう。彼の演説の妙は、それを明示することで黒人の経験の特殊性を主張したりはせず、敢えて比喩や引用にとどめることによって人類普遍の経験を喚起しているところにある。

オバマの雄弁さは、ヒラリー・クリントンとの「死闘」を通じて、一般に知られるようになった。しかし8月の民主党大会の指名受諾演説(それまでの演説を繰り返しただけの間延びした退屈なもの)にがっかりした人は多い。それによって彼が旬だった時期はもう去ってしまったと思った向きも多い。

それゆえ、11月5日未明、わたしはオバマの演説に期待するとともに不安も感じていた。しかし、おそらくいまとなってははっきりとは思い出せないが、この辺りから、「今夜はちがう」と感じ始めたと思う。Tell like it is!、おそらくそう実際に叫んでいた。

ところで、クックの歌い方とオバマの話し方にはかなりの差異がある。クックの歌い方は、ジェシー・ジャクソンらの黒人教会が育んだ黒人指導層の話し方に近い。そう考えると、さまざまな意味をコラージュさせていくオバマの手法はヒップホップ的と形容してもいいかもしれない。

続く

2009年01月19日

バラク・オバマが目指す政治(6) ── 勝利演説完全解読(5)

20090118_small.jpgわたしにいるアメリカではもう完全にお祭りムードである。大統領就任式のためにワシントンD・Cに向かう人の数は都市圏全体で400万、市内中心地だけで200万人と報道されているが、ワシントンD・C大行進が25万人だったことを考えると、これから行われる儀式がいかに巨大なものなのかが想像できる。

そして、ブラック・アメリカにとってみれば、今週末のキング・ホリデイにこの「祭典」が続き、たいへんな季節になってしまった。

前にこのシリーズを終えて、またわたしはバテてしまった。そして次のところがいささか平坦な内容なので、「完全解読」に対する力が抜けてしまった。オバマがまた強烈な就任演説を行うことへの期待は高く、またまた日本の新聞各社は見当ちがいの翻訳を掲載するだろうが、このブログではマイペースで解読を進めていく。

では、次回の続き:

「今日この夜の少しばかり前、マケイン上院議員からとても丁重な電話をもらいました。マケイン上院議員は長く激しいこの選挙戦を立派に闘いましたが、彼が愛するこの国のための彼の闘いはそれよりずっと長く厳しいものでした。彼は、わたしたち多くが想像することすらできないほどの犠牲をアメリカのために支払ってきたのです。わたしたちが今日このように恵まれた生活を送らられているのは、この勇気ある無私無欲のリーダーの国に対する奉仕があったからなのです。そのような彼を讃えたいと思います。そして、ペイリン知事と彼女の業績を称えたいと思います。これからやってくる将来、この国が掲げた約束に対する信頼感を新たにするために、彼ら彼女らとともに奉仕できる日のことを楽しみにしています」。

実のところ、この部分、戦後日本の教育を受けてきたものには少しばかり得心がいかないところがある。ベトナム戦争で捕虜になり、いかなる拷問を受けても軍事機密を守り抜いたジョン・マケインの行為を「国に対する犠牲」ときわめて肯定的に描いている点だ。

オバマは、アメリカ史上初(しかし彼にはいろいろと「史上初」が多いが)、戦時中にあって兵力を引き揚げるということを選挙公約にして勝利した候補である。民主党予備選の序盤で「テロとの戦争」を支持したヒラリー・クリントンとの立場のちがいを鮮明にするために行った公約でもあろうが、この「反戦姿勢」からすると彼は平和主義の候補ではないかと思われてしまう。しかしそうではなかった。

アメリカでは、国を守るために銃をとることは決して否定されていない。それはこの国の国歌を聞けばよくわかる。フランス国歌と同じく、これは革命戦争に命を賭けた兵士を讃える歌だ。

もちろん、上の写真にあるように、反戦論者がオバマを支持したことは事実だろう。彼の才能のひとつは多くの人に違った意味の魅力でアピールできるというところだ。アメリカで、日本流の平和主義者が選挙に勝つことはまずありえない。だから、「無条件の愛」を説いていたキング博士が大統領選挙に出ても勝てるはずなどなかった。彼の「夢」を叶えるには、ほかの方途が必要だったのだ。

ためん、ペイリンの業績については、????だ。

さて、この次もいささか平たい賛辞が続く。ブログはマイペースに進めて行こう。

2009年01月22日

連邦議会黒人幹部会 Congressional Black Caucus と大統領の関係 ── 多様性 diversity の今ひとつの側面

大統領就任式記念の昼食会でのオバマの挨拶で、名前が言及された人物が二人いる。ひとりはテディ。これは、今年の春に脳腫瘍の手術をし、昼食会が始まるとすぐに倒れたリベラル派のシンボルでケネディ大統領の実弟、エドワード・ケネディのことを。突然のこの事態にあたり、オバマ大統領は、彼の健康の回復を祈った。

もう一人は、ジョン。これは「公民権運動の突撃隊」と呼ばれ、数ある公民権団体のなかでももっとも急進的だった学生非暴力調整委員会のジョン・ルイスのこと。彼は現在連邦下院議員を務めている。

オバマは、この両者の共通点として、自分の当選には1966年投票権法の制定が不可欠であり、それにあたっては、テディ・ケネディが上院議員として、そしてジョン・ルイスが運動家として関係していたことに触れて、簡単な謝意を示したのである。

ジョン・ルイスが参加したセルマ行進では、アラバマ州兵がデモ隊に襲いかかり、彼は頭蓋骨骨折の重傷を負った。そんな彼は、その後のホワイト・ハウスまでの大統領のパレードのときにCNNの解説席に呼ばれ、就任式では涙がでてきたこと、そして運動の最中に投げ入れられた冷たい監獄のなかでは想像すらできなかったことが現実になったと良い、感無量のようだった。

ところが、このブログがかつて紹介しているように、実のところ、ジョン・ルイスはヒラリー・クリントンの支持者であり、オバマ支持に回ったのはジョージア州での民主党予備選が終わったあとである。

彼の場合、「自分の選挙区の民意には逆らえない」という考えが強く働いて、翻意につながっていった。ところが、黒人議員のなかでも、たとえば、下院議院院内幹事の高位の職にあるジェイムス・クライバーンなど、自分の選挙区がオバマに行っていても、最後までクリントンの支持の姿勢を変えなかった者もいる。

つまり、バラク・オバマは、黒人議員の支持を固めているとははっきりとは言えないのだ。彼の大統領就任がまちがいのない人種関係の歴史の新しい時代の幕開けであったとしても。

ここに来て厳しい立場に置かれているのは、そのような黒人議員たちからなる連邦議会黒人幹部会 Congressional Black Caucus (CBC)だろう。これまでCBCは、数ある議会会派のなかでも、もっともリベラルな会派として、もっとも団結した投票行動をとってきた。ところが、大統領が黒人となると、そしてその大統領と政策が噛み合わなくなった場合、会派が統一行動を取れなくなるケースが多いにあり得る。

たとえば、イリノイ州知事が、オバマの大統領就任で空席になった連邦上院議員の席に座る人間を指名する際、もっとも高額の賄賂を贈ってきたものにその席を与えるという汚職行為を摘発され、それでも憲法の規定にしたがって(アメリカではこの場合補欠選挙が行われるのではなく、州知事に任命権が与えられることになっている)公認を任命したとき、その任命された人物 ── 黒人のローランド・バーリス ── の議会出席を民主党幹部が妨害し、大きな問題になった。

このときのオバマの態度は、イリノイ州知事に辞任を求め、別の手段や人間によって後任人事を行うことだった。他方、CBCは、態度を表明できなかった。なぜならば、CBC内部の意思統一ができなかったからだ。

たとえば、かつてはブラック・パンサー党シカゴ支部の幹部であり、2000年の選挙では当時政界に入ったばかりのオバマを簡単に選挙で打ち負かしたこともあるシカゴ選出の連邦下院銀ボビー・ラッシュは、バーリスの承認を拒否しようとする動きには人種主義があるとし、民主党幹部の姿勢を激しく批判していた。他面、この大統領選の初期からオバマ支持をはっきりと言明していたCBC会長のイライジャ・カミングスは、憲政的手続きに則ってバーリスが任命された以上、それを否定することは憲法違反に当たるという意味から民主党幹部を批判していた。つまり、総論賛成各論反対の状態だったのだが、こういうときに行動に出られないのは政治の常だ。

実際のところ、CBCが人種だけに左右される組織だとしたら、もっと自体は簡単だろう。オバマ「候補」に対しても、彼は同会派の会員であるがゆえに、早い段階で一致団結した支持を表明していたはずだ。ところが現実はこれとは異なっていた。

黒人コミュニティ内部はおろか、黒人政治家のなかでさえ政治的姿勢や意見はいまや多様化しているのである。

それでもCBC議員のなかには、これまでは大統領に自分の政治姿勢を黒人の視点から説明する必要があったが、これからはそれがなくなる、と言うものもいる。それでも、今後、CBCとホワイト・ハウスは、おそらくまちがいなく何度も衝突するであろう。そこに見えるのは、このような多様化した社会だ。バラク・オバマの当選自体、アメリカ社会の多様性 diversity の証左だと言われるが、CBCとホワイト・ハウスとの関係もまた、 多様性の今ひとつの側面だと言えよう。

それとも、あまりにも急速に進む多様化に押されて、CBC自体が機能不全に陥るかもしれない。これを書き終えて思ったが、この可能性、実はそんなに低くはないように思えてきた。これが「ポスト公民権時代」の現象であることは間違いないが、果たして「ポスト人種」であろうか。今少し考えてみたい。

2009年02月12日

バラク・オバマが目指す政治(7) ── 勝利演説完全解読(6)

次にこの旅のパートナー、自分の心情にしたがって選挙運動を行い、故郷スクラトンの街のストリートで一緒に育った人びとのために発言し、たったいま故郷のデラウェアへ帰路についた男、アメリカ合州国次期副大統領ジョー・バイデンに感謝の意を捧げたいと思います。

そして、これまでの16年間わたしの最良の友人であり、わたしの家族の固い支えであり、わたしの最愛の女性、次期ファースト・レディ、ミシェル・オバマの弛むことのない応援がなかったならば、今日こうしてわたしはここに立つことはできなかったでしょう。

サーシャ、マリーア、あなたたちが想像できないほどわたしはあなたたちを愛しています。ほら、たったいまあなたたちは買ってやると約束していた子犬と一緒にホワイト・ハウスに引っ越しすることが決まりました。

そして、つい最近逝去しましたが、祖母がきっとどこからかわたしを見守っていること、それがわたしにはわかっています。わたしが誰であるのか、そのアイデンティティを培ってくれた家族のみんなと一緒に。亡くなった人びとのことを考えると、今宵、寂しい気持ちになります。彼女たちに対してどれだけ多くのものを負っているのか、それをわたしはわかっているからです。

妹のマヤ、姉のオウマ、そのほかの兄弟姉妹たち、これまでの支援どうもありがとう。とても感謝しています。

3つの点について解説したい。

1.呼称の変化
オバマが立候補を表明してからこの時期までに20か月が経っていた。一方、大統領選挙に費やされる選挙運動期間は14か月と言われている。だから、彼の場合、平均より半年長かったことになる。初期の頃の写真と現在の写真を比べるとよくわかるが、オバマはこの20か月で一気に老けた。目立たないながらも、彼の髪にはいまは白髪がある。

小さなことだが、これまで「副大統領候補」vice presidential candidateを「次期副大統領」と呼んだとき、それは支援者たちが勝利を確信し、今一度喜びに浸ったときである。

そしてまた、これまでとは立場が変わる、という将来への期待と怖れを感じた瞬間だった。

なお、ミシェル・オバマは、選挙戦中は「バラク」と親しみを込めて使っていた呼称を、就任式が終わるや否や「ミスター・プレジデント」に変えた。

2.ミシェル・オバマと選挙政治
ミシェル・オバマは、民主党予備選が始まったときに、「1週間のうち3日ほど選挙運動をする」と言っていた。

ではあと4日何をするのか?。

これはバラクの最大の政敵、ヒラリー・クリントンを意識した巧妙なアピールだったある。

つまり、わたしは主婦、主婦が第一で、家族が第一、それを守り抜きます、と保守的イデオロギーではなくとも保守的心情を抱えている人に訴えかけていたのだ。

だからオバマは、まずこう言っている。家族の固い支え、rock of my family。

ブッシュの失政のために共和党に対して強烈な逆風が立つなか、昨年の春には民主党の候補が黒人か女性かになることにほぼ決まった。どちらがなっても史上初である。しかし、結局、黒人が先に「初」を達成したことで、実は人種の「壁」よりもジェンダーの「天井」の方が固いのではないかという話が出てきているくらいだ。

4.多様なファーストファミリー
さて、オバマの大統領就任により、ホワイトハウスの主と血縁のある人の多様性が一気に拡大した。母親違いの姉がアフリカに、父親違いの妹(インドネシア生まれ)がハワイにいることは広く報道されているところであろうが、その妹の夫はトロントに住んでいる中国系カナダ人である。

その模様は、『ニューヨーク・タイムズ』紙の " target="_blank">このイラストを見ればよくわかる。

なお、アメリカにいるとよくわかることだが、日本はもはやアジアでの戦略的最重要国としての地位を失っている。その国はいまや中国だ。軍事力のみならず、米国債の保有残高を考えてもそれが順当なところだ。

そのうえ、『ニューヨーク・タイムズ』紙などは、被差別部落出身者に対する現首相の暴言を大々的に報じ、現首相の世間離れどころか世界離れは、黒人を大統領に選んだ国の人びとにも知られることになった。その先長くないと言われながら、まだ首相の座に居座り続けているらしいが、恥ずかしいのでいい加減にしてもらいたい。

大統領就任の宣誓文句を空で覚えている大統領と漢字の読めない首相、首脳会談をするとしてもいったい何を話すのだろう。

2010年02月07日

"Saints" Go Marchin' In -- New Orleans Mayoral Election

ニューオーリンズ市長選の第一回目の投票結果が出た。黒人票が公民権運動後では初めて白人候補を支持することになるかもしれないという事前の予測通り、現職副知事で元市長の息子、ムーン・ランドリューが当選。過半数獲得まで投票が繰り返される同市の選挙制度にあって、一回目で66%を獲得する地滑り的勝利になった。

さて、歴史的に言って、南部再建期以後黒人は幾度も白人を支持してきた。なぜならば、都市内部における黒人の比率が高くなるまで、黒人が当選できる可能性は極めて低く、白人に投票でもしなければ彼ら彼女らの声が政治に反映されることなどあり得なかったのである。

その状況を一変させたのが公民権運動と都市人口の変容。

公民権運動は黒人の人種意識を覚醒させ、50年代以後の白人人口の郊外への「逃亡」は、全米諸都市において次から次へと黒人市長が誕生する現象を生みだした。

この間に進行していったのは、実は投票が人種的アイデンティティによって決定されるということ。これが問題なのは、黒人だからと言って、黒人市民を利する政治を行うとは限らないということ。民主政治の根幹のひとつには功利主義がある。人種アイデンティティが選挙を支配したとき、有権者は決して功利主義的には行動しない。

ニューオーリンズは、過去2回にわたってC・レイ・ネイギンを当選させてきた。カトリーナが同市を襲ったとき、テレビの前でブッシュを罵倒して泣き崩れた人物である。巨大な自然災害と無能な連邦政府の板ばさみになった彼には「不運」なところがないこともない。しかし、結果を見ると、政治家としての彼に評点をつけるとすると、C-を下がる。

2008年の大統領選挙、以下に記しているように、わたしが特に注目したのは境界州の白人票の動向。同地の白人は人種を超越してオバマを支持した。2010年、ポスト・カトリーナ2度目の選挙、前回は人種的忠誠心からネイギンを支持していた黒人市民たちが、今度は彼を見棄てた。〈人種〉の呪縛を、とりあえずは振り払ったのである。

そのことを祝おうではないか。明日のもっと大きな祝杯の前に!

2010年04月05日

オバマと黒人教会 ── Rev. Jeremiah Wright's Smile

ちょうどいまから2年前、大統領選挙予備選が行われていた頃、フォックステレビが、「反米的思想」を吹聴しているとして、オバマが通っている教会、トリニティ教会Trinitity United Church of Christの牧師を非難、猛烈なネガティヴ・キャンペーンを行ったことがあった。問題となった牧師、ジェレマイア・ライトは、ネットやフォックスニュースの画面を通じて頻繁にながされたビデオのなかで、黒人は「神よアメリカを祝福し給え」God Bless Americaと言うことはできない、「神よアメリカを呪い給え」God Damn Americaと言うべきである、といったことを教会の演壇から説いていた。

これは何も「反米的」と形容できるものではない。むしろ、アメリカ黒人の歴史のなかでは、黒人の苦境を映し絵にアメリカを断じることは至極一般に行われていることであり、近しいところでは、その論調はマーティン・ルーサー・キングやマルコムXの双方が用いたことがある。

いわばこのような誹謗中傷を受けて、当時ヒラリー・クリントンと熾烈な予備選の最中にあったオバマは、フィラデルフィアで"A More Perfect Union"と題する演説を行った(右上のYouTube動画を参照)。この演説は、多くのアメリカ史・黒人史家が、アメリカ政治の歴史のなかでもっとも人種を率直に論じた、名演説中の名演説と評価するものである。わたしも、彼の演説のなかでは、この演説こそ最高のものだと評価するし、何度聞いても魂が洗われる感覚を受ける。

「ブラック・コミュニティはわたしと絶縁することはできません、ならばわたしだってブラック・コミュニティと絶交することなどできないのです。わたしが(白人の)祖母と絶縁できないならば、わたしはライト牧師と絶交することもできないのです」と彼が言い放ったとき、このキャンペーンの流れが大きく変わった。それまで、アメリカ黒人ではなくアフリカ人を父に持つオバマのことを、「黒人の経験を知らない人物、ほんとうは黒人ではない人物」と批判していた論調が去り、クリントンを支持していた老獪な黒人政治家ですら彼の支持へと傾いていったのだ。つまり、ネガティヴ・キャンペーンは、オバマに人格の高潔さを示す機会を与えてしまい、意図した効果とは逆の結果になってしまったのである。

しかしながら、ジェレマイア・ライトが、911テロを賞賛していると捉えかねない扇情的な発言を繰り返すにしたがってオバマの政治生命も危機となり、関係を見直さざるを得ず、結局両者は絶縁するに至る。そのとき、NAACPデトロイト支部の会合で、ライトはこう言っていた。

「オバマのほんとうの色true colorは、彼がホワイト・ハウスの主になった後、どこの教会に行くことになるか、それを見ればわかる」。

アメリカ合衆国は、近代思想の産物であるとともに、きわめて宗教的な国でもある。そのような国にあって、大統領が無信教であることは許されない。

しかしながら、その一方、アメリカの教会は、人種統合されているとは言い難い状態にある。その状況を端的に言い表しているのが、「日曜午前11時(つまり、教会で礼拝が行われている時分)はアメリカがもっとも人種隔離されている時間」という表現であろう。つまり、同じキリスト教であっても、黒人は黒人だけで、白人は白人だけで集うのが、事の善し悪しは別として、慣例となっているのだ。

つまり、ライトは、この状況を鋭くつき、オバマの「忠誠心」は黒人教会にあると、挑撥的に言い切っていたのだ。

さて、イースターの日曜日を迎えた4月4日(ちなみに、この日はマーティン・ルーサー・キングが暗殺された日でもある)、オバマは、ワシントンD・Cの黒人ゲトーである、南東部第9区にある黒人教会を訪問した。第9区での失業率は28.5%、貧困率は40%に達する。『ワシントン・ポスト』は、オバマがワシントンD・Cのブラック・コミュニティとが最接近した事例として、この模様を報じている。

ここのところ全米のメディアでは、オバマと黒人運動家との確執を報じる記事が多く見られる。ところが、元来彼は、ワシントンD・C第9区と大して変わらないところ、シカゴのサウスサイドで活動していたコミュニティ運動家だった。つまり、彼にとって、このようなコミュニティが抱える問題は、何も目新しいものではないし、また直接的関係性が薄いものでもないのだ。

オバマがこの日訪れた教会の牧師は、激しく体を揺り動かしシャウトをする、いわゆるリヴァイヴァル調の会衆について、「大統領御一行のみなさま、どうももうしわけありません、しかしわたしたちはこのようにここではクレイジーでいたいのです、髪を乱し、靴を放り投げている光景を見ることになるかもしれません、しかし、それがわたしたちが主を讃えるやり方なのです」と言ったという。この出来事を報じる『ワシントン・ポスト』は、それをこう表現した。「オバマがトリニティ教会のメンバーだったときに参加していた激烈な礼拝」である。

さて、ジェレマイア・ライトがこの記事を読んだら、何を思うだろう。わたしはきっと微笑んでいると思う。

「ブラック・コミュニティはわたしと絶縁することはできません、ならばわたしだってブラック・コミュニティと絶交することなどできないのです」。

ワシントンD・C第9区の教会の牧師はこう言っていた。「大統領がこのような苦しい時期にここを訪れてくれているのに、第9区のことが世間から忘れされられているということなどありません」。

わたしもオバマはブラック・コミュニティのことを忘れていないと思う。

問題を人種問題と規定することなく、より普遍的な問題として捉え、人種問題そのものに取り組むこと、オバマの〈人種〉とのそんなダンスは続く…。

2011年06月21日

ずらずらと思ったことを書いてみる

ずらずらと思ったことを書いてみる…

ついこのほど、共和党大統領候補のテレビ討論会が開催された。また大統領選挙の「シーズン」が到来する。

思えば、このウェブサイトは、2000年大統領選挙でのフロリダの緊急事態、元学生非暴力調整委員会の幹部、H・ラップ・ブラウンの奇妙な逮捕など、「何かを言わねば!」と思った事件が相継いだことをきっかけに始めてみた。些細なことではあるが、初代iMacにバンドルされていたAdobeのHTMLエディタによって、それほど詳しいHTMLの知識がなくても、人に見てもらっても支障のないサイトが作られるようになったのも大きい。それでも、当時は、プレADSLの時代であって、やっと価格が手頃になったISDNの、いまから考えるととても遅い回線をつかってサイトのアップロードをしたように覚えている。おかげさまで、あれから22年、その間には研究者のためのサイト制作ガイドブックのようなものにもとりあげてもらったり、ふと気づけば、このサイトの訪問者も6万7000人を超えた。最初の頃はCGIの知識がなく、カウンタをつけていなかったし、Cookieの設定などを考えると、10万人は超えているはずだ

いまでは、もはやわれわれは、何らかの意見を発するのに、携帯があれば十分、パソコンすら必要なくなってきている。ついこのあいだ見つけたのだが、ミシガン州デトロイト市郊外から、まあとても熱心にオバマの誹謗中傷とへんてこりんで奇々怪々な自称「リバタリアン思想」を、日本で運営されているブログに書き連ねている方もいらっしゃるくらいだ。

それはそれで、いまの「言論の世界」がある意味健全であることを示す。このようなときに必要とされているのは、説得力のある反論にほかならない。

そのようななか、このサイトのブログコーナーの更新がなかなか進まなかったのは、おそらくわたしが多忙を極めたこと原因ではない。自分のエントリーを振り返ってみて、おそろしく忙しかったときにでも、更新はかなり頻繁に行っていた。

自分で認めるのも恥ずかしいことだが、おそらく「燃え尽きた」ところがあったと思う。オバマ当選の多幸感のなかで。そして、そうこうするうちに、政治イデオロギーの相対的布置関係がさらにまた大きく変化してしまい、それについて「註釈」を加えるのが、いくぶんか面倒にすらなってしまったのである。

面倒になってしまったのは、オバマのアポロジーをしなくてはならない、そんな感情を抱かなくても良いのに抱いてしまったからかも知れない。ところが、最近、そのような力みからが徐々にわたしを放してくれ始めた。逆に、ここははっきりと批判をしなくてはならない、という感慨が逆に強くなってきた。


思えば、最初の「おや?」という幻滅感はすでに政権発足後の早い時期に感じていた。それは、ハーヴァード大学で教鞭をとる思想家・批評家で黒人のヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアが自宅で逮捕されたときのことだった。レイシャル・プロファイリングどころか、露骨な人種偏見の発現にほかならないこの事件に際し、オバマは、ケンブリッジの警官を「バカたれ」stupidと切り捨てた。ところが、翌日にはその発言を撤回し、警官とルイス・ゲイツとの「ビール・サミット」をホワイトハウスで開催することを提案、自ら仲介者を買って出た。なぜ自宅にいた黒人を逮捕した警官がホワイトハウスに招かれるのか、わたしにはさっぱりわからなかったし、わたしのアメリカ人の知己ですら、この行動に疑問を呈するものは多かった(なお、その「知己」のほとんどが白人である、念のため断っておく)。

強く思う。「バカたれ」発言は撤回するべきではなかったし、警官は処罰するべきだった。なのに、彼は何かに怯えたような決断と行動をとってしまったのである。

あとはズルズルと後退。そのズルズル、いくつか今後の記録のために、深く失望に引き込んでいたのだけでも、思い出しながら列挙してみようか。

・グアンタナモ収容所の閉鎖の中止
・ブッシュ減税の見直しの中止
・キューバ外交の見直しの中止
・リビアへに参加しつつ、そのほかの中東の民主革命は傍観
・パキスタンという主権国家で行った実に大胆な行動、ビン=ラディンの処刑

要は、キャンペーンで語ったことをやっていない、ということになるだろうか。しかし、基本的なところで政策的現実性を欠いていたどこかの党の「マニフェスト違反」とは異なり、オバマは財源に苦慮しているのではないように思える。

キャンペーンが終わるとともに霧消してしまった熱気溢れる世論の不在に直面し、とにもかくにも世論の行方のみ、わかても「オバマ・ケア」の審議中に吹きだした人種主義的言辞を破廉恥にも弄する世論の動向に最大の関心を払っているように思えてならない。


勇気が必要なときに勇気を欠く。Audacity of Hopeというのは、オバマの著書の名前だが、彼自身がこれを欠いていては、いったん冷めた世論はさらに冷める。

デトロイトの草の根市民活動家にグレイス・リー・ボッグスさんという方がいる。マルクスの『経哲草稿』の英語翻訳を全米で初めて手がけた哲学者である彼女の運動の経歴は長く、それは1930年代のニューディール左翼の活動まで遡る。そのボッグスさんは、2008年の大統領選挙期間中にこんなことを言っていた ── オバマの政策に同意するから彼を支持するのではない、政策だけを考えるとベターな候補はほかにもいる、彼を支持するのは、彼がactive citizenryという概念を賦活しているからだ。

また、ハワード・ジンは、亡くなる少し前にこんなことを言っていた ── 新しいリベラル政権の行方は、その政権を左に押せる世論の形成にかかっている、ニューディール政策や公民権立法はそのような世論があるからこそ果たせたのだ

オバマがリベラルを見棄てたのか、それとも、移り気なリベラルな若者たちがオバマに飽きたのか、いずれにせよ、このままでは彼の大統領在職期間は4年で終わる。それもまたそれで良いだろう。問題はそこから何を「学ぶ」か、だ。

さて、ブラック・アメリカの社会や政治を見つめてきておよそ20年が経つが、それにしても最近、とても気になることがある。というのは、人種問題が新聞で報道されることが近年とても少なくなってしまった。わたしは、どうやら最近はこれがオバマ当選の「副作用」だと思えて仕方がない。アメリカの政治もこの12年でずいぶんと変わった。

まあ、熱気は冷めたままでも地道にその微妙な機微を伝えていくことにするか…

2011年07月10日

黒人人口の変化(その1)——シカゴの黒人人口の「流出」が続く

先週7月3日の日曜日、拙訳の書評が朝日新聞に掲載されました。径書房でのお仕事は、わたしがまだ修士1年以来、実に16年ぶりになります。そのときは、マルコムXのアフォリズム集『マルコムXワールド』で、黒人史年表を書くという仕事でした(物を書くことで初めて収入を得たわたしにとっては一生忘れられないお仕事で、映画公開に併せた最後の追い込みは、やっていてとても楽しいお仕事でした)。同書を監修され、私を起用して下さったアメリカ文学者の佐藤良明先生も、ご自身のブログで批評とともに紹介してくださっているので、これらの内容について、いずれここで、まとめて語りたいと思います。

さて、今日は、かつてのこのブログの調子に戻ろうと思います(と、いうので文体変更)

この春頃からアメリカの新聞では黒人人口の北部都市離れが数多く報じられている。2010年国勢調査(センサス)の数値に基づいて政策が策定される時期に入ったのがその原因であるが、このような報道のなかには大都市が連邦政府から受けている助成金が大幅削減される水準にまで人口が落ち込んだデトロイトのケースなど、かなりショッキングな数値も多い。

南北戦争勃発以後、一貫して南部から北部へ、農村から都市へと動いていたアフリカン・アメリカンの人口は、1990年のセンサスで初めて「南部への回帰」とも思われる徴候が現れた。それから20年、黒人の人口動勢は、どうやらはっきりと北部から南部へ、都市中央部から郊外へと向きを変えたようだ。これはまさに「歴史的」と形容できる変化である。

このなかで、紹介したいのは、7月1日にAP通信が報じたニューヨークに関する記事と、7月2日に『ニューヨーク・タイムズ』が報じたシカゴに関する記事Black Chicagoans Fuel Growth of South Suburbsである。ここには、かつてさまざまなメディアに溢れたアメリカの都市の地景——たとえば、スパイク・リーの映画に出てくる混乱していても活気溢れるブラック・コミュニティであったり、「24時間犯罪現場密着追跡」のようなタイトルののぞき見主義丸出しのテレビの特番に描かれる黒人ゲトー——が急速に過去のものになっていっていることが現れている。

今回は、この二つのなかでも、より大きな動勢について書かれている『ニューヨーク・タイムズ』の記事について述べてみたい。

ファンクバンドのパーラメントは、1975年に、Chocolate Cityというタイトルのアルバムを発表した。このタイトル曲、Chocolate Cityは、アメリカの都市——わけてもこのアルバムにおいてはワシントンD・C——の有り様を、「チョコレート色の街とバニラ色の郊外」と表現し、チョコレート・シティで花開くファンク・ディスコ文化を賛美した。この色彩豊かな表現は、実のところ、アメリカの都市がデファクトの人種隔離状態にあったということを物語っていた。チョコレート色とは黒人の肌の色、バニラ色とは白人の肌の色を指す。

アメリカの都市、わけても北部・中西部の住宅の人種隔離に関する研究は多い(そのなかの優れた研究のいくつかは日本語の翻訳も出ている)。わけてもシカゴは、都市と黒人文化、そして黒人の社会政治運動に関心をもつ人びとの主な焦点になってきた。わたしがそこに住んでいた1990年代半ばも、おそらくその基本的構図は変わっていなかったと思う。たとえば、ループ地区の中心にあるデパート、メイシーズ(当時はマーシャル・フィールズ)の前にあるバス停に夕刻に立ち、バスに乗り込む人を見れば、それはよくわかった。北や北西に向かうバスに乗るのはほとんどがコーケージャン、対して南や西に向かうバスに乗るのはほとんどがアフリカ系だった。当時のわたしはサウスサイドの59丁目に住んでいたのだが、夜11時を過ぎると、南に向かって走ってくれるタクシーを捕まえるのに苦労したことも多い。学部学生当時にバンドを一緒にやっていた友人が遊びに来てくれたので、バディ・ガイが経営しているブルーズ小屋(Checker Board Lounge--当時はハイド・パークではなく、サウスサイドのど真ん中にあった)に行こうとして何台もタクシーに乗ったが、最終的に連れて行ってくれる運転手にめぐり遭うまでとても長い時間がかかり、さらにはそのブルーズ小屋から帰るのに電話で読んだタクシーを3時間(!)も待たなくてはならなかった。しかし、どうやらその構図に大きなとは言えなくとも、意義深い変化が現れているようだ。

シカゴ市の人口は、2000年から2010年までのあいだに、約20万人減少した。この減少した人口のうち、18万1千人が黒人である。この10年間のあいだに同市の黒人人口は、比率にして17%も減少したのだ。

『ニューヨーク・タイムズ』紙の報道によると、この人口流出を促した要因は二つ。ひとつは、日本でも予測できることではあるが、サブプライム住宅市場のクラッシュに伴う抵当物件差し押さえの増加。つまり、単純に言って、不況のため都市に住めなくなったという要因。そしていまひとつが、日本的環境ではまったく馴染みのないこと、低所得者向け高層公共住宅の取り壊しとそれに伴う住民の立ち退き(ちなみに、これはこの記事では触れられていないが、シカゴの2016年オリンピック立候補は、めずらしくループ北側の高級住宅地ゴールドコーストに隣接した地区に建設されていたカブリニ・グリーン・ホームズという「悪名高い」公共住宅を取り壊すことで可能になっていた)。低所得者という経済的階層は、この都市のなかにあっては、かなりの確率でアフリカ系を意味する。

この記事で描かれている図式は簡単に言うとこうなる。差し押さえ物件の増加と、それの低迷する住宅市場での売り出し(つまり住人のいない物件の増加)が、都市中央部(インナー・シティ)にあった中上流層向けの住宅地——2000年代初頭の住宅バブルのときに開発されていた——の魅力を乏しいものに変えた。これと同時に進行した公共住宅の取り壊しは、インナー・シティの「マイノリティが住む低所得者住宅地」にさらなる低所得者を「流入」させることになった。そこで生じたのが、マイノリティの中間層の郊外への「脱出」である。

シカゴ郊外のマッテソン Mattesonの街に、サウスサイド96丁目から引っ越してきたある人物は、こう語っている。「シカゴの市内には中間なんていうものはありません。デイレー[前]市長の政策は、ずっと噂されていたこと、つまり中間層の浸蝕政策というのがほんとうの姿だったのです。リッチになるか、プアになるか、そのいずれかだったのです」。

このようなアメリカ社会の実態は、ベストセラー『貧困大国アメリカ』でも詳述されていることであり、経済格差の拡大といったテーマ自体、今日となっては何の新規さもないものである。しかし、ここでこの記事をほんの少し詳しく見れば、ブラック・アメリカに生じていることの深層が垣間見ることができる。ほんの少し詳しくみよう、マッテソンの位置から。

イリノイ州の南、もしくはインディアナ州の側からシカゴに接近して行くと、シカゴ都市圏に入ったと思う特定の地点がある。それは、おそらく東西に走るI-80かI-94を越えて北に進んだときだ。これを越えると東西に伸びる通りの名前も急にシカゴ市中心部から続く連番が増えてくるし、ハイウェイも有料のものが現れてくる。道の両端が壁で仕切られ、場所によっては高架道になるなど、はっきりと都市に入ったとわかるようになる。しかし、マッテソンは、これより南に位置する。市民活動家だったバラク・オバマがその活動の拠点としていたアルゲルト・ガーデンズは、このマッテソンより北側、シカゴ市中心部とのほぼ中間あたり。つまり、ここは、郊外suburbというよりも、exurbや”outburb”というところに位置する。そのようなところで、黒人人口の増加率は85%に達し、19,000人の総人口のうち15,000人が黒人になった。他方、白人の人口は、4,000人から2,800人に減少しているのである。

この記事のなかで興味深いのが、移ってきた住民が、その理由に都市の荒廃をあげているところ。

ブラック・アメリカの歴史的経験を捨象して考えるならば、荒廃した居住環境を去るということに殊更不思議な点はない。しかしながら、郊外への居住が人種的偏見の壁に阻まれ、黒人がインナー・シティのゲトーに住まざるを得ないとき、彼ら彼女らにとって政治社会的に現実的な戦略は、都市の政治的権力を握ることだった。その戦略にしたがって大衆を動員するには、人種的アイデンティティを強める「ブラック・コンシャスネス」はきわめて重要だった。しかし、いまや都市の政治を握ることよりも、その地を去ることをインナー・シティの住民は選ぶことができ、現実にも選び始めたのである。

1987年、シカゴ最初の黒人市長、ハロルド・ワシントンが在職中に死去して以後、黒人がこの市の市長に当選したことはない。現職のリチャード・デイレーが出馬しなかった2011年2月の市長選では、黒人候補の当選が予測され期待されたが、「黒人の統一候補」を擁立するための話し合いも難航するなか、白人のラーム・エマニュエルが市長に当選した。この市にあって、ひとつの政治運動を形成できるほど強力な人種的紐帯は、もはや存在していない。

シカゴのこのような情況はおそらく全米の都市各地で起きていることだろう。そう考えてくると、2008年の大統領選挙で、オバマが黒人の96%もの支持を集めたという現象の方がむしろ奇異なものに思える。2012年、彼がここまで強く黒人有権者から支持される可能性は、それほど高くはない。

いささか古い言葉だが、スチュアート・ホールが〈人種〉について定義したつぎの言葉が響いてくる。

Race is a modality in which class is lived.

2011年09月13日

あれから10年…

昨日、「あの日から10年」関連のテレビ特集をみていてつくづく思った。

アメリカは確かに変わった、と私も思う。ところが、報道のトーンは、テロ直後の変化から、この10年間まるで何も変わっていなかったかのよう…

08年にもう一度変わった「はず」でした。しかし、「チェンジ」をもたらすはずだった、その期待を一身に集めた人は、相変わらず"[We are] E Pluribus unum, out of many, we are one"の「マントラ」を繰り返すばかり。正直、だんだんうんざりしてきた。

彼の当選は、経済環境が極めて悪いときに起きたと言う意味で、そして保守派の組織的「巻き返し」がその後隆盛を迎えたという意味で、73年のデトロイト市長選のコールマン・ヤングや、93年のニューヨーク市長選でのデイヴィッド・ディンキンズの当選とタイミングが良く似ている。しかし、否、だからこそ、もっと何かできただろう、と思う今日この頃。

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