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歴史 アーカイブ

2000年01月13日

大統領選挙で何が起きたのか?!

みなさんも2000年の大統領選挙での大騒ぎのことはご存じだろう。あの騒ぎが起きている最中、なんとアメリカはユーゴスラヴィアに「選挙監視団」を送っていたから大変である。これは一見笑える事態だが、実のところ笑える話ではない。なぜならそこに賭されているのは人権だからだ。

この騒動は、結局、事実上大統領選挙当選者を連邦最高裁が選ぶというとんでもないことになった。ここで法理論・憲法理論をこね回す必要はない。はっきりしていることは一つ。アメリカの主権は人民にあるのではなく、連邦最高裁にある、ということだ。民主主義とは何も難しいものではない。フェアな手続き、これこそが根幹であり、すべてはこれを基礎に判断されねばならない。ならば、投じられた票が、機械が古くて数えられない、そのうえなお2度目のカウントは行ってはならない、これがフェアな手続きを踏んでいると言えるのか。ユーゴスラヴィアに「監視団」なるものを送る余裕があるのならば、フロリダに「監視団」を送るべきだ。ミロシェビッチの首を狙って爆弾を落とし、その結果、セルビア人の虐殺に は何の関係もない市民を巻き添えにするというまずい軍事作戦をとるくらいならば、フェアな手続きを保証しようとしないフロリダ州知事、ジェブ・ブッシュの首をはねろ。(ちなみに、はっきりしておく、ジェブ・ブッシュは、今回の選挙の「勝者」、ジョージ・ブッシュ・ジュニアの弟である)。

連邦最高裁はこれまでもとんでもない判決を何度も出してきた。その多くが、そう、〈人種〉が関係した問題である。その過去のアホな判決に興味のある人は、ここをクリックしてもらいたい。ここでは今回の判決がどれだけアホなのかを簡単に纏める。

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2000年04月24日

Free, Al-Amin, Free!?

1.「60年代の黒人過激派逮捕」

1960年4月、ノース・カロライナ州グリーンズボロで黒人学生の4名が人種隔離されていたランチカウンターの白人専用席に坐り込んだ。この運動はすぐさま南部各地に飛び火し、同月中旬には南部だけで5万人が参加する大規模な黒人学生の自発的運動に成長していった。この学生たちの運動を一時だけの興奮に終わらぬようにと考えた黒人女性活動家のエラ・ベイカーは、同州の州都ラリーにある黒人大学、ショー大学で坐り込みに参加したもの、さらには将来運動に参加するのあるものを集めた集会を開いた。その集会の中から学生非暴力調整委員会(The Student Nonviolent Coordinating Committee, SNCCと略し"Snick"と発音する)が結成される。同団体は1965年の投票権法制定までは南部を拠点とした非暴力直接行動に従事し、その後1966年のロサンゼルス、ワッツ地区の大暴動が発生すると、運動の焦点を北部都市に移動、その過程で黒人のその後の運動にとてつもない影響を与えたスローガン、「ブラック・パワー」を唱えた。つねに公民権諸団体のもっともラディカルな声を代弁していたSNCCはよく「公民権運動の突撃隊」と呼ばれる。

しかしながら60年代中葉から黒人の運動は深刻な分裂状態に陥っていった。その理由には、(1)公民権法ならびに投票権法制定後の運動の明確な目標の欠如、(2)「ブラック・パワー」のスローガンをめぐる公民権諸団体の意見の食い違いが原因であった。この分裂状況をさらに悪化させたのが、連邦捜査局(FBI)による反政府団体の弾圧作戦、COINTELPROである。

COINTELPROによる弾圧の結果、SNCCは結局破壊されることになった。SNCCは「ブラック・パワー」の路線を明確にする一方、第3世界との連帯を訴えた。第3世界、その中には当時アメリカと壮絶な戦争を繰り広げていた北ベトナム、および南ベトナム解放戦線が含まれる。1971年5月10日、SNCCにスパイを送り込み、厳しい監視の下においていたFBIは、その報告書のなかで「過去一年間、SNCCはいかなる破壊活動にも従事していない」と判断する。しかしこれはSNCCが「反体制団体ではなくなった」とFBIが認めたのではなく、「もはや運動を組織する能力はない」と判断したことを意味していた。

1960年に誕生し、1971年に消え去る。この点においてSNCCは60年代プロパーな運動を表象するものである。概して歴史家は「ブラック・パワー」以前のSNCCに好意的な評価をし、「ブラック・パワー」以後のそれに対しては曖昧な、または否定的な評価を下している。

そのSNCCが2000年4月16日、結成の場所ショー大学で結成40年を記念し、SNCCの正と負の遺産を再評価、今後の黒人の運動の進むべき方向を語り合う非公式のセッションを開催すると発表した。しかしそのセッションには、アトランタで起きた事件が強い影を落としていた。

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2002年05月01日

アル=アミン事件(灰色の警官殺人事件)続報

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アル=アミン導師の警官殺害の廉での裁判は、ジョージア州司法省が死刑の求刑を決定したため、現在陪審員の決定が慎重になされている時点にある。ジョージア州法は、死刑求刑裁判には陪審員の決定に際し、とくに厳しい審査を要求しているからだ。

これまでアル=アミン導師の弁護団は、わたしが最初のエッセイにて指摘した警察発表の矛盾点に加え、銃弾で負傷した警官が犯人の目の色は青色だったと証言していることを、アル=アミン無罪の根拠としている。なぜならば、アル=アミン導師の目の色はブラウンだからだ。弁護団はあくまでもアル=アミンの無罪を主張し、司法当局との法廷外交渉を拒否、裁判で闘争う意志を表明している。実際の公判が始まれば(今年春の予定)、そのつどこのサイトで報道していきたい…。

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2004年06月14日

レーガン国葬

なぜか日本でもアメリカでもレーガンの葬儀に際し、彼を「持ち上げる」論調の報道が続いた。サダム・フセインに大量殺戮併記を売ったのは彼の政権のときであり、アメリカ経済を悩ませた「双子の赤字」は彼の時代に最大になっていた、等々といったことを指摘するのも少数に留まっていた。

先週末、スティーヴィー・ワンダーのコンサートなど、中止に追い込まれてものものある。いわばアメリカに住むもの全員が「喪に服す」ことを要求されていたようだ。

しかし、黒人向けのメディアは、彼が為したことを忘れてはいない。彼は、とにもかくにも、公民権運動家3名が殺害された街として有名なミシシッピ州フィラデルフィアーー映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった事件、なおFBIの大活躍を描いた同映画には、実際にFBIは死体捜索以外何もしなかったことを鑑み、当時の運動家から激しい批判が浴びせられたーーで大統領選遊説活動を開始した人間だ。しかも、それがどのような意味を持つのかをはっきりと意識しながら(黒人は共和党にとって必要ないということ)。

また「福祉の女王」Welfare Queenということばを創り、人種主義者と批判されるのを避けつつ、遠回りに黒人批判を行ったのも彼が最初である。

2004年06月18日

メイナード・ジャクソン

深南部初の黒人市長となったメイナード・ジャクソン(Maynard Jackson)元アトランタ市長が亡くなってから、6月23日で一年が経過することになる。この16日、そのジャクソンを讃えるランプがアトランタに建立された。

場所は、アトランタの随一の大通り、ピーチトゥリー・ストリートと、同市の黒人居住区の中心街、オーバン・アヴェニュー(故マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの生家が面している通り)の交差点。同市における黒人の政治力の伸張を物語るには絶好の地。

故ジャクソンがこのような「象徴」を喜んだかどうかは甚だ疑問だ。なぜならば、彼は、名だけの「黒人の進歩」よりも実質の生活の向上を目指した急進的黒人政治家として名を博していたからだ。

2004年07月02日

公民権法施行40周年記念

この7月2日で公民権法が施行されてちょうど40年が経った。ホワイト・ハウスではそのセレモニーがあった。

何と、死刑判決がくだされたのだが冤罪の可能性が高かった黒人、シャカ・サフォア(ゲイリー・グラハム)を電気椅子に送る書類にテキサス州知事として署名し、アメリカ合州国史上最多の人間を死刑に処したジョージ・W・ブッシュは、「平等を目指した運動はまだ終わってはいない、なぜならば邪な偏見を抱いたものはまだ残っているからだ」という公式声明を発表した。この人間は自分が何を言っていて、何をやっているのかわかっているのだろうか。

ちなみに、1988年に、黒人男性はレイプ犯というイメージを選挙宣伝で使い、白人票を集めたのは、彼の父、ジョージ・ブッシュ。

2004年08月30日

60年代以前に戻ったフロリダ

『ニューヨーク・タイムス』紙のコラムニスト、ボブ・ハーバートの報告によると、フロリダで投票権を行使した黒人市民に対する露骨な嫌がらせが開始されているらしい。

その発端となったのが、オランドー市市長選挙。黒人住民が、不正の不在者投票を行ったとして、州警察の捜査の対象となった。

ここで問題は3つある。

・フロリダ州は武装警官を動員し尋問を行っている。

・しかも、いきなり住民の自宅を訪ねている。フロリダ州の考えでは、家を訪ねた方がよりリラックスした雰囲気で取り調べができるそうだが、勘違いも甚だしい。60年代以前、黒人の投票権行使を「合法的」に防止するために、このような「嫌がらせ」は頻繁に行われた。しかも今回捜査の対象となっている黒人市民の多くは、60年代以前の南部を憶えている老齢者が多い。このような嫌がらせを受ければ、次に投票権を行使するには強い意志と勇気が必要となる

・フロリダ州当局は、『ニューヨーク・タイムス』紙に対し、オランドー市市長選挙の件の捜査は終了したという書状を出している。ならば現在行われている捜査は何のため?

なお、フロリダ州は、2000年大統領選挙で大規模な選挙権剥奪が起きたところ。その結果、ジョージ・W・ブッシュは大統領に「当選」した。

その州の行政の長、州知事は、ジョージ・W・ブッシュの弟、ジェブ・ブッシュ。

2004年11月10日

公民権運動とヒップホップ

20041110andy_young.jpg1960年代、キングの「右腕」として活躍したアンドリュー・ヤングが、『アトランタ・ジャーナル・コンスティチューション』に投稿した記事で、今回の選挙におけるヒップ・ホップ・アーティストの活動を大々的に評価。わけても、ラッセル・シモンズのHip Hop Team Vote Initiativeと、前にこのブログで伝えた、P Diddy CombsのCitizen Charge Campaign。

なお、政治的無関心が心配されていた黒人青年の投票率は、この大統領選挙で急上昇。18歳から29歳までの青年の半分が投票に赴いた。2000年と比較すると、実数にして、460万の増加。

このたびの結果の悔しさを胸に、2008年を待とう!

SCLC崩壊へ?

マーティン・ルーサー・キングが初代会長を務めた公民権団体、南部キリスト教指導者会議(SCLC)が崩壊の危機に瀕している。

同団体は、90年代以後、指導層の仲違い、団体資金の横領等々の問題が噴出していた。2003年に、その窮状を救うべく、アラバマ州バーミングハムでキングとともに大闘争を率いた人物、フレッド・シャトルスワース牧師を会長に迎えていた。

今回、最高意思決定機関である理事会が会長を更迭、それと同時に会長が理事を更迭するという事態が起き、団体の機能がまったく麻痺する状態に陥ってしまった。

『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』紙が報じているところによると、この情況に関する意見を問われ、キングの伝記を著しピュリッツァー賞を受賞した歴史家デイヴィッド・ギャローは「もはや解散した方が良い」と述べている

2004年11月29日

人種隔離憲法、改正できず

11月2日、大統領選挙に併せて、南部アラバマ州では、義務教育を規定すると同時に、人種別の教育を命令した州憲法を改正する住民投票が採択に付された。

わたしは、2004年においてもまだ人種隔離を命じた憲法が存在していることに驚いた。

さらに驚きは、投票の結果。

2000年大統領選挙、2004年大統領選挙よりずっと僅差ではあるが、1850票差で、改正の提案が否決されたのである。

提案に反対していた団体の長は、人種隔離の規定よりも、義務教育を規定したところに反対の力点を置く。これがあっては、連邦裁判所から教育予算の増額を命令され、ひいては増税につながるというものだ。

『ワシントン・ポスト』紙の記者、トマス・エドサルの著書に、アメリカにおいては、税金論議に「人種問題」が影響を与えていると指摘する。つまり、福祉や教育の充実など、増税につながりかねない支出の増加は、「黒人への支出」を意味するのである。

それでもひとつ事実は変わらない。アラバマ州憲法には未だに人種隔離教育を命じた条文が存在する。

2005年01月10日

ほんとうの「ミシシッピ・バーニング」ーー正義へ1歩前進

20050110mississippi_kkk.jpgついに公民権運動史上もっとも残忍な殺害事件の犯人に司直の手が及んだ!。

1964年、ミシシッピ州ネショバ郡で、有権者登録運動を推進していた人種平等会議(CORE)の活動家3人が、保安官に交通違反で逮捕された後、KKKに身柄を引き渡されリンチで殺害されるという事件が起きた。

この事件は映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった事件である。だがしかし、映画は肝腎なところで史実を誤って伝えた。否、公民権運動家が激怒するかたちに脚色したのである。

第一に、映画ではFBIが大活躍するが、これはまったく史実と反していた。公民権運動家やミシシッピ州の黒人は何度もFBIや司法省に保護を求めたのだが、拒否され続けた。その結果リンチ事件が起きたのである。

第二に、映画では、獅子奮闘するFBIが犯人を逮捕し起訴するのだが、これも史実とは異なっていた。3名を殺害したのにもかかわらず、有罪判決をうけたものはごくわずか、しかも殺人罪ではなく、公民権侵害で起訴され、六年以上の懲役に服したものはいない。

しかし、ミシシッピ州警察が、この度、この「悲劇」の解決に向かって大きな一歩を踏み出した。

三人をリンチしたKKKのリーダー、エドガー・レイ・キレン(Edgar Ray Killen)を殺人罪で逮捕、大陪審も起訴を決定したのである(なお60年代の捜査では、「陪審員全員が白人の大陪審」が審理し、不起訴処分に終わっていた)。

当時、ボランティアとして運動に参加していた黒人女性の大学生は、この事態の急転に関して、こう述べている。

「ありきたりのことだけど、こう叫んだわ、ついにやったのよ!って」。

さらに、リンチ事件が起きる日まで三人と行動を共にした公民権運動指導者のひとりで、現在も南部で活動に従事しているローレンス・ギヨーはこう述べる。

「生きてこの日を見てやる、そう祈っていきてきました。このために闘い続けてきたんですから。夢にさえみたくらいです。それがやっと現実になりました。これでミシシッピ州当局はこう断言したことになりますーーこの州において、二度と再び、政治的暗殺を許容することなどあってはならない」。

さらに同じく運動指導者のひとり、ヒーザー・トビアス・ブースはこう語る。

「これから得た教訓がありますかって?、それだったらこういうことです。正義を求める闘いはいまも続いている。団結すれば、歴史を変えることだってできる」。

ここにくるまで実に長い時間が経った。そのため、殺害された大学生の母親は80歳代になっている。それでも確かにミシシッピの歴史の大きな部分が書き換えられ、そうすることで歴史が変わった。

なお、キレン容疑者(左写真)は無罪を主張。さらに公判が行われた裁判所には、爆破予告さえあった。

だからこそ、もう一度このことばを胸に刻まねばならない。世界がこんなにも暗いからこそ。

「団結すれば、歴史を変えることだってできる」

ミシシッピ公民権運動を鼓舞したゴスペルにこんな節がある。

This little light of mine, I'm gonna let it shine, let it shine, let it shine, let it shine!

*遅れましたが、あけましておめでとうございます。今年も頑張ります。*

2005年01月14日

ジェイムス・フォアマン死去

20050114forman.jpg学生非暴力調整委員会の執行委員長として、1960年代に公民権運動の指導層として活躍したジェイムス・フォアマンが、結腸癌のために死去した。享年76。

学生非暴力調整委員会がブラック・パワーをスローガンとしたとき、委員長を務めていたのが彼だ。

ひとつどうしても気になることがある。ミシシッピで殺害された彼の同志3人の犯人が逮捕・起訴されたニュースは、彼に届いただろうか?

2005年02月21日

マルコムX暗殺から40年

この2月21日で、マルコムXが暗殺されてから40年が経過した。

彼が凶弾に倒れた場所、オーデュボン・ボールルームは、来る5月19日、彼の誕生日にーーもし今も生きていたら、90歳になっているーーMalcolm X and Dr. Betty Shabazz Memorial and Education Centerとして、彼の業績を讃える教育施設に変わるらしい。

2005年05月02日

ケネス・クラーク逝去

20050502kenneth_clark.jpgアメリカの人種隔離政策(アメリカ版アパルトヘイト)segregationを違憲とする判決、ブラウン判決を引き出すにあたって極めて協力な「科学的証拠」を提供した臨床心理学者ケネス・クラークが亡くなった。享年90.

彼については、拙訳ナット・ヘントフ『アメリカ、自由の名のもとに』にヘントフの筆による長文のエッセイが掲載されている。

彼の業績のなかで有名なのが「ドール・テスト」。黒人と白人の人形を黒人に選ばせ、黒人の美的感覚が人種隔離制度のためにいかに歪められているのかを「立証」した(心理学的には、しかし、この結論には多くの反論があった)。

これで、公民権運動を担い、先頭に立った人の多くがもうこの世にいなくなってしまった。思いつくのは、彼より1世代若い、ブラック・パンサー党幹部、ボビー・シール、キャスリーン・クリーヴァー、イレーン・ブラウンくらいか…。

一方、公民権運動が目的としたものは達成されていない。それはおろか、一度は勝ち取った成果さえも、新保守主義、ネオ・リベラル、ネオコンと続いた過去四半世紀の歴史のなかで、ほぼ転覆されてしまっている。

2005年10月31日

ローザ・パークス告別式

20051031rosa_parks.jpg50年前にバスの人種隔離に挑んだ女性ローザ・パークスが先日亡くなった。

訃報を告げる新聞各紙は、彼女が「最初に」白人に席を譲るのを拒否した、と説明していたが、史実はこれとは異なる。彼女が、そうしたほんの少し前、場所も同じアラバマ州モントゴメリーでは、クローデット・コルヴィンという名の女性がまったく同じことをしていた。

しかし、歴史の流れのなかで「公民権運動の母」と呼ばれるまでになった彼女の最後の告別式が、この度、ワシントンD・Cの連邦議会議事堂で開催されることになった。政治家や軍人ではなく一般市民の葬儀がここで行われるのは、これが正真正銘史上初めてである。

葬儀のために、パークス夫人の亡骸はボルチモア国際空港から首都に入る。この空港は、現在、サーグッド・マーシャル空港と呼ばれている。サーグッド・マーシャルとは、モントゴメリーバス・バス・ボイコットよりも法制面での衝撃が大きかった、人種隔離を違憲とする判決を闘った黒人弁護士で黒人初の連邦最高裁判事の名前である。

その空港から運ばれた棺への最後のお別れの式、現地時間月曜日の7時から10時まで。

「国のための貢献」が讃えられるという。

ずいぶんと暗いニュースが多いなか、これはある意味で嬉しいニュースだ。「愛国心」を示すにはいろいろな方法があるということ、それを公的に認めてくれたのだから。

ローザ・パークス夫人は、人種隔離条例という法律違反を行った。それで讃えられることになった。つまり、時には、政府が定めた法律に逆らうことが愛国心の表現になるのである。

2006年02月02日

Afrcian American Museumの建設地決定

1990年代よりブラック・コミュニティの懸案のひとつであった、国立のアフリカン・アメリカン・ミュージアムの建設地が決まった。

首都ワシントンにあるワシントン記念堂の北東、5エーカーの土地が建設予定地になった。この決定の過程には、しかし、先日ここで紹介したキング・ホリデイに似た構図の政治対立があった。

同ミュージアムの建設に反対したのは、90年代の共和党保守派の代表格二人。ひとりは上院外交委員長を務めたノース・カロライナのタバコ王、ジェシー・ヘルムス。もう一人は、ジョージ・H・W・ブッシュ、現大統領の父親である。

ジェシー・ヘルムスは、アフリカン・アメリカンに「だけ」、特別の施設を建設することは、「逆差別」だとする論陣を張った。パパ・ブッシュは、コストがかかりすぎる、と語った(つい最近、そういえば、現大統領もコストを口にしていた…)。

ところが、特定の民族に対するものならば、ホロコースト・ミュージアムというものが、ホロコーストがアメリカで起きたことではないにもかかわらず、その時点ですでに存在していた。そしてもちろん、パパ・ブッシュも、軍事費には湯水のように税金を費やした。

幸運にもその後、クリントン政権期にミュージアム建設が決定されたのだが、ここで問題は建設場所の選定になった。建設推進派は、アメリカの歴史を語るのにふさわしい場所、つまりワシントンのモール内部に建設することを望んだ。反対派は、ここに至って、モールの景観を破壊する、と環境問題を引っ張り出してきた。

よって、建設を推進してきたアフリカン・アメリカンが今回「勝利」したことになる。

だが、そう断ずるのは早計に過ぎる。ブッシュ政権はマイノリティを象徴的に利用するのに長けている。実質的にはマイノリティを切り捨て、目立つ一部をさらに誇示させるのが得意だ。

大統領は、一般教書演説の冒頭で、コレッタ・スコット・キングの逝去にあたり、キング家ならびに国民に弔意を表し、「キング夫妻の非暴力の運動の尊さ」を語った。その直後の10分間、彼は「自由のための戦争」を断乎として推進すると宣言した。キングがこう語ったとき「戦争」は比喩なのだが、ブッシュのそれは、もちろん、文字通りの戦争である。

彼のスピーチライターは矛盾に気がつかないのだろうか。それとも、わたしたちはすでにオーウェル的世界に住んで久しく、これは単なる「ダブル・トーク」に過ぎないのだろうか。

2006年03月03日

ブラック・パンサー〜ギャングか、それとも革命的政治組織か?

20060303fredhumpton久しぶりにシカゴの新聞に、ブラック・パンサー党、そしてそのシカゴ支部議長、フレッド・ハンプトンーー創設者ヒューイ・ニュートンと並ぶカリスマ的指導者ーーが登場した。

ハーレムやロサンゼルスのサウス・セントラルとならぶ黒人居住地区、シカゴ・サウスサイド第2区選出の市会議員、マデリーン・ヘイスコックがこの度、かつてフレッド・ハンプトンが住み、60年代後半には多くのパンサー党支部のなかでも最大級の勢力を持った同市の支部本部として使われたアパートのある通りを、「フレッド・ハンプトン議長通り」にするという議案を議会に提出した。これが、大きな波紋を呼んでいる。

まず大きな反論の声を上げたのは、警察官の労働組合。

ブラック・パンサー党は、そもそも「自衛のためのブラック・パンサー党 the Black Panther Party for Self-Defense」と名乗り、警官が黒人市民に加える不当な暴力ーー1990年のロドニーキング事件を思い浮かべてほしいーーを「武装」という手段で「自衛」するのを目的として創設された。黒いベレー、上下黒のレザージャケット、脇に抱えたショットガンの姿は、多くの者を惹きつけた。しかし、それは、警察官にしてみれば、強烈な憎悪と恐怖の的になった。

したがって、彼ら彼女らにとっては、未だにブラック・パンサー党といえば、「政治を盾に使ってはいたが、ほんとうの姿はギャング」に過ぎない。このイメージはいまも存在しているし、また、ブラック・パンサー党の活動が「犯罪」と見なされることを多く含んでいたことを考えると、ある意味においては正鵠を射た見解かもしれない。

他方、暴動のみならず、警官さえ敵であった(である)黒人コミュニティからしてみれば、ブラック・パンサー党の活動は単にギャングの行動として片付けられるものではない。貧困家庭のために無料の朝食を配布、警官から過度の暴行を受けたものを裁判で弁護、そして何よりも「政治家された勇気」を与えたのである。つまり、この点からみれば、ブラック・パンサー党とは「ギャングだったものたちがしっかりと目的を持ち、政治化した団体」ということになる。

簡単に言えば、こうだ。ブラック・パンサー党の史的意味は、警官にとっては「しょせんギャング」、黒人コミュニティ(パンサー用語で言えば、ブラック・ゲトー)の住民にしてみれば「それでも革命的政治組織」。ハンプトンの同志で、現在はシカゴ地区選出の連邦下院議員をしているボビー・ラッシュはこう語っている。パンサー党は「黒人コミュニティの丸腰の個人を勝手気ままに殺害する警察に対する自己防衛、それを象徴しているのです」。

フレッド・ハンプトンのアパートは、実は、パンサーをめぐる解釈学のもっとも熱い場である。60年代後半、FBIは、黒人の政治活動家の私生活を監視し、私生活を破壊することで運動を破壊しようとした。今日、そのCOINTELPROと呼ばれる作戦の資料の多くが公開されている。ハンプトンは、そのCOINTELPROのもっとも悪名高い作戦の一つで殺害された。ベッドに寝ているところを襲撃され、殺害されたのである。(この作戦の指揮官であったクック郡地方検事は、その後起訴され、職を追われることになった。筆者は、この事件の関係者に直接インタービューしたことがあるーー詳細は筆者のウェブサイトを参照)。そのような場に焦点が当たったのだから、論争を呼ぶのも無理はない。

シカゴ市会には、議員たちが、自分の地盤の名士の名前を土地の名前にすることで、象徴的に政治力を誇示してきた歴史がある。これは、そのような政治行為ーーもっと言えば、選挙対策ーーのひとつとも考えられ、ヘイスコックがパンサー党の大義や活動を深く理解し支持しているということを必ずしも意味しないだろう。しかし、これだけは確かである、パンサー党の史的意義を論じようとすると、それは必ず政治化する。

ちなみに、『プレイボーイ』誌の創刊者、ヒュー・へフナーの名前を土地の名前になりそうになったが、当然、女性運動から猛烈に反対されて実現しなかった。パンサー党の意味がひとによって大きく異なる、それはこのケースと同じである。

この意味対立・価値対立の本質を見極め、対立の彼方に史的意義をみなくてはならない。ギャングか革命的政治組織か、それは永遠に決まり得ないだろう。

2007年05月11日

公民権運動と「白人」

5月6日づけの『ワシントン・ポスト』紙によると、1961年に行われた運動、「フリーダム・ライド」の参加者たちの「同窓会」が開催され、運動参加者たちが当時の体験談を語ったパネルの模様を伝えている。この記事は、その後「黒人指導者」や政治家として運動家としてのキャリアを進んでいったものたちと較べた上で、この会合に集まった人びとのことを、「褒め称えが足らない英雄たち」"Unsung Heroes"と形容している。わたしも、ここ数年間、幾度かこのような運動家たちの「同窓会」に参加する機会を得、そこでさまざまな人びとに出会ってきたが、アメリカ史上最大級の大衆運動である公民権運動の支柱になったものたちは、まさにこのよう"Unsung Heroes"たちに他ならない。

この記事が、そのような「英雄たち」の中でも、光をあてているのが、南部生まれの白人たちである。公民権運動といって多くの人びとが連想する光景は、非暴力デモ隊に襲いかかる警察犬や高圧放水である。そこでは黒人と白人は対立するもの、憎しみあっていたものとして描かれている。しかし、運動の現実は、それとは大きく異なった。

それは、60年代前半期の非暴力運動にかぎられたことではない。たとえば、しばしばブラック・ナショナリスト団体として形容されることが多いブラック・パンサー党にしてみても、彼ら彼女らの周りにはニューレフトの白人活動家がいつも存在していたし、そもそも同党の結党メンバーのひとりは、リチャード・アオキという日系人である。

60年代の運動の力学は、保守対リベラル、白人対黒人、南部対北部といった対項では把握することはまったく不可能であるし、これまでの研究のなかでも、アオキの件を除けば、このような事実はもちろん触れられてきている。しかし、やはりなぜか研究者はこの対項を知らず知らずのうちに用いてしまう傾向がある。この領域の研究にに必要なのは、そうならない別種のボキャブラリーであろう。

2007年05月12日

42年後の訴追とTruth Commission

20070512selma.jpg
私がシカゴにいた頃、Ghost of Mississippiという映画が公開された。その映画は、1963年にミシシッピで起きた公民権運動指導者の暗殺事件の犯人を、アレック・ボールドウィン扮する地方検事が歴史家たちとともに特定して起訴、有罪判決を導くというものだった。そして、それは史実に立脚している。

その後、アメリカ中にショックを与えたバーミングハム市の教会爆破事件(3名の少女が犠牲になった)の犯人、そして映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった1964年の公民権運動家3名の殺害者等々、1960年に起きた夥しい暴力事件の加害者の訴追が続いている。今度は、1965年投票権法の制定に向けて巨大な圧力を形成することに資した「セルマ=モントゴメリー行進」のきっかけとなった事件、「ジェイムス・リー・ジャクソン殺害事件」の犯人が起訴されることになった。既述の件と同様に、この度も、起訴された人物は、自分が殺害を行ったということを認めている。起訴された人物は、73歳の退役アラバマ州兵。その人物は、さて、どのような主張をしているのだろうか?

その人物は、アラバマ州セルマでの運動が、キング牧師の参加もあってかつてない激しさになるなか、治安維持のため(運動家からすれば、運動弾圧のため)に派遣された州兵だった。デモ隊との激しい衝突のなか、彼はジェイムス・リー・ジャクソンを撃ち殺した。

その人物は、ジャクソンが「銃をつかもうとしたので、自衛として撃ち殺した」、「あのときの感情的な情況下で、もし彼が私の銃を握ったならば、私の方が撃ち殺されていた」と主張してる(写真が示しているのは、この事件の現場ではない、これはこの時の運動の中の一シーンを捉えたものである)。また、彼の弁護人は、このケースはバーミングハム市の教会爆破事件とは異なると主張する。バーミングハムの件で極悪犯罪を犯した人物は、その意図をもって行った、しかし、このケースでは、起訴された人物は州知事によって「派遣された」に過ぎないという論陣を張っている。

私は、実のところ、この弁護人の主張に限定的ながらも同意せざるを得ない。

キング牧師の夫人、コレッタ・スコット・キングが存命中のこと、彼女は、公民権運動時代に起きた「悲劇」を乗り越えて人びとが「和解」するために、「真実委員会」Truth Commissionを設立することを主張していた。なぜならば、キング牧師暗殺事件が、暗い闇のなかに閉ざされ、政府の陰謀説だの、マフィアの陰謀説だの、真実が何だったのかわからなくなっているからである。(逮捕された犯人は、裁判の最終的局面ならびに獄中で、キングを殺害したという自白は嘘であると述べていた。その主張を聞き、キング家は再審を要求したのだが、結局、一度有罪となった「犯人」は獄中で亡くなった)。

Truth Commissionとは、「部族間」で夥しい「政治的暴力」が起きた南アフリカにおいて、ネルソン・マンデラが設立した委員会のことである。この委員会は、アパルトヘイト時代の憎しみを乗り越えることを目的に、真実を語ったものには恩赦を与え、犠牲者と加害者との対話を促し、ポスト・アパルトヘイトの時代の南アの建設を目指したものである。

私は、コレッタ・キングと同じく、通常の刑事裁判ではなく、特別な委員会を設置するべきだと思わざるを得ない。問われているのは人種間憎悪の歴史の重みであり、ひとりまたひとりと「犯人」を追い詰めることでその重みは軽くはならないと感じるからだ。

Ghost of Mississippiの最後のシーン、裁判映画ではよくあることだが、"guilty"という判決がくだったとき、検察官とウーピー・ゴールドバーグ扮する殺害された公民権指導者夫人、裁判所に詰めかけたギャラリーは抱き合って喜んだ。私は、シカゴ・サウスサイドでその映画を観たのだが、オーディエンスのなかからは「笑い声」が聞こえた。その笑い声は、「有罪」と「真実」との懸隔を示すように思える。

2007年05月13日

ムミア・アブ=ジャマル再審要求運動

パリには、1970年代のフィラデルフィアで活動していたひとりブラック・パンサー党員の名前に因んだ、「ムミア・アブ=ジャマル通り」というストリートがある。ブラック・パンサー党は昨年の10月で結党40周年を迎えた。同党は現存してはいないものの、多くのひとびとはその後も市民運動や言論活動に従事しており、10年ほど前に最初の「同窓会」が開催されて以後、各地でさまざまなリユニオンが行われている。私は、そのなかのいくつかに参加したのであるが、昨年の「同窓会」では、60年代後半に激化した政府や地方官憲による弾圧を物語るさまざまな演説が行われ、この時期の運動がいかに激烈なものであったのかがまざまざと伝えられた。ほぼ6時間に及んだそのセッションのなかで、ムミア・アブ=ジャマルも演壇に立った。しかし、彼の声は、小さなラジカセのスピーカーを通じて伝えられた。なぜならば、彼は、いまフィラデルフィアの監獄にいるからである。(この件については、過去にもこのブログで記事を書いている)

1982年、フィラデルフィアで白人の警官殺害事件で彼は逮捕され、その後死刑判決がくだされた。死刑の不当性や冤罪に関しては、このブログのほかのエントリーやサイトのエッセイで伝えてきたものの、この訴訟を異常なものにしているのは、その後犯人が名乗り出てきたのにもかかわらず、彼の死刑判決が破棄されることはなく、今日も死刑囚棟に収監されているといことである。この裁判は、アムネスティ・インターナショナルなどの人権団体も関心をもち、同団体は「公正な裁判上の手続きに関する国際基準の最低限度の規定すらも侵犯したもの」と告発し、パリに彼の名前を冠した通りがあるのは、彼が「政治犯」として国際的シンボルになっているからである。彼が「政治犯」だと言うのは、逮捕された時点での彼がフィラデルフィアのローカル局で「警官暴力」ーーブラック・パンサー党が格闘した問題で最大のものーーに対し活発に発言するDJであったからだ。

同じ頃の同じ場所を舞台にした冤罪事件を扱った映画『ハリケーン』、そしてデンゼル・ワシントン扮する主人公ルービン・ハリケーン・カーターの自伝Hurricaneが物語っているように、当時のフィラデルフィアにおいて、社会的・政治的偏見の対象となった人物が、公正な裁判を受けられたのかには当然疑問が残る(ルービン・ハリケーン・カーターの件は、日本での袴田厳の裁判を思い出さずにはいられない。そのうえでもなお、アブ=ジャマルのケースの不当さを強調せずにはいられないのは、自分が犯人だと名乗り出た人物に関する証拠が、裁判では証拠として認められないという事態が起きているからだ。

20070513mumiaパンサー党結成40周年「同窓会」には、黒人・白人・アジア系・ラティーノの多くのムミア支援運動に参加している者も集っていた。そしてこの4月24日、アブ=ジャマルの誕生日にあわせ、全米各地で集会が開催された。もちろんフィラデルフィアがその運動の中心地になったのであるが、同地での集会では、警官の労働組合が公正な裁判を要求する運動に「反対する」集会を同時に開催し、両者が連邦巡回控訴裁判所の前で対峙するという事態にも発展したらしい。ここですぐに付け加えておかなくてはならないのは、アブ=ジャマルの支持者のなかにも警察官が含まれていとうことであり、その警察官たちはそもそもアブ=ジャマルが格闘していた問題「警官暴力」に対しても、警察組織の内部で闘っているということである。そして、彼ら彼女らが求めているのは、釈放ではなくただ単に公正な再審に過ぎないのである。

ムミア・アブ=ジャマル国際支援者の会のコーディネーターをやっている快活な黒人女性パム・アフリカはこう語っている。「ムミアは無罪だと信じていますし、個人的意見を述べると、即時の釈放を要求したいところです。だけど、裁判における公正さを求める人びととならば誰とでも一緒に運動をします」。5月17日には、おそらく最後の機会となるであろう彼の弁護団による口頭での主張の審理が行われる。ここにきて支援運動が活発化しているのは、それ以後のこのケースの審理が続く可能性が低く、したがってアブ=ジャマルの死刑が確定してしまいかねないからだ。

パム・アフリカはさらにこう続ける。「ムミアはいまもまだ死刑執行される危険に直面しています。なぜならば連邦最高裁が彼のケースを審理する可能性は低いですし、現実的に考えて、これが彼のケースが審理される最後のチャンスになるからです。抑圧者に屈服したり、卑屈な態度をとることを拒否した黒人の革命家がまたひとり殺されようとしている、そのことを理解してほしいと思います。彼のケースは、この体制の悪の象徴です。遅きに失しないためにも、行動を起こすのはいまなのです」。

さて、上の話からは若干逸脱するが、アブ=ジャマルのケースは、死刑の問題や不当な裁判の問題、つまり冤罪問題一般を表すとともに、「言論の弾圧」の問題としても認識されている。彼は警察を批判し、その警察に逮捕されたのだから。そのような彼が好んだことばのひとつが、19世紀の奴隷解放運動指導者フレデリック・ダグラスのことば、「暴君がおそれるのは言論の自由である」だ。日本で可決されるのがほぼ決定的になった国民投票法では、「教員・公務員」から「言論の自由」が奪われる可能性がある。投票が公示された後に、「教員・公務員」は、その「地位」を利用して発言することは許されない。つまり憲法学者が憲法学者として意見を述べることが違法とされる(これは医者に対し、手術前の診察を禁止する、というのと同じひどい規定だ)。さて、われわれの社会は、何を恐れ、いったいどこに向かっているのだろうか?。

2007年06月04日

ヒップホップ界の政治的意見の多様さを紹介します

さて、下の記事では、50セントの意見を紹介しながら、「奇妙に、そしてそれでもしっかり正鵠を射たものに私には聞こえる」と述べた。しかし、何も彼の声がヒップホップ界を象徴しているわけではない。他のさまざまな世界と同じく、この世界にも多様さが存在する。今日は、そのような意見のひとつを紹介したい。N-word の使用に対して、「今こそヒップホップ界が変わるときである」と主張しているものがいる。

Master P は、ウェブサイト AllHIpHop.com に、50セントの見解に触発されて、それを論駁する記事を書いた。そこで、彼は自分の意見が50セントのものとどう違うのかを、極めて明瞭に書き記している。

・自分は社会問題の写し絵ではなく、問題の一部なのだ、それを認める。
・息子には自分の失敗を繰り返して欲しくない。自分よりも善良な人物になり、より素晴らしい仕事をしてもらいったい。そう言っているからこそ、息子はいま勉学に励んでいる、それを応援したい。
・自分のゴールとは、継承できる資産を蓄え、不動産をもつことがどれだけ重要なのか、それを我らの同胞に教育することにある。
・ほんもののエンターテイナーであるからこそ、自分のボスは、レコード会社の重役ではなく、神なのである。だから、いまは問題の一部であることを止め、解決策のひとつになろうとしているのだ。エンターテイメント関係のメディアが欲しているのは、ネガティヴなニュース。それに惑わされていたら負けることになる。

こう語る彼は、シャキール・オニール、ウィル・スミス、ラッセル・シモンズ、クィーン・ラティファ、チャールズ・バークレー、ビヨンセなどに声をかけ、積極的な方向でエンターテイメント界を動員することを考えている、と言う。ギャングスタ・ラッパーに現在の行状を改めろとは言わない、それが彼ら彼女らの飯の種だから。しかし、他にも途があるのだというのを示したい、そう彼は主張している。NAACPなども動員しつつ、現在のポップカルチャーの問題を議論しようというのだ。

このような議論の対立は、黒人史では有名な「デュボイス対ワシントン論争」、はたまた「デュボイス対マーカス・ガーヴィ論争」をも思わせる。そういう意味において、これは歴史を通じて流れる豊かな知的対話である。

そして、アメリカ時間で6月3日の日曜日、デトロイトでこの問題を論じる大会を、NAACPは開催することになっている。

2007年06月08日

投票権法制定の功労者逝去

&t20070608jim_clark.jpg6月7日付けの『ニューヨーク・タイムズ』紙は、1965年に可決され、黒人の投票権を連邦政府が保障することで南部、ひいてはアメリカ政治の近く変動を起こした投票権法制定にあたり、多大な功績を成した人物が逝去したと、いささか斜に構えた訃報を掲載した。亡くなった人物は、アラバマ州セルマのジム・クラーク保安官(当時)。一般的に彼は白人優越主義者で、公民権運動家を人間とは思わず、凄まじい暴力を奮った人物としてしられている。私が「斜に構えた訃報」という所以はここにある。

しかしながら、ジム・クラークに対する評価として、これはかなり広く言われているものでもある。私が知っているかぎりでは、64年公民権法制定にあたって、公民権活動家に警察犬をけしかけたり、高圧放水を浴びせたりで対抗した同じく白人優越主義者の警察署長、バーミングハム市のブル・コナーに対して、「公民権法制定の功労者」という形容をしたのはロバート・ケネディであり、『ニューヨーク・タイムズ』の記事はその変奏にあたる。

では実際、ジム・クラークは何をしたのだろうか。もっとも有名なのは、1965年3月7日、投票権法制定を求めてセルマからモントゴメリーまでの行進を開始した公民権運動家を強力で弾圧したことであろう。この事件は、「血の日曜日事件」として知られている。この事件の報道が全国ネットで流されていたとき、あるネットワーク局は、ニュンルンベルグにおけるナチス戦犯の裁判の記録映画を放送していた。もちろん、その映画にはナチによるユダヤ人虐殺の模様も含まれている。ところが、セルマでの激しい衝突が起きたために局はこの放映を一部中断し、南部からの映像を伝えた。そうして、ナチに匹敵しかけない残虐性がアメリカ南部に存在しているということが、その局の意図ではなくても、一般視聴者に伝わっていった。(「血の日曜日事件」以前、実際に彼は、牧師で公民権運動家のC・T・ヴィヴィアンに「ヒトラー」と罵られてカッとして、ヴィヴィアン師を殴打、手の甲の骨を骨折したこともあった)。

公民権運動家(そのなかにはキング牧師も含まれる)は、そこで、全米に向かって「良心への訴え」というコールを発表し、セルマ=モントゴメリー間の行進を再度実行に移すので、それに参加するように呼びかけた。このような運動の盛り上がり、そして公民権運動に対するシンパシーの高まりを受け、リンドン・ジョンソン大統領は、当初は彼の政策日程にはまったくなかった新公民権法(投票権法)の議会上程を決意する。テレビで放送された演説で法案の趣旨説明を行ったジョンソン大統領は、演説の最後を公民権運動のスローガン、「我ら打ち勝たん」 We Shall Overcome" Martin Luther King - The Wisdom of Martin Luther King - We Shall Overcome で締め括った。それを観ていたキング牧師の頬には涙がつたったと言われている。このような劇的な運動に関し、キングの伝記でピュリッツァー賞を受賞することになる公民権運動史家デイヴィッド・ギャローは、「公民権運動中もっとも統率がとれ、もっとも効果的だったものだった」と評価している。

この投票権法によって、セルマでは公選の職である保安官だったクラークの「政治生命」は絶たれた。黒人有権者数の急増の結果、1966年の選挙で落選すると、可動式住宅(映画『8マイルズ』でエミネムが住んでいるキャンピングカー式の住宅)のセールスマンとなり、1978年にはマリファナを販売したとして逮捕され9か月の懲役に服さねばならなくなった。裕福や幸福さからはほど遠い生活を送っていくことになったことが、ここからは窺える。

60年代当時、ジム・クラークのような人物は決して少なくはなかった。例えば、アラバマ州知事であったジョージ・ウォーレスも、セルマに運動家弾圧のために州兵を派遣する決定をくだしていた。ところが、その後のウォーレスが良心の呵責にさいなまれ、「血の日曜日事件」の時に頭蓋骨骨折の重傷を負った活動家で現在は連邦下院議員(ジョージア州選出)をしているジョン・ルイスなどを自らの自宅に招待し、公式に謝罪し赦しを請うたのに対し、クラークはまったく変化しなかった。昨年、アラバマの地方紙のインタビューに答え、彼は、当時の場面にいまもう一度立ったとしても「基本的にまったく同じ命令をくだす」と明言している。

ジム・クラーク、享年84歳。彼のような人物のことを英語では unreconstructed と形容するが、そのような人物が逝去した。過去に残虐な行為を犯しておきながら、「敗北」が決まるとその途端、そのような行為への加担を否定したり言い訳をしたりするものは多い。ウォーレスのように改心するもの、クラークのように頑迷さを突き進むもの、それらよりかかる類型の人物の方がおそらくは多数であろう。例えば、日本が行ったアジアへの侵略行為、それとまともに立ち向かわず、政治的情況次第で発言を変える人間は老若を問わず現在激増中である。またリベラル派の respectable な政権を含めて、アジア太平洋戦争で日本の民間人を標的にした空爆や原爆投下を謝罪した大統領はいない。それを考えると、彼の死は、どこか寂しい感じすら受ける。

そう言えば、マルコムXは言っていた。白人優越主義者は批判しつつ己の人種主義的行為は顧みない北部のリベラルの偽善より、南部白人優越主義者の頑迷さの方が、実直さという面において道義上優れている、と。

2007年06月13日

KKKのメンバーがまた訴追ーー遅すぎた正義2

『ワシントン・ポスト』が報じるところによると、1960年代の南部で黒人を殺害した白人優越主義者がまた起訴されたらしい。今度のケースは、1964年5月2日(ミシシッピで最大級の公民権運動が開始される夏の直前)に起きた黒人2名の拉致殺害事件であり、当時は、起訴されなかったものである。

この殺害に関与したものはミシシッピ州メドヴィル近辺で活動していたKKKのメンバーたちであり、1966年に下院非米活動委員会に召喚されて証言を求められたのであるが、そのときには「自己に不利益な証言の強制」を禁じた憲法修正第5条に則り証言を拒否していた(同時代のミシシッピ州における極右組織の活動については、右の日本人研究者による著作が詳しい)。

しかし今度の証言は、殺人事件を裁く法廷で行われることになった。そして、このときのKKKのひとりのメンバーが法廷取引を行い検察側の証人として、実際に殺害を行ったものに対して証言することになった。この証言を行ったものは、KKKには「闘うクリスチャンの誓い」というのがあり、それは外部のいかなるものに対しても、組織のことを漏らさないということであった。

snitchということばで警察の捜査に協力することを拒むヒップホップのサブカルチャーが批判されることがある(日本語に翻訳するとsnitchは「ちくる」だろうか?)。また国際テロリスト組織やマフィアの「掟」も悪名高い。どうやら、しかし、そのような文化は、ある特定の文化に固有のものではなく、普遍的にみられるものだと考えた方が良いであろう。

ちなみに、被告人はすでに71歳。有罪が確定すると、最大で終身刑に服さねばならなくなる。

このところ、同様な事件での連邦司法省の「活躍」には目を見張るものがある。しかしながら、それを別の視点から見ると、60年代の訴追がいかに「おざなり」のものであったのかもわかるのである。なぜならば起訴し有罪を勝ち取る十分な証拠があったのだから。いまの司法省の活躍をみるにつけ、私には、何故、この1964年を境に黒人青年たちが急進化していったのか、アメリカン・リベラリズムに「幻滅」を感じたのかが改めてわかってきた。ここでの正義もあまりにも訪れるのが遅すぎた。そういうとあまりにも斜に構えすぎだろうか…。

2007年07月15日

全国黒人向上協会全国大会にて──その1

20070715julian_bond.jpg先週末より、デトロイトで、全国黒人向上協会 (NAACP) の全国大会が開催されている。トルーマン大統領よりはじまり、かつては大統領やその特使が参加するのが恒例であったが、それも2001年にブッシュ大統領が拒否して以来、今年もホワイト・ハウス関係者の存在はなかった。

その2001年、現会長で元学生非暴力調整委員会の運動家だったジュリアン・ボンドは、「ブッシュ政権は共和党のタリバン派(キリスト教原理主義者たち、狂信的右派の意味)と名指しで批判した。ところが、9・11直後のアメリカ社会の右傾化と、2004年大統領選挙の結果や国税庁による特別捜査の開始などを受け、公民権運動との関係のない実業界から執行委員長を選ぶなど、一時期はブッシュの方針に妥協するかのような姿勢をみせた同団体も、昨年の民主党の躍進、そしてブッシュへの支持率の低迷を受け、再度ボンドは、現職大統領への猛烈な批判を開始した。

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2007年07月20日

ニューアークの政治 ── 変化する〈人種〉の意味

日本でも名前が知られてきたバラク・オバマと経歴が良く似ている人物として、このブログでニューアーク市のコーリー・ブッカーのことを以前紹介したことがある。『ニューヨーク・タイムズ』紙が伝えているところによると、ブッカー市長誕生直後の「旋風」の後、今度は彼が守勢に立たされ、リコール運動さえ起きているらしい。

その記事のなかで、特に注目されるのが、〈人種〉の意味である。「コーリー・ブッカーは実は黒人ではなかった」、そんな噂が同市では流れており、それが市長の「弱点」とされているのだ。ジム・クロウ時代の南部では、「黒人の血が一滴でも流れていたら…」ということが人々の社会的・政治的・経済的地位や命運を否定的に決定づけた(この様子はフォークナーの小説などを読むとよくわかるであろう)。しかし、現代の北部都市ニューアーク市では、その構図が逆になっている。

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2007年07月24日

デトロイト暴動から40年

アメリカが7月23日を向かえた。この日は、正確な数字が残っているものとしては、当時アメリカ最大の人種暴動(43人死亡、7000人逮捕、92年のロサンゼルス暴動のみがこの死亡者数を上回っている)となり、公民権運動の時代の終焉をつげる序曲となったデトロイト暴動がおきてちょうど40年目にあたる。わたしが住んでいるここ日本もとても暑い日だったが、暴動がおきたその日のデトロイトも華氏90度を超える酷暑だったという。

その日から、デトロイトは大きく変化した。この街の活力の源泉そのものであった自動車産業は、みなさんご存じのとおり衰退。暴動がおきた67年当時でさえ、自動車工場はより労働力の安価な地域に移り初めており、デトロイト市内にはクライスラーの工場しかなかった。クライスラーが投資ファンドに買収されたいま、かつてこの街を支えた工場すべてが一度はこの地を去ったことになる。

さらにはまた、この街の名と一緒に世界中に知れ渡ることになったモータウン。モータウン・サウンドを量産したスタジオ、Hitsville U.S.A. は実は暴動の中心地となった12番街・クラアモント通りの交差点からわずか徒歩で5分ほどのところにある。そのサウンドの中心地も、73年にはハリウッドのサンセット大通りに移転し、90年代に歴史的建造物として補修改装されるまで、「見棄てられたインナー・シティ」のなかにぽつりと位置することになった。

この73年は、また、デトロイトで初めて黒人が市長に当選した年でもある。つまり、デトロイトにおける黒人政治力の伸張は、同市の社会的・経済的インフラの崩壊と同時に進行したのだ。では現在はどうであろう…。

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2007年07月25日

デトロイト暴動、40年後、その2

20070724prayer_for_riot.jpg暴動から40年目、デトロイトではその惨事を悼むために祈りを捧げる行事が、暴動の起点となった場所で行われた。

その模様を、『デトロイト・フリー・プレス』紙は、「これまでのものとは異なるもの」と報道している。

というのも、行政区画上はデトロイト市とは異なっている郊外の都市の首長がこの祈りに参加したからだ。デトロイト都市圏郊外からの人々の参加と言えば、それは、この地域では「黒人と白人がともに」ということを意味する。インナーシティの人口は約90%が黒人、郊外といえばそのまったく反対の事情が存在している。

かつてデトロイト市郊外の街、ディアボーンの市長、オーヴィル・ハバードは、北部にしては珍しい名だたる人種隔離論者だった。それゆえ彼の名前は、インナー・シティの黒人には人種主義と同義である。しかし、現市長はデトロイト市と友好関係を保つために、この祈りの行事に参加した。その祈りにあたり、デトロイト市長のクワメ・キルパトリックはこう語った。

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2007年07月29日

民主政治を考える…

今日、参議院選挙がありました。直接アメリカ黒人とは関係ありませんが、奴隷制以来、彼ら彼女らが闘っていたこと、それは民主政体のなかでどうやって声を響かせるかです。

だから敢えて政治的発言を行います。

でも、ちょっと簡単な喩え話から…

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2007年09月04日

デトロイトより ── ブラック・アメリカの危機

20070904_pan_african_orthodox_church_small.jpg1967年3月のデトロイト、アルバート・クラーグという名の牧師が、聖母マリアやアフリカ人、イエスを革命家と説く特異なキリスト教の一派を立ち上げた。クラーグ師は、その後、デトロイトのローカルな政治で大きな影響力を持つようになる。

実は、このアメリカではレイバー・デイの3連休になった週末、67年の暴動の中心地からわずか数ブロックのところ、旧モータウン本社から通りを4つ隔てたところにある彼の教会の礼拝に参加してきた。右の写真は、その教会の入り口の看板である(拡大写真はここ)

クラーグ師は既に鬼籍に入っており、今はその後継者が牧師を務めている。教会のディーコンの人びとに、近年の活動を伺ってみると、サウス・カロライナで農場を運営し始めるなど、それはネイション・オヴ・イスラームのものに酷似していた(ネイション・オヴ・イスラームもデトロイトが発祥の地である)。

説教は、それでも旧約聖書のなかの寓話の引用から始まる。かなりのあいだ、正直言ってつまらなかったのだが、90分くらいにのぼるその説教の3分の1が過ぎた頃だろうか、牧師はブラック・アメリカの現状を語り始めた

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2007年11月12日

「カーナー委員会」の「再調査」が始まる

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今から40年前、ニューアーク〜デトロイトの大暴動を契機に設立された都市騒擾に関する大統領特別諮問委員会(通称カーナー委員会)は、1960年代後半に頻発した暴動の原因を探る最終過程にあり、その結果は翌年の3月1日に公開された。『デトロイト・ニュース』紙が報じたところによると、今月11月18日、その「カーナー委員会」の「再調査」がデトロイトを皮切りに始まる。そして、同じく3月1日に、連邦議会に調査報告書を提出する予定であるらしい(この委員会報告の史的意義については、今年9月のアメリカ史学会年次大会で報告し、その原稿はこのサイトにアップしている。なおわたしは、その報告に基づいた論文を現在執筆中であるが、脱稿・発表の折には、ここで報告したい)。

今回の「カーナー委員会」には、しかし、1960年代と大きく異なることがある。それは、

(1)大統領の行政命令によって設立された67年の委員会と大きくことなり、今回の委員会には行政的威信も「国民が与えた権威 national mandate」もない。この委員会は、67年委員会の委員を務めたもののなかでいまも存命中のものに、アイゼンハワー財団が委託したものである。

(2)60年代のような大規模な「運動」がどこにも存在していない。したがって、報告が現状を告発するもの(それは多いに予測される)になったとしても、それを推す市民運動が存在していない。

(3)60年代当時と較べ、人種関係に関する政治学・社会学の調査・論考は、著しく増加している。したがって、今回の委員会の報告が目新しいものになることは、ほぼ期待できない。

1960年代当時と現在は異なる。それを踏まえたうえで、この委員会が何らかの報告書を出し得るだろうか。

2008年3月1日が単なる「記念日」にならないことを祈りたい。

2008年02月21日

「アメリカで何かが起きている」 by a superdelegate

昨年の5月にここのブログで紹介した若手の「黒人」政治家の名、バラク・オバマはもはや日本でも広く人びとが知ることとなった。予備選が今後行われる州からみて、大きな勝負は3月初頭のテキサス州とオハイオ州のみ、ここでヒラリー・クリントンが大差をつけて勝利をおさめない限り、最終的な勝負は8月25日から28日にかけてデンヴァーで開催される民主党大会に持ち込まれることになる。しかも、オバマが僅差でリードを保ったまま、ということになる。

今年が始まった頃、長引くイラク戦争、アメリカ経済に急に立ち込めた暗雲などを鑑み、それを40年前、キングやロバート・ケネディが暗殺され、シカゴ民主党大会では警官隊とデモ隊の激しい衝突が起きた「1968年の再来」と言い始めるものもいた。そのような記事を『ニューズウィーク』で読んだとき、正直言って、根拠が希薄であれば、「歴史は繰り返す」という面白みも何にもない常套句に頼ったチープな記事、と思ったものだ。ところが、全国大会まで大統領候補が決まらないとなると、これは「1968年以来初」の事態ということになる。そしてもっと古い話を紐解けば、黒人が先か女性が先かでアメリカ政治が動く(少なくとも「沸く」)のは解放奴隷を含めた黒人男性に選挙権が賦与された1868年以来、ちょうど100年ぶりだ。

ヒラリー・クリントンはこの選挙戦をよくhistoricといって形容するが、それはあながち悪い表現ではない。すでに民主党大統領候補は黒人か女性かがなることになった。これは10年前にはまったく想像できなかったことだ。

またまた正直なところを言えば、わたしはバラク・オバマの政治姿勢を評価しつつも、ここまで闘えるとは思っていなかった。アメリカの報道を追っていれば自然とそのような結論に至ったし、黒人が二大政党の大統領候補になることを現実のものとして想定できたアメリカ研究者は極めて少ないと思う。なぜならば、広く日本でも報道されているように、アフリカ人を父にもつ「だけ」のオバマに黒人票が期待できるのか疑問に思う向きは強くいたし、2007年10月14日の記事で述べているように、「大物」の黒人政治家や公民権運動のベテランたちはヒラリー・クリントンを支持するか、少なくともオバマとは距離を保っていたのだ。彼に当初期待された支持層は、40代以下の若年層、高学歴の男性、それぐらいだった。1月のアイオワ州党員集会での勝利も、「まぁそんなこともあるだろう、でもスーパーチューズデイまでには…」と思わせるだけに留まった。つまりほんとうに正直言って、わたしはまったく「黒人」候補の支持層の拡がりを予見できなかったのだ。歴史をみつめる研究者が下手に未来予想などするものではない、だからまちがえても当然、そんな言い訳でもしたくなる。

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2008年02月22日

「人種内部」の対立とオバマ選挙戦ーーだからわたしはうれしい

よくこのような質問を受けることがある。「それでアメリカの黒人はどう思っているのですか?」。たとえばコンドリーザ・ライスやコリン・パウエルについて、イラク戦争について。たとえばO・J・シンプソンの累犯について。そして、たとえば、バラク・オバマについて。

残念ながら、それにはこう答えるしかない。「わかりません」。

時間があると、ここで逆に突っ込む(質問のされ方がそっけないものだったら「逆ギレ」する)こともある。「黒人という集団は多様な意見対立を内部にもっている集団であって、それはわたしたちと何らかわりありません。松井秀喜について「日本人」はどう思っていますかと聞かれてたとえあなたが日本人を代弁しても、それがわたしの見解と一致するという確証がもてますか?たまたま「人種」が同じだからという理由で統一された見解をもっていると見なすなら、それは一種の人種主義ですね」。「そんな「黒人の一般意思」のようなものを摘出できる能力があるなら、わたしは今こんなことをしていません、世界的知識人になってます」とか。

実は、いまさらながら振り返ってみると、20年になる黒人研究のなかでのわたしの小さな努力は、この黒人という「人種内部」の対立に光を当てることに費やされてきた。「対立」というと聞こえが悪いが、多様な意見をもつ人種集団を描き出すことで人種そのものを脱構築してやろう、そう思っていたのであろう。「白人」と「黒人」の「人種関係」に関心を払ったことは、正直言ってほとんどない。下のエントリーをご覧になってもわかると思うが、わたしの焦点はつねに「人種内部」に向かっている。

80年代後半から20世紀末にかけて"diversity"といえば人種のモザイク状態の多様性のことをいい、多様さを構成する単位は人種やエスニシティとされてきた。黒人史家のトム・ホルトは人種とは黒人を括るカテゴリー、エスニシティは白人のなかを区別するカテゴリーであり、黒人にはエスニシティが許されていないと語り、ジャマイカ出身の歴史人類学者オランドー・パタソンは人種とは学問の術語としては利用価値がなく、エスニシティに置き換えたほうが良いと語る。わたしにインスピレーションを与えてくれた人びとは当然いるのだが、それでも「間」より「内」に目が向けられることは少なかった。

なぜならば、「必死に戦っている集団の内部分裂を促している」と見なされかねないからだ。

それだからこそわかるのだが、爾来、黒人指導層は指導層内部での意見対立が表面化するのを極度に恐れた。WEBデュボイスがNAACPを辞めなくてはならなかったのは、彼が当時の執行部と異なる意見を発表したからであるし、マルコムXが公民権運動指導層から激しく嫌われたのも、彼が指導層への批判を大々的に行ったからである(下に書いたように、ジェシー・ジャクソンの大統領選挙のときに対立が表面化することがあった、しかしそれを当時者が認めることはなかった)。

オバマの登場でわたしが何よりも嬉しいのは、そのような多様性が日々日々伝えられてくること。日本で報道されることは少ないが、米語の新聞を見ると、そこには「黒人」という「人種内部」の葛藤がある。

上のYouTubeの動画は、そのなかのひとつ、昨日紹介したジョン・ルイスがまだクリントンを支持していた今年の1月14日、南部キリスト教指導者会議の元会長ジョー・ロワリーと喧々囂々の議論をするところである。このふたりは、前者はキングに憧れる神学徒として、後者はキングの側近として、苛烈極まりない南部公民権運動に従事した当人である。

彼らは言ってみれば「戦友」であり、その絆はしたがって強い。その二人がテレビ画面(パソコンモニタ?)のなかで、「人種を政争の具にしたのはどっちだ」と丁々発止とやりあっている。ファーストネームベースで!。

ここを訪れられている同業者の方、もしくはさらに「人種内部」の多様性を知りたい方がいらっしゃったら、コメントの方もぜひみてください。人種もさらには国籍も特定できませんが、何かが変わっているアメリカを感じることができます。

この葛藤のなかから新たなブラック・アメリカが生まれる、そう考えると何だか歴史の一シーンに立ち会っている充実感さえある。

2008年02月28日

あるスーパーデレゲートの決断

2月22日のここでの記事で「しばらくはsuperdelegateの動きを少しずつ紹介していこうか…」と書いたところ、意外と早く「大物」が決断をくだした。

そのエントリーでも、またそのあとのエントリーでも紹介している元学生非暴力調整委員会議長で現ジョージア州選出連邦下院議員のジョン・ルイスが、ヒラリー・クリントンの支持を撤回し、バラク・オバマの支持に回った。2月28日に『ニューヨーク・タイムズ』が行ったインタビューに答えて、彼はこう述べている。

「オバマ上院議員の立候補は、この国の人びとのハートとこころのなかで起きていた新しい運動、アメリカの政治史を画する新しい運動の象徴になっています。そしてわたしは人びとの側に立っていたいのです」。

下のエントリーでオハイオ・テキサスの予備選が接戦になった場合、スーパーデレゲートが決定権を握ると述べた。その後、『ニューヨーク・タイムズ』紙上には、女性初の副大統領候補に指名されたジェラルディン・フェラーロの「スーパーデレゲートは人びとに従うのではなく指導するのである」という旨の投稿記事が掲載されたが、その評判は決して芳しくなかった。この記事に対し、ある民主党員は編集者に宛てた手紙のなかで、もしそうなら予備選自体無意味だし、大統領選挙の日には投票所に行かないか、行ってもマケインに投票するとまで述べている。

つまりフェラーロの記事は、スーパーデレゲートの力に頼ろうとしているヒラリー・クリントン陣営にとってバックファイアするものになったのだ(フェラーロはクリントン支持)。

ここに来てスーパーデレゲートへの圧力は高まっている。歴史の研究者があまり簡単に将来の予測をしない方が良いが、なんだかオハイオ州の予備選で勝負が決まりそうな気がしてきた。

2008年04月01日

決戦はフィラデルフィア:死の影の谷間の声がひな壇にあがった「希望」に迫る

以前このブログで紹介したムミア・アブ=ジャマルの死刑判決に対し、ペンシルヴェニア最高裁の再審判決がくだった。証拠不十分を理由に、死刑から(仮保釈の可能性のない)無期懲役に減刑された。

法に基づく裁判は、一般的市民感情からすると、「真理」を求めて議論する場のように思われる。しかし、これは現実のところ、近代法の権能を誤解したものでしかない。裁判とは、平たく言えば、原告と被告が対立した議論の「落としどころ」を探りあうものである。この誤解はときに市民感情からの乖離ともなる。

ムミアが無罪なのか有罪なのか、真理はひとつしかない。ならば死刑か無罪かのどちらかが妥当であり、裁判所はそれをつきとめるべく努力せよ、とこんな感情がわき上がってきても、それはそれで理解できることだ(というかわたしはむしろそう強く思う)。

だからこそ、「政治犯」と目されたものを救うには、「落とし前」をつけるための条件を良くするため、市民による政治的プレッシャー、もっと通りの良い言葉を使えば、輿論を喚起することが必要となってくる。

そこで、パム・アメリカらムミアの支持団体が大胆な呼びかけをおこなった。4月22日、民主党全国大会前の最後の大票田での予備選がペンシルヴェニア州で行われる。そこでメディアの関心が集まってくる19日土曜日にムミア投獄に関し大抗議集会、デモ行進を敢行するというのだ。

他方、バラク・オバマは、黒人候補と呼ばれつつも、黒人の問題(black isssue)を全面から取りあげることをしてこなかった。ついこのあいだ起きたジェレマイア・ライト牧師の"God damn America"発言をめぐる論争で、結局彼はその問題を取りあげざるを「得なくなった」のだが、それが敏感なtouchy問題であることに変わりはない。ちなみにさまざまなメディアで主張されているが、ライト牧師の発言は前後の文脈をまったく無視した発言であり、それを主にはフォックステレビなどが誇張して問題化したものである。彼の批判のトーンは、アメリカを「暴力の御用達」と呼んだ晩年のマーティン・ルーサー・キング牧師のそれと比すれば、むしろ穏健なものである。左の説教をご覧あれ。

ところで、ムミアは、フィラデルフィアの監獄のなかから、ライト牧師を批判し人種間和解の崇高な理想像を同じくフィラデルフィアのコンスティチューション・ホールで描いたオバマについて、こんな辛辣な判断をくだしている。

「アメリカ史上初の黒人大統領という野心に駆られ、オバマは、自分がどれだけブラックでないのかを証明するレースの最中にある。だからこそ、自分の恩師と思う人間でさえ非難することができたのだ」。

民主党予備選で、ずっと人種とジェンダーは、それがあきらかなのに直接には触れられない、否、オバマもクリントンもそのふたつを「タール人形」とみなす奇妙な事態が展開されてきた。選挙のサブテキストであった問題は、しかし、いまテキストになろうとしている(この問題はもういずれ学会報告を行う予定である)。

NAACP会長で元連邦下院議員ジュリアン・ボンドは、囚人が参政権すら剥奪されている問題を、2000年大統領選挙のときからずっと追及している。そんな問題をオバマはとりあげるだろうか。法的カウンセルが必要だがその費用をもたない人びとのためにシカゴ・サウスサイドで活動した経歴をもつにもかかわらず、その資質をまだ彼は見せていない。だが見せろとムミアが迫る!

2008年04月04日

ちょっと待ってください、マケインさん

20080404mlk.jpg
今日は、メンフィスでキング博士が暗殺されてから40年目に当たります(こういう内容なので敬体を使います)。

なので、ヒラリー・クリントンさんとジョン・マケインさんはキングの偉業を讃えるためにメンフィスで選挙運動をしていました。

でも、クリントンさんは、さんざん保守派から言われているように60年代からの生粋のリベラルですが、マケインさん、あなたハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを襲っていたとき、ブッシュ大統領と何してました?。脳天気におめでたい大統領と一緒にケーキ食べていませんでしたか?

大丈夫ですか、あなたが「アメリカ軍全軍の最高司令官」になって…、

キング博士が、彼の数多く残っている説教や演説のなかで好んで引用していたのが、「もっとも小さな兄弟のために尽くせ」ということでした。あなたの政治思想や政治行動とキング博士の行動や思想に何の関係があるのですか?。

破廉恥な政治「運動」は止めなさい。

2008年04月14日

アフェニ・シャクール(2Pacのママ)もメンフィスで

キング博士が暗殺された日に講演していました。

こちら、からお聴きください。いきなり音が出ることはないので、安心してクリックしてください。

Davey D. がポストしているので、後ろの音ーー G Unit の Hate It or Love It 50 Cent - The Massacre - Hate It or Love It (G-Unit Remix)ーー もいかしてます。このサウンドが、しかし、南部キリスト教会の雰囲気にあうとは意外だった。

2008年09月27日

ぶっちゃけ言ってーーTell Like It Is

思い切って翻訳すれば「ぶっちゃけ言って」Tell Like It Isという名曲がある。

こちらに来て、アーロン・ネヴィルが60年代に歌った"Tell Like It Is"はプロテストソングだということを知った。作詞作曲は別人だが(Lee Diamond, George Davis)彼が歌ったときに、この曲は1960年代の「時代精神」を映し出すものになったのだ。その歌詞はこうなっている。

Tell It Like It Is

If you want something to play with
Go and find yourself a toy
Baby my time is too expensive
And I`m not a little boy
If you are serious
Don`t play with my heart
It makes me furious
But if you want me to love you
Then a baby I will, girl you know that I will
Tell it like it is
Don`t be ashamed to let your conscience be your guide
But I know deep down inside me
I believe you love me, forget your foolish pride
Life is too short to have sorrow
You may be here today and gone tomorrow
You might as well get what you want
So go on and live, baby go on and live
Tell it like it is
I`m nothing to play with
Go and find yourself a toy
But I... Tell it like it is
My time is too expensive and I`m not your little boy

これは単なるラブソングだ。ところが、"you"をアメリカ白人に置き換えると、「自由だ自由だということばをもて遊ぶ play with」ことに対する抗議となる。

Tell like it is!とは、ちなみに、黒人教会では頻繁に聞こえてくる「合いの手」だ。

今回の大統領選挙、人種やジェンダーといった本来は「テクスト」であるものが「サブテクスト」になっていることは、6月のアメリカ学会年次大会で報告した通りだ。その解釈をこちらでディナーの席でちょっと話してみると、「そうすることでより危険なことになっている」という意見を頂いた。

第一回ディベートまであと30分。会場は、公民権運動の激戦地のひとつミシシッピ大学だ。なかには"Tell like it is!"と声をかけたくなっているものもいると思う。ちなみに、デトロイト・ニュース紙によると、ミシガン州の最新の世論調査ではついにオバマのリードが10%まで拡がった。これまで奇人変人のマケインは何度も「ギャンブル」をしかけてきたが、今回の選挙戦中止ギャンブルには誰もひかからなかったようだ。

2008年09月30日

有権者登録について(1)

有権者登録 voter registration という言葉をご存じだろうか。

アメリカの投票では、自治体から投票所の案内を兼ねたハガキが届くというようなことはない。事前に有権者であることに名乗りをあげ、登録をしなくてはならない。

この登録の際に、かつてはさまざまな細工や露骨な妨害がなされ、黒人から投票権が剥奪されてきた。それが、マーティン・ルーサー・キングを「指導者」とする公民権運動が変化させ、1966年公民権法(投票権法)の制定により投票権剥奪は過去のものとなった。少なくとも教科書的理解ではこうなっている。

しかし、2000年にフロリダ州で露骨な投票妨害が起きてから以後、どうやらその事情ははっきりと変わったようだ。以後、数回にわけて、ミシガン州の状況を報告する。

2008年10月16日

バトルグラウンドからの報告(12) ── 「オバマ後援会」主催のコンサート(2)

20081015_obama_rally_small.jpg1980年の大統領選挙、ミシガン州はその後のアメリカの選挙政治を特徴付けるひとつの「政治集団」を生み出した。レーガン・デモクラットがそれである。

1936年の選挙以来、アメリカの民主党は二つの大きな支柱をもっていた。それは黒人を始めとするマイノリティと労働組合である。ところが、1960年代以後、民主党がマイノリティの権利を擁護する姿勢を強めるなか、白人労働者階級は自分が支持してきた党に「見捨てられた」と感じ始めていった。

それはある意味では自然なことである。経済全体が拡大しない限り、マイノリティの生活が向上することは、彼ら彼女らと階層を接していたものたち(具体的に言うと、白人労働者階級)の間での経済競争の激烈化、いわゆる「パイの分け前争い」につながってしまう。その実、1970年代以後、アメリカ経済は長期の不況に見舞われ、経済の拡大どころではなかったのだ。

この時代を象徴するのが、日本製の自動車の「洪水」のようなアメリカ市場への進出である。ミシガン州は、フォード、GM、クライスラーが本社を抱える場所。この州はかつては「民主主義の兵器廟」(自家用車生産は戦時には簡単に軍用車両生産に切り替えることができる)と呼ばれた世界の自動車工場である。

この時代(第二次大戦期から1970年代まで)の経済体制を、ケインズ主義経済とも言えば、フォーディズム体制とも呼ぶ。フォーディズムの中核には労働組合が存在した。そのなかでも最大の組合が全国自動車労働組合(United Automobile Workers Union、UAW)であり、その本部はミシガン州デトロイトにある。この時期、日本でも、デトロイト発のニュースでアメリカの労働者がトヨタの自動車をハンマーでたたき壊す画像がよく伝えられたし、ビンセント・チンという名前の台湾人が日本人に「間違えられて」殺害されるという悲惨な事件も起きた。

この体制は、白人労働者階級(日本ではより穏便に響く「勤労者世帯」という言葉がなぜか好まれる)とマイノリティが利害の一致を見ている限り維持されるものだった。ところが、1980年、ケインズ主義的な経済政策、いわゆる「大きな政府」を解体することを中核としたロナルド・レーガンが提唱した政策が白人労働者階級に訴求したのである。実際のところ、英語ではただ working class と言うことの方が多いが、通例、ただ単に working class と呼んだ場合、そこに黒人は入らない。これは、正確には「黒人と利害が対立する階級の白人」を意味する「コード化された言葉」coded word のひとつである。そして日本人に向けられた敵意は、もちろん、黒人にも向けられたのだ。

しばしばデトロイト郊外のマコム郡は「レーガン・デモクラットのふるさと」と呼ばれる。

さて、日本でも広く報道された民主党予備選挙、特にその後半になってバラク・オバマは労働者階級に人気がないということが言われてきた。このときに白人労働者階級の支持を得ていたのは、もちろん、ヒラリー・クリントンである。したがって、11月の本選挙での問題は、このクリントン支持層がどう動くかにあった。

ミシガン州でオバマの支持率が高い。これは、では、何を意味するのであろうか?

白人労働者階級から広く支持を集め始めていると見なすのが自然であろう。ここに至ってのオバマへの追い風は、気がついてみれば業界こぞって悪徳高利貸し商法に加担していた未曾有の金融危機から吹いていることも確かである。規制緩和、規制緩和と、政府は小さければ小さいほど良いと唱えてきた政治のツケなのだ。これを何とかするためには、それこそ「根本的な改革」fundamental change が必要である。政治を考える思考自体を変えなくてはならないのだ。

さて、左上の写真は、ブルース・スプリングスティーンが駆けつけたオバマ支援集会の観衆の姿である(画像クリックで拡大)。小さな球場を埋め尽くしたその人びとは白人労働者階級だ。この集会のチケットには所属する組合の名前を記す欄があったが、そこに何らかの名前を書いた人はきっと多い。

1980年代以後の共和党の優勢は白人労働者階級とマイノリティとを敵対させることによって維持されてきた。今回、それが揺らごうとしている。少なくともミシガン州では大きく揺らいでいる。

スプリングスティーンは、下の YouTube ビデオで観られるように、「敵は退散したらしいが、まだ安心するには早いぜ」と語るとともに、これ以後、オハイオ州のコロンバス、ヤングスタウン、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアでの集会に参加すると述べている。そう、これまでこのブログを訪問された方はご存じのように、これらはバトルグラウンドだ。

ちなみに彼は一貫して民主党支持であり、2004年にもジョン・ケリーの選挙応援を行った。きわめて「アメリカ的」に思える彼は、しかし、偏狭な「愛国心」のシンボルとして利用されることがある。それを最初に行ったのは、Born in the U.S.A.が大ヒットしていた1980年のロナルド・レーガンである。レーガンの政治利用を聞いた彼は、その後に行ったコンサート会場で、自分の立場を明確にするため、1970年代の鉄鋼不況を綴った名曲、"The River"を、アメリカ労働総同盟・産別会議会長に捧げると語って歌った。

ミシガン州での流れが何らかの意味を持つとすれば、それはこれらの州も「雪崩を打って」民主党陣営に加わるかもしれないということであろう。「レーガン・デモクラットのふるさと」が「本来のふるさと」の民主党に帰ってきたのだから。

本日の朝の時点でのCNNの予測では、マケインが勝利するには、まだ接戦となっている諸州で全勝するしかないらしい。予測は所詮予測だが、わたしがここで述べてきたのはこのような単なる数字上の計算ではなく、バトルグラウンドで感じた観測である。

よく言われているように、バラク・オバマは、これまでの「黒人政治家」とは異なる。ジェシー・ジャクソンにせよ、アル・シャープトンにせよ、かつて大統領予備選に出馬した黒人政治家は、選挙に勝つことではなく、選挙運動を通じて黒人のおかれている環境に対する関心を高めることが目的だった。ところがオバマの場合は、あくまでも勝利が目的である。ミシガン州での選挙戦は、同州の歴史上最大の選挙運動だったと報じられているが、それは勝利を目的にするオバマの選挙運動全体のなかで、この州が占める政治的意義が大きかったからだ(このカッコの部分は、討論会の報道を観たあとに書き足している、オバマはアメリカの経済的苦境を語るのに「デトロイト」という換喩法を用いた)。

さらに、南部ヴァージニア州やノース・キャロライナ州もオバマが逆転しそうになっている。ここはラストベルトと呼ばれる中西部や北東部とは違った意味合いを持つが、その解説は次回に譲りたい。そろそろ大統領候補討論会の時間だ。

2008年10月17日

バトルグラウンドからの報告(13) ── 怒らない「黒人政治家」

マケインは「時には怒りを見せ、また別のときには毅然として」振る舞い、オバマは、マケインからの攻撃をかわすにあたって「時には穏やかに、また別のときには参ったなという表情」をみせた。これは本日の『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面に掲載された昨日の大統領候補討論会に関する記事である。

黒人男性が白人女性を攻撃してはいけない、それはタブーを破ったことになる、という切り口から、「黒人初」の人物が追わなくてはならない重責についてつい最近ここで解説してみた。オバマは、感情的になって挑撥するマケインの手口には乗らなかった。黒人は怒ってはならないのである。

抗議運動型の「黒人指導者」、たとえばジェシー・ジャクソンやアル・シャープトンなら事情は別だろう。彼らの選挙戦は勝つことではなく、怒りを表現することに意義があり、その存在は決して軽んじてはならない。彼らのような存在はこれからも必要であろう。ところがオバマは違う。

マジョリティが白人のアメリカにあって、「黒人政治家」が必ず行わなくてはならないことは、「わたしは信頼できる人物である」ということがまず一つ。そしてそれにも勝るとも劣らず重要なのは「わたしは決してあなたに「復讐」はしない」ということを言外に伝えること。

誤解を恐れずに思い切って日本の文脈に置き直して考えてみよう。将来、在日コリアンの首相候補が出てきたとする。その候補が大日本帝国時代の日本のアジア政策をことあるごとに非難したとしよう。それでも結構主張は前向きだ。こんなことを言ったとしよう。「日本はかつての悲劇を乗り越えて、アジアの新しい時代を切り開かなくてはならない」。でも必ずこう言う。「あのときの犯罪行為をわたしは決して忘れません」と怒り猛って語る。さて、市民からこの候補は高い人気を得ることができるだろうか?

20世紀初頭の国際外交や世界秩序が帝国主義的拡張主義を必要としていた、だから日本がやらなければ逆にやられていた。これはいわゆる「自由主義史観」が唱える常套句だ。そしてこのような史観を述べるものはこう言うことがある。「日本がやったことは西欧が奴隷貿易を行ったようなこととはまったく違う、だいたい台湾や韓国には帝国大学を建設したのではないか」。

さて、奴隷制を行った人びとは逃げ場がない。そしてその実、この「犯罪行為」の「言い訳」をするのはたいへんなことだ。奴隷制を正当化する論理がないわけではない。たとえば野蛮なアフリカ人を文明化した、という主張がそうだ。ところが、このような論陣を張る人間は「ナチの亜流」と見なされるのが通常である。ほんとうに奴隷制を行った人びとは逃げ場がないのだ。

そのような歴史的経緯があるなかで「怒り猛った黒人」に票を投じるのは簡単なことではない。もちろん簡単に行える開明的な人物も多いが、大統領選挙を支配するほどそのような開明的な人物は多くはない。

つまり、《過去の歴史的悲劇に罪障感をもちつつもどこかで自分を防御したい人物》が固めた「疑念」と「防御」の腕組みをそっと優しく解いてやらなくてはならないのだ。

おそらくオバマはそれに成功したに違いない。今朝発表されたCNNの予測では、本日投票が行われた場合、オバマが選挙戦を制するらしい。ここまでどちらか一方に選挙戦が傾いたのは今回は初めてだ。

もちろん、これは「本日投票すれば」という仮定条件がついた予測である。まだ投票日まで19日ある。その間、たとえばオサマ・ビン・ラディンをついにアメリカ軍が逮捕したとしよう。このような劇的な事件が起きた場合、一気に形勢が逆転する可能性がある。

『デトロイト・フリー・プレス』紙は、昨日の討論会を報道するにあたり、「討論会第3ラウンド、両者強打の応酬」という大見出しを掲げた。わたしはこれとは違った見方をした。オバマは強打を繰り出していない。マケインの強打をかわしただけだ。

その姿は「時には蝶のように舞い、また別のときにはハチのように刺す」、ミシガン州のどこかにいまは静かに住んでいるあの人物、「もっともグレートなやつ」、モハメド・アリの姿を彷彿させるものだった。

2008年10月26日

バトルグラウンドからの報告(16) ── ヴァージニアとノース・キャロライナの帰趨が持つ意味

いよいよ大統領選挙もあと10日を残すばかりとなってきた。ここまでのところオバマの圧倒的有利。その勝利のあとに述べることになると、「後出しジャンケン」に近いものになってしまうので、投票日が来る前に述べなくてはならないことは急いで述べておきたい。次期大統領は、おそらく3名の最高裁判事を指名するといわれている。現在最高裁は保守派に力が傾斜していること、そして判事には任期がないということを考えると、共和党の勝利は今後約20年間の保守政治を意味し、民主党の勝利は保守からリベラルへの潮流の変化を示す。そのことを考えても、今回の選挙が将来にもつ意味は大きい。

そのことを踏まえたうえで、前の予告にしたがって、今回は中西部のバトルグラウンドではなく、南部のヴァージニア州とノース・キャロライナ州が今回の選挙で持つ意味から始めよう。

これまでの大統領選挙の結果を見ればわかる(ヴァージニア大学のサイトのなかにあるこの地図がわかりやすい)ように、1972年のニクソンの強烈な地滑り的圧勝以来ジミー・カーターが勝利者となった1976年を除き、南部は一貫して共和党の「票田」となっている。さらに重要なことに、これら共和党陣営に加わった諸州は、1968年に人種隔離の維持を訴えて民主党から離脱し、独自の選挙戦を展開したジョージ・ウォーレスの票田を継承しているということだ。

つまり、公民権運動を陰から支援し、公民権法制定の原動力となった民主党は南部から「見捨てられ」たのである。ノース・キャロライナ州のジェシー・ヘルムス、サウス・キャロライナのストロム・サーモンド、ジョージア州のニュート・ギングリッジ、ミシシッピ州のトレント・ロットなど共和党保守派は多くこれらの南部から選出されている。

ところでオバマはこれら南部諸州で圧倒的強さを示した(『ニューヨーク・タイムズ』のこの地図をみればよくわかる)。日本でその頃よく語られた表現が「黒人人口が多いこの地域ではオバマ氏の圧勝が予測されます」といったものだった。

しかし、この表現は、大統領選には通用しない。これらの州の多くで民主党は勝利を見込むことがまったくできないのである。その事情は、南部出身であったビル・クリントンでさえ、南部共和党保守派の力を崩すことができなかったことから明らかだ。

ところが南部のなかでもいわゆる「境界州」と呼ばれるヴァージニア、19世紀後半より比較的リベラルなことで知られていたノース・キャロライナは、今回バトルグラウンドとなっている。そしてオバマは、民主党予備選のとき、ヴァージニアでは64%対34%、ノース・キャロライナでは56%対42%という二桁台の差をつけてヒラリー・クリントンに圧勝した。

なぜならば、ヒラリー・クリントンは、これらの州はいずれにせよ本選挙で共和党の票田となるのが確実なため、目立った選挙戦は行わなかったのである。

この民主党予備選の地図と、世論調査の最新動向を横にしてみれば、ヒラリー・クリントンの選挙戦が本選挙をにらんで実に手堅い戦略に依拠していたのがわかる。「共和党支持州 Red State」で確実に勝利をすることでオバマは、ヒラリー・クリントンを追い込んでいったのである。だからこそ、「大統領になるのが不可避の候補」 inevitable candidate を自負していたヒラリー・クリントンは「本選挙で勝てる力をもっているのはわたし」となかなか負けを認めようとしなかった。

しかし、ノース・キャロライナ州は、10月23日の世論調査で、49% 対 46%でオバマが若干の有利、ヴァージニア州に至っては51.5% と 44.0%と、「ワイルダー効果」を踏まえてもオバマが勝てるほどの大差でリードとなっている。つまりヒラリー・クリントンが「諦めていた州」が民主党に傾きつつあるのだ。

ヒラリー・クリントンは、南部で民主党が勝つのは厳しいと目した。ここでもう少し歴史的経緯を踏まえて考えてみよう。南部で民主党が地盤を失ったのは、ほら、公民権法とその後のマイノリティ政策が原因である。そしてクリントンはまだその「失地回復」はできないと考えていた。

ところが「黒人候補」がそれを獲り戻ろうとしているのだ。これは、アメリカの人種関係、そしてそれに多く規定され続けるアメリカの政治の変化を語ってあまりある現象だといえよう。最終的選挙結果がでなければ何ともいえないところではあるが、「アメリカ政治の歴史的変化」が起きる可能性があるのだ。

政治や社会はゆっくりにしか変わらない。それを踏まえるとゆっくり変わっていくところを、政治や社会をみつめるものはじっくりと見なくてはならない。そして、いま、そして、バトル・グラウンドでゆっくとした変化が起きそうなのである。

戦後の大統領選挙で、「地滑り的勝利」 landslide victory と呼ばれた選挙は3回しかない。1964年のジョンソン1972年のニクソン1980年のレーガン、なかでも後の二つは政治は保守へ大きく振れた。現在、民主党の「地滑り」、さらには完勝 sweep という予測がなされているが、もしそれが現実になるとすると、それは大きな歴史的意味をもつことになるであろう。奇しくも共和党候補の出身州は1964年のバリー・ゴールドウォーターと同じ、アリゾナ州である。ひょっとすると、1964年と同じような地図くらいにはなるかもしれない。

2008年10月29日

バトルグラウンドからの報告(17) ── 魅力は、自己規律、知性、前向きなこと

本日、アメリカのネットワークテレビでコメンテーターをしている方の講演を聴き、その後レセプションにお邪魔してきた。その人物(黒人女性)が言うことには、オバマには、三つの類稀な資質があるという。

・自己規律 discipline
・知性 intellect
・前向きなこと optimism

彼女の意見では、1984年と1988年のジェシー・ジャクソンの選挙戦のときと、オバマの表向きの政治的メッセージは同じらしい。

それはチェンジ。

思えば政権政党でない限り、言うことは決まってチェンジ。チェンジは「政権交代」と訳しても良い。つまりアメリカの民主党の主張は日本のそれと大して変わらないのである。そしてまた、政権政党が野党候補の「経験」を問うあたりの構造まで同じだ。

では、オバマは、いったいどこが質的に、幾多あるチェンジと違うのか。次回はこれについて語ろう。

2008年11月01日

バトルグラウンドからの報告(18) ── Are You Ready for Change?

オバマの言う「チェンジ」と旧来の「チェンジ」の相違を語る前に、いささか頭の体操をしてみたい。

前回ここで紹介した政治学者が、そのとき、このようなことを述べた。「〈黒人〉と言われている集団の具体的な像は、社会的、政治的に決定されるものであって、生物学的・生理学的な根拠はどこにもない」。

これは、いわゆる「社会構築主義」の教科書的定義にすぎない。ところが、オバマの選挙戦を語る際に、彼女が使った以下のような比喩は、この一年間の間におきた現象をよく物語っていると思われる。

これを読んでいる方、「リンゴ」を思い浮かべてください。そのなかで「赤いリンゴ」を思い浮かべた人はどれくらいいるだろうか。また「青いリンゴ」を思い浮かべた人はどれくらいいるだろうか。はたまた、「銀色の背景に白く浮かぶリンゴ」、つまりアップル社のロゴを思い浮かべた人はどれくらいいるだろうか。彼女がいうには、オバマは、この最後のリンゴに喩えられるというのである。

とはいえ、これは何もアップル社を宣伝してのことではない。その言わんとすることはこういうことだ。

オバマは旧来の人種政治の枠組みでは捉えられない新たな現象であり、1960年代以前、公民権運動以前には存在しえなかった「黒人」が政治の最前線に登場してきたことを意味する。

さて、オバマの支持層のひとつが18歳から29歳までの青年層。年配の方のなかに、上にあげた三つ目のリンゴをイメージする人びとは少ないであろう。なぜならば「オバマ」は新しい「現象」なのだから…

そのオバマの「新奇さ」は「人種」だけに留まるものではない。

彼は「これまでの二大政党の候補のなかではもっとも薄い履歴書の持ち主」と呼ばれているし、実際にそうだ。だから共和党は彼の「経験不足」の攻撃にやっきになり、5500人の人口しかなくても市長を経験したことのあるペイリンの方が大統領として資質を備えていると豪語したのだ。

9月の共和党大会で演説を行ったルドルフ・ジュリアーニ前ニューヨーク市長は、そのようなオバマの経歴をきわめて陰湿な形で揶揄した。オバマに言及し、彼の経歴「コミュニティ・オーガナイザー」を紹介するときに、露骨に皮肉を込めて吹き出してみたのである。

ところでしかし、実際のところ、「コミュニティ・オーガナイザー」が大統領になるというのは大変なことだ。邦語がある彼の伝記の訳語ではこのことばに日本語があてがわれていないが、敢えてその仕事の内実から意訳すると、それは「市民団体職員」になるであろう。この経歴の持ち主は日本国首相にもなれないかもしれない。さらにこれに「大学教授」というのが加われば、それは、自民党や民主党というより、むしろ社民党の議員の響きがある。

ずいぶんと前置きが長くなったが、本題の「チェンジ」の内実に迫ろう。

アメリカ政界に必要なのは「変革」である、そのようなことぐらい、実は、政治家なら2006年中間選挙の共和党の惨敗を見て誰もが理解していた。だから、ブッシュ政権と距離をもつことが必須となったのだし、マケインが候補指名受諾演説で「ワシントンには変化が来ている」と言ったのもそのためだ。現状維持では選挙に勝つことはできない。

正直のところを言って、わたしは、そのような状況のなかで大統領予備選が始まったとき、当初のところヒラリー・クリントンを心情的に応援していた。なぜならば、オバマの今回の選挙戦は2012年か2016年を見据えての「予行演習」であり、クリントンならば共和党保守派に互するに十分の政治力をもっていると思ったからだ。そしておそらく、そのような見解は、少なくとも3月まではリベラル派の意見の体勢であっただろう。またこれははっきりと言えることだが、黒人研究に従事している人間のなかで、現在の状況を「予測」したと豪語する者がいるとすれば、それは、その人物がひどい日和見主義者か、ろくすっぽ研究を行っていなかったからである。過去の出来事を振り返れば、大統領はおろか、大統領候補にすらなるのは無理だと思うのが自然だからだ。

したがって、もうすでに政策の面ではともかく、政治の面ではアメリカでは「変革」が起きたのだ。

つまり、オバマの言う「チェンジ」とは、狭義に解釈して、「政権交代」と理解するべきではないのだ。9月に共和党も「チェンジ」をスローガンにしてからは、共和党の「チェンジ」と自分の「チェンジ」を差異化するために、彼はしばしばこう言っている。

We need a fundamental change in our policy, in our politics.

ポイントは最後の方だ。彼は政治を考える方法、政治行動のあり方、それを根本的に変える必要があると言っているのだ。

これは時と場合により、こうも響く。「アメリカの政治制度は人種主義によってゆがめられてきた、その政治のあり方を変えましょう」。以前、彼は怒りを表現しない「黒人政治家」であり、そうするには理由があるということは述べてみた。その議論に今回の議論をつなげると、こうなる。彼はこう訴えているのだ。

人種主義を超克した新たな「アメリカ政治」をつくろう、そのリード役をわたしに任せてほしい、わたしは過去のことで怒ったりはしないから、一緒にその変革への一歩を踏み出そうではないか。

もちろんこれは美辞麗句である。他面、人種主義や偏見といったものは、どす黒い情念だ。

しかしだからこそ、アメリカの有権者はこう問われているのだ。「あなたには勇気がありますか?」。だからオバマは、政治集会の際に、こんな常套句を使っている。

Are you ready for change?

こう説明するともはや明らかだろう。少し注意して彼の演説に耳を傾けてみれば、彼がこの言葉に冠詞をつけていないのがわかる。これを「政権交代への準備はできているか」と取ってはまったく真意を外している。政権交代が頻繁におきるアメリカ政治にあっては、もはやそれは問われるものですらない。彼は、変革には痛みや怖れが伴う、そんな変革への心構えはできているのか?、とアジっているのである。

〈アメリカ〉は、この選択を迫られ、恐怖と希望の狭間で震えている。

インターネットの活用や、それを通じた政治寄金の集め方など、オバマの選挙戦術は、アメリカ政治に大きな変革をもたらした。そしてここ最近、このブログで報じてきたように、1988年の大統領選挙以後、邪険な力を思う存分発揮してきた誹謗中傷公告がバックファイアするにつれ、アメリカの大統領選挙のあり方に今後大きな変貌が生じる可能性も出てきた。

この白熱した選挙戦の結果、ミシガン州での有権者登録者の率は有権者総数の98%に達したという脅威的な数値の報道もなされている(おそらく10月中旬に二大政党が選挙運動を止めたミシガンがこうならば、他州の状況も同じであろう)。

さて今回はチェンジについて述べてきたが、実のところ、書きながらも、どうまとめて良いのか不安であった。いまのわたしは、これを書き終えて、若干見通しができたところにいる。「変革」について述べた次は、では、彼が継承した「遺産」について述べてみよう。

バトルグラウンドからの報告(19) ── 「この街で何かが起きている」

こちらに来てから知り合いになった黒人の政治学者の方がこんなことを述べていた。その学者は、オバマの自伝の書評を頼まれて初めて、彼の著作 Dreams from My Father を買おうとした。ところが、書店が言うには、置くとすぐに売り切れになるので在庫がなく、一週間待たなくてはならないと説明を受けた。そこでこう思ったらしい。「この街で、この圧倒的多数が白人の街で何かが起きている」。

その後、今年の2月28日、公民権運動の英雄のひとりで連邦下院議員のジョン・ルイスは、「オバマ上院議員の立候補は、この国の人びとのハートとこころのなかで起きていた新しい運動、アメリカの政治史を画する新しい運動の象徴になっています。そしてわたしは人びとの側に立っていたいのです」という声明を発表し、それまでのヒラリー・クリントン支持の立場を改め、オバマ支持を表明した。そのときに彼はまた、1月のアイオワ党員集会以後の2か月間、かつての公民権運動時代を思わせる若者の動きがあること、そしてその動きの先頭にオバマがいることを驚愕が混じった喜びで語っていた。

驚くのも無理はない。オバマが生まれたのは1961年8月4日。彼は1960年代公民権運動を知らない。

夏にアメリカに来て以後、ここで述べてきたように、さまざまな場で「有権者登録」を呼びかける人びとに出会ってきた。これまでこのような活動をしている人びとと出会わなかったわけではないが、今年に限ってははっきりと以前と異なる特徴があった。それは有権者登録を呼びかけている人びとが若いということ。

それは1964年フリーダム・サマーを思わせるものだった。そして彼ら彼女らは、今週末、4日の投票日に確実に投票所に行くことを呼びかける Get-Out-the-Vote 運動に精力を集中している。

実はオバマの政治経歴には手痛い「敗戦」の跡が残っている。2000年、ブラック・パンサー党シカゴ支部の創設者の一人、ボビー・ラッシュが現職を務めている連邦下院議員の席を狙って彼は立候補した。ところが、彼の人種的アイデンティティが問題になるなか、彼はラッシュの前に完敗したのである。

実はこの敗北を契機に、彼は自分のルーツを忘れていては政治の世界で活躍することはできないと悟り、シカゴのサウスサイドの黒人政治家のサークルのなかに足を踏み入れ、そこで足場を固めることを改めて行い始めたという。当然のことだが、このときに彼はかつての公民権運動家たちと親交を深めることになったのだ。ボビー・ラッシュは敵に回すものではなく、学ぶ先達であると理解したのである。

そのような彼の運動が公民権運動の影響を受け、その流れを汲んでいたとしても何の不思議はない。

これが、彼が継承したものの唯一最大のものである。

今年の夏の民主党全国大会、それはワシントン大行進からちょうど45年目にあたった。キングの偉業を称える特別の催しもあり、その後、指名受諾演説を行った彼は、あたかもキングの衣鉢を継承したもののように見えた。そして実のところ、民主党全国委員会は、まさにその効果を狙ったのだと思える。

そしてまた、夫人のミシェル・オバマが演説を行った日には、幼い子供たちもステージ上に現れ、「ホワイトハウスの住人になる黒人家族」の姿がはっきりとアメリカ市民の前に提示された。そして、それもまた、60年代のある光景を思わせるものだった。幼い子供がいる若い大統領。そうジョン・F・ケネディである。

今年6月のアメリカ学会政治分科会で報告を行った際、わたしはオバマの選挙参謀のなかにシカゴ民主党主流とそれから少し左に位置する陣営との「手堅い連合」が生まれていることを指摘した。簡単にそれを振り返ると、デイレー市政の一翼を担っている人びとと、シカゴ市政の文脈では「レイク・フロント・リベラル」と呼ばれている人びと、そしてサウスサイド、ウェストサイドの黒人政治家の大連合が、彼の選挙参謀の重鎮のなかに簡単に見て取れるのである。

これは、実際のところ、簡単にできる話しではない。以前に一度シカゴ市政では、白人リベラルと黒人の大連合が成立したときがある。1983年から死去する87年まで同市の市長を務めたハロルド・ワシントンの時代がそうである。ラディカルな黒人政治学者のマニング・マラブルは、このときに見られた白人労働者階級と黒人の連合政治を、公民権運動の遺産を継承する最良のものだと評価している。

バラク・オバマは、市民団体で働いていた時代、ハロルド・ワシントンとの親交があり、それがきっかけで政界を目指すことになっている。彼の自伝の邦語訳では「ハロルド市長」と、実に奇妙な訳語があてられているが、原文では単なる Harold。つまり、ファーストネームで呼び合う間柄だったのだ。

そのハロルド・ワシントンの市政の特質が、黒人の人種としての特殊利害を追及するのではなく、より包括的 universalistic な文脈に問題を置き直し、政策を推進することにあった。これはオバマの政治姿勢そのものだ。

以前、わたしは、ここでニューワーク市長のコーリー・ブッカーを紹介するのと同時に、オバマのことを新しい世代の黒人政治家として紹介した。この新しい黒人政治家は、実のところ、黒人の運動の最良の部分を継承するものでもあるのだ。なお、わたしはニューワークとシカゴに関心があり、彼らのことを知るに至ったわけであり、何も日本でいち早く彼を「発見」した人物であると主張するつもりはない。彼の活躍を知るに至ったのは、20年以上地味な研究を積んできたことの嬉しい喜びであった。

さて、いよいよ投票日まで時間がなくなってきた。歴史研究者は予測など下手にするものではなく、下手な予測はブログ炎上の契機になりかねないが、次回は思い切って観測可能なことについていくつか述べることにしたい。冒頭で紹介した言葉を述べた方は、こうも言っていた。「さあ、われわれの候補の行方を期待とともに見守ろうではないか」。

2008年11月04日

バトルグランドからの報告(21) ── Way Out of No Way, Keep Your Eyes on the Prize, Hold On!

20081104_michigan_union_obama_small.jpgネットで日本における報道をみると、この選挙の争点は経済に代表される国内政策だという議論が支配的である。しかし、はっきり言おう、これはまちがっている。

では、バラク・オバマ流に、問題点を4つ指摘しよう(左の写真はクリックで拡大)

ナンバー1。首尾一貫してオバマがリードしているにもかかわらず、接戦と報じられているのはなぜか。日本ではなじみのない政治学用語であるブラッドレー効果が、改めて取り沙汰されているのはなぜか。ブラッドレー効果が起きるというのは、「アメリカ人なんて、きれい事はたくさん並べるけど、結局のところ人種主義者なのよ」と言っているに等しい。これは昨日述べたことでもあるが、わたしは、そのような意見に対してこう述べたい。ブラッドレー効果はいくらかは起きるのはまちがいないが、選挙の帰趨を支配することはない。

ナンバー2。本日もオバマは遊説先で「期日前投票」を呼びかけている。なぜならば投票日には何が起きるかわからないかららしい。そういうのも無理はない。2000年フロリダ州、2004年オハイオ州と、投票権の剥奪と投票妨害が露骨に行われるということが続いたからだ。しかも、それはマイノリティの居住区を標的にしていた。現在行われている期日前投票では、予測できることではあるが、投票を行った者の圧倒的多数がマイノリティであると報じられている。

ナンバー3。経済はもちろん争点だ。しかし、ブッシュ政権の政策がまちがっていたこと、野放図な放任主義が今回の経済危機の原因であること、この大枠の認識についてオバマとマケインのあいだに差異はない。どちらが大統領になるにせよ、「規制」が強まることは、したがって、簡単に予測されることであり、税制における差異は、大半の有権者の関心を集めるには、専門的すぎる。

ナンバー4。共和党が選挙戦の武器にする「大きな政府」「テロ」の二つは人種を暗示する「コード化された言葉」である。前者は福祉に依存する都市の黒人やラティーノ、後者は中東出身者。後者の人種化は実に都合が良い。オクラホマ連邦ビルを爆破したのが「アメリカ第一」(今回の共和党のスローガンは Our Country First)を唱える武装民兵だったことはすっかり忘れているのだから。

さて、40 年前のキング牧師暗殺のあと、ロバート・ケネディ上院議員がこう述べた。

「あまりあせるのはよくありません、黒人は、そうですね、ええ、あと40年もすれば大統領になれるでしょう」。

ロバート・ケネディは、公民権運動の支援はもとより、ブラック・パワー運動にも一定の理解を示し、黒人層のあいだで人気の高い政治家だった。ところが、恩着せがましいところがあるこの発言に、黒人市民は嫌悪感に近い感情を覚えた。1968年、黒人ははっきりと We Can't Wait と言い始めていたのである。

今年は、それからちょうど40年目に当たる。

その間、シャーリー・チザム、ジェシー・ジャクソン、アル・シャープトン等々、数多くの黒人が大統領選に挑んだ。ところが二大政党の予備選を勝ち残る人はおろか、その近くにさえ行った人物もいなかった。1988 年のジャクソンの11州で1位、それが最高だった。

ジェシー・ジャクソンらとはっきりことなること、それは抗議の声を届けるためではなく、選挙に勝つためをオバマは目標、自分の「希望」にしたということだ。その目標は、おそらく彼が政策論を論じた著書のタイトルに現れている。

希望をもつ大胆さを Audacity of Hope

そして、このタイトルもまた、黒人政治の伝統にはぐくまれたもの。論争を呼んだジェレマイア・ライト氏の演題からインスピレーションを受けたものだ。

大統領選を本格的に争う黒人は、遅かれ少なかれ現れると思っていた。しかし、近年の政治の流れからして、

黒人英語、エボニックスの表現に"way out of no way"ということばがある。方法はなくても何とかして成し遂げろ、これは、奴隷制に始まる不条理な世界で生きてきた人びとが継承してきたもっともたくましく高貴な遺産だ。

その遺産をまちがいなく継承しているオバマは、ハロルド・ワシントン当選当時のシカゴの黒人コミュニティを回顧してこう述べている。

「ハロルドがサウスサイドの人びとに持つような意味、果たしてわたしはそれを持つことができるだろうか、そう自問してみた。そしてもしわたしのことをよくわかってくれたならば、彼らはハロルドに対して抱いた感情と同じ気持ちをわたしにも抱いてくれるだろうか」

11月4日、全米各地が、「記録級の投票率」を予測し、投票ができるまで数時間もかかる混雑が危惧されている。まちがいなく、今日は長い一日になる。

そのムードは、いささか 1963 年にジェイムス・ボールドウィンが感じたものを思わせる。彼はこう述べている。

「いかなるものであれ、天空に大変異が起きるのは恐ろしいことだ。なぜならばそれは、誰しもが持つ現実感覚を激しく攻撃するからである。そこで言いたいのだが、黒人は、白人が支配する世の中にあって、ある一つの動かない星となっていた。じっとしていて動かすことができない支柱となっていたのである。黒人たちがそれまであてがわれていた場所から動きだすにつれて、天と地が大きく揺れ動きはじめている」。

アメリカの天と地が動き始めた。

Way out of no way, Keep your eyes on the prize hold on!

2008年11月06日

決定的勝利、人種の壁を破壊する

今日のエントリーのタイトルは、本日のタイムスのトップ記事の見出しである(ちなみに明け方まで自分の住んでいるレジデンス・ホールの方々と語り合っていたため、新聞を買いに外に出たときには、すでに売り切れていた)。

ここでわたしは、大統領選の中心は経済危機を初めとする国内問題であるというのはまちがいであり、いつのときでもつねに人種であると主張してきた。選挙運動はそう展開しているし、アメリカ大統領選挙の歴史自体がそうであると伝えてきた。

ところが〈人種〉に関する問題に触れるには、それなりの「覚悟」がいる。この問題には、だからこそ、選挙選のテーマとして表立って取り上げられはしなかった。それゆえ日本のメディアは、表面だけをみて勘違いしたのだろう。

バラク・オバマの政治的才覚の極みは、このいつ爆発するかわからない問題の「解決」に拘泥するわけでもなく、そしてまたそれを「回避」するわけでもなく、かくして一見「世渡り上手」に振る舞っているようにいて、実は正面から取り組んでいたところにある。

その結果、「人種の壁」は「破壊」された。

彼の存在自体が象徴するものの意味は、言語をこえたところで、この選挙戦を目にしたものたちのこころに響いたのだ。

アメリカの選挙戦では、テレビなどの放送メディアを駆使した運動を「空中戦」と呼び、運動員を展開させ、遊説を行っていくことを「地上戦」と呼ぶ。ここでも紹介してきたように、地上戦はオバマが圧倒的な「戦力」を駆使した。そこには、ブッシュの8年の政権のあいだにすっかり気恥ずかしくなって言えなくなってしまった理念の復活、「アメリカ民主主義の力」の復活があった。

Are you registered vote? と呼びかける彼ら彼女らの姿は公民権運動家の姿とわたしのこころのなかでは重なった。そして、市民ではないけど、こうこうこういった事由であなたたちのやっていることに関心があるから話を聞けないかと聞くと、みながこう答えてくれた。"Yes, you can"

オバマの選挙戦は、キャンペーンというより、ムーヴメントである。

さて、彼の自伝を読み返していると、改めて気になるセンテンスがあった。次回は、そのセンテンスを、彼の当選がきまった瞬間を振り返りながら、解説してみたい。

2008年11月07日

I promise you, we as a people will get there ── バラク・オバマにキングが微笑みかけたとき

20081105_cnn_projection_small.jpg4日、開票速報をわたしは知人たちと一緒に観ていた。選挙の結果が出るまでは一緒に観ようと言ってイスに座ったのだが、当初は深夜にピザの宅配を注文することはもはや「予定」に入っていたし、徹夜も覚悟していた。ところが、改めて振り返ってみると、事態は恐ろしいほど早く進行した。

選挙の行方を支配する最初のバトルグラウンド州の帰趨が決定したのは8時45分頃。ペンシルヴァニア

9時30分頃、オハイオ州も民主党へ。

この時点で開票が始まっている州のなかで行方が注目されていたのはノース・キャロライナ州とヴァージニア州。この二つは先にここで述べた通り、歴史の岐路を示すかもしれない最重要州だ。そう簡単には決まらない(実際のところノース・キャロライナ州は本日結果が判明した)。

そんななか、これまでの世論調査などをもとにCNNが「マケイン勝利の可能性」を計算し始めた。その「計算」によると、太平洋岸3州が共和党に行くことは有り得ないので、ほかのすべての接戦を制しないとだめらしい。オバマが勝つ、そんな期待がこの時点で大きく膨らみ始めた。

ところが、国内に時差のあるアメリカという大陸国家、これから先の開票が進まない。わたしたちは、そこで、開票速報のパロディをやっているコメディチャンネルに切り替えて、カリフォルニアでの投票が終わる11時までしばし笑って楽しむことにした。

そうするとこれからが早かった。10時50分過ぎ、なんとヴァージニア州の行方が決まった。そして大票田のカリフォルニア州での投票がおわる11時をほんの少し過ぎたところ、なんとネットワーク局が一斉にオバマの勝利が確定と報じた。ウェストコーストでは、したがって投票が終わると同時に決まったようなものだ。

2000年の大統領選挙の大騒動があって以後、ネットワーク局は開票速報のあり方を吟味し、発表には慎重になっていると聞かされている。それでもこの結果はほんとうなのか?信じて良いのか?テレビの画面はおびただしい人が集まったシカゴのグラント公園、そしてこの日のために特別のライトアップをしたこの街が誇るスカイラインが映されている。

午後1過ぎ、オバマがステージに現れた。そして彼はその演説のなかで、こう述べ始めたのだ。

The road ahead will be long. Our climb will be steep. We may not get there in one year or even in one term, but America,

このとき、わたしには、マーティン・ルーサー・キング博士が暗殺される前日に行った演説が思い浮かんだ。

キング博士はこう言っている。

Like anybody, I would like to live a long life. Longevity has its place. But I'm not concerned about that now. I just want to do God's will. And He's allowed me to go up to the mountain. And I've looked over. And I've seen the Promised Land. I may not get there with you. But I want you to know tonight, that we, as a people, will get to the promised land!

オバマがこの部分でキング博士を意識していたのはまちがいない。なぜならば、この一節はあまりにも有名なものだからだ。誤解のないように言っておくが、これを思いついたのは、わたしがとりわけてキングに詳しいからではない。

2008年11月5日、オバマは、このあと目を一段と鋭くさせ、黒人教会で育まれた独特のゆったりとしたケーデンスで、こう言い切った。

I have never been more hopeful than I am tonight that we will get there. I promise you: We as a people will get there.

ここでテレビに映し出されたジェシー・ジャクソン、彼の頬には涙が伝っていた。オバマは、キングの言葉、いやむしろ正確にはこう言うべきだろう、アメリカの人びとにキングが残した遺言をはっきりと引き受けたのだ。may not を will と肯定型に置き換えて。「「約束の地」に辿りついて見せる」と言い切ったのだ。

このことばが響いたのは何も「黒人」だけではない。そうわかっていたからこそ、オバマは、指示代名詞 there を用いたのだ。「そこ」と言っても、それはみなにわかったのだ。

グラント公園を埋め尽くした20万人が Yes We Can と初めて大きな声で連呼し始めたのは、この決定的フレーズのあとである。

ここでキング暗殺後の40年間、暗くアメリカを覆っていた雲が一瞬ではあっても開き、キング博士が微笑みかけた。

もちろんこの演説のなかには、106歳のアンナ・ニクソン・クーパーさんの逸話を初め直截的に黒人の闘争の歴史に触れたところもある。しかし、その歴史を確実に踏まえたうえで、もっとも強く「新しい時代が来たのだ」と宣言したのは、実は、「黒人」ということばも、「人種」ということばも、「公民権運動」ということばも出てこないこのような箇所なのである。

ここにこそ、バラク・オバマの人のこころに訴えかける政治家としての類まれな才能が現れている【続く】

2008年12月01日

バラク・オバマが目指す政治(3) ── 勝利演説完全解読(2)

さて、前回の問いに答えることからまず始めよう。

おそらく、「わたしは目がねをかけています」ということを、選挙遊説のたびに言うものはいないだろうし、選挙戦を通じてまったくその事実に触れないものだって普通に存在するはずだ。

もともと〈人種〉とは、人間がもつ属性のなかのひとつに過ぎず、それはひとつの属性であるという意味において、目がねと同じものである。しかし、この〈人種〉という属性が殊更重要な意味を果たしているのは、それが社会によって強い意味づけを施されているからである。

この社会的力は人の意思で簡単に変えられるものではない。この力が変わるには、人びとの意識的な営為とともに、人為を超えた時の流れが必要だ。何はとまれ、現在のアメリカ社会ではこの力を否定していて政治世界を生きられるものではないのである。

したがって、オバマの〈人種〉は、「わたしは黒人です、だから…」ということをわざわざはっきりと言わなくても、彼が存在するその場を既に規定し続けていたのである。よくオバマは〈人種〉について言及しないから黒人政治家ではないという論評が(特に民主党予備選序盤の日本のメディアで)見られたが、これほど馬鹿げた議論はない。

なぜならば、オバマが黒人政治家であること、これはオバマ本人が逃げようにも逃げられない社会的現実なのだからだ。

この峻厳なる現実がまず存在していた。そしてオバマはそこから逃げなかった。むしろ事態は、その反対であり、自分が当選すれば、それがアメリカ史上初の「黒人大統領」の誕生を意味するという「歴史性」を強く認識していた。そして、「黒人」、つまり「奴隷の子孫」がアメリカ合衆国大統領になるということそれ自体に、「〈テロとの戦争で失墜したアメリカ民主政治〉、それを再生する」という政治的アジェンダとを直結させていったのだ。

みずからを「歴史の体現」とするこの大胆な戦略、それを彼はことばにして表現することなく実行していった。なぜならば、彼の風貌がぱっとみてわかるアフリカ系だからである。

先に述べたキングの引用に見られるとおり、この選挙戦にはいろんなところでいろんなシンボリズムが用いられていたが、昨年に始まったオバマの選挙戦の開始点と終着点もそのひとつだ。

開始点は、リンカン大統領生誕の地、イリノイ州の州都、スプリングフィールド
終着点は、南北戦争の北軍の最高司令官の名前を冠したグラント公園

「俺に投票しろ、それが民主主義の豊かな生命力を物語ることになる」。こんな横柄なことを述べたところで、誰も見聞きしないだろう。しかし、現実として、オバマはこれと同じメッセージを、より崇高なことばに変えて、はっきりと宣言したのだ。

彼は勝利演説の冒頭でこう言っている。

「どんなことだって可能なところ、それがアメリカだということをまだ疑っているものたち、われわれの建国の父祖たちの夢はまだ生き続けているということをまだ疑っているものたち、われわれの民主主義のパワーを懐疑的に見るものたちがいたとして、今宵の結果があなたたちがそのような人びとに対して示した答えなのです」。

ここでいまひとつのポイント。オバマは、ここで、自らの人種的象徴性がもった意味を、すでに能動的な市民(「あなたたち」)の功績に帰し、それを称えている。ここで、「俺に投票しろ、それが民主主義の豊かな生命力を物語ることになる」といえば自己中心性が高まってしまうメッセージを脱中心化し、民主主義そのものの理念のなかに選挙の意味を埋め込んでいるのだ。

さらに肝心なことに、ここで「自分」を「中心」から退かせるとともに、〈人種〉は消えているようでいて帰って大きな存在感を示している。何はとまれ、オバマはここで〈人種〉はつねにアメリカ民主主義の弱点であった、その弱点を克服したのだ、と宣言しているのだから…。

このレトリックの巧妙さには、改めて考えてみて、驚嘆せざるを得ない。

かくして彼の演説のなかでよみがえった能動的市民の政治活動が彼のことばによって称えられていく。

学校や教会を一回りするほど伸びた投票者に並ぶものの列、それはこの国が歴史上なかったほどの数にのぼり、票を投じることができるまで3時間、4時間と待たなくてはならない、そして多くのまた生まれて初めて投票したそんな人もいる、そんな人びとみんながくだした結論なのです。この選挙だけはこれまでとは違ったものにならなくてはならない、自分たちの声が今度こそは違った結果になるかもしれない、そんな信念をもった人びとがいたからこそ、この結果が生まれたのです」。

さて、この次、この能動的市民のカタログをオバマは作り始める。そこでは、実は、アメリカ大統領選挙戦史上初めてのとんでもないことばが大胆にも潜み込んでいた。

【続く】

2008年12月02日

バラク・オバマが目指す政治(4) ── 勝利演説完全解読(3)

今回の解説は、オバマ演説の訳から入ろう。

「それは、若い者も老いた者もともに下した答、民主党支持者も共和党支持者も、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系、アメリカ先住民(Native American)、同性愛者(gay)、異性愛者(straight)、身体障害者(disabled)、健常者(not disabled)も一緒になって下した答えなのです。そうしてアメリカ人は世界に向かってひとつのメッセージを発しました ── アメリカが個人の寄せ集め、共和党支持者が多い集(red state)と民主党支持者が多い集(blue state)によって分断された政治を単につなぎあわせたものであったことなど一度もなく、われわれはいつの時であっても、ひとつの統一されたアメリカ合衆国だったのです」。

この演説の後半部は、2004年の民主党大会の基調演説を彼が行ってきた主張をそのまま繰り返したものである。アメリカを〈人種〉や政治思想によって分断された国家であるとみなす考え方は、1990年代半ばより広く共有されてきた。ここでオバマは、そのときに広く読まれた著書、アーサー・シュレジンガー・ジュニアのThe Disuniting America をはっきりと意識しつつ、シュレジンガーらの主張を否定し、その勢いを一気にアメリカ愛国主義につなげている(しかしながら、「ケネディ神話」を作り出した人物のひとりであり、それゆえケネディをこよなく愛するこの老歴史家は、オバマ当選を喜んでいると思う、たぶん…)。

さて、前回指摘した「アメリカ大統領選挙戦史上初めてのとんでもないことば」は、すらすらと述べられたこの演説の前半部にある。実は、アメリカ先住民ということば、そして同性愛者ということばが、このような舞台の演説のなかで発せられることはなかった。オバマにこれができたのは、彼が自分が黒人であることをはっきりと意識していたからにほかならない。

しかし、これはよく考えるととんでもないことだ。日本の総理大臣が、「わたしが総理になれたのは、国民の熱烈なる支持があってのことです」と慇懃に礼を述べ、そのあと支持層それぞれに挨拶し始めるとしよう。そのなかに「ゲイ」ということばがでることなどありあり得ない(もちろん、この選挙で、カリフォルニア州の住民投票はゲイから婚姻の権利を剥奪することを是とした。その問題はあまりにも大きいが、実際のところ、このわたしにはそれを論じる力がない)。

選挙結果が世界に知れ渡ったあたりから、アメリカではオバマ当選を祝う各国の姿が報じられた。そのなかには、もちろん彼の父の国、ケニヤの姿もあったが、多くは、香港のイギリス系、フランスやドイツのアラブ系といった、彼と同様ハイブリッドなアイデンティティを抱く人びとの姿だった。日本からの画像は、福井県小浜市の勝手連。それは実に異様だった。

話をもとに戻して、オバマはこれまで大統領選挙で無視されてきた人びとをこうして登場させる一方、ある人物像を退場させた。それは、ジョン・マケイン(わたしが参加した集会で、ブルース・スプリングスティーンは彼のことを「もうすぐ歴史の脚注にしかすぎない存在になる人物」と言ったが、もはやはっきりとその「定位置」を確保してしまった感がある)が、テレビ討論会で突然「テレビの前のジョー、配管工のジョー、わたしはあなたのための政治をしようとしているんです、オバマ上院議員はあなたのような人びとに対し増税を行い、大きな政府をつくろうとしているのです」といったことを述べ立て、周囲をひかせてしまったその「配管工ジョー」である。

このブログの大統領選に関する記事を読まれている方ならお気づきの方も多いはずだ。この「配管工ジョー」は白人、政治思想はレーガンデモクラットである。

政治的言説の舞台から、かくして登場者が入れ替わった。こうしてみるとオバマは、政治舞台の登場者であるというよりも、ここではむしろ演出者である。

2008年12月14日

バラク・オバマが目指す政治(5) ── 勝利演説完全解読(4)

前にエントリーを書いてから、学期末ということもあり、少しバテてしまった。今回は、この演説の「最初」の佳境に入る。このブログのために再度演説を画像からおこしていて、改めてこの演説の意味の重層性に驚いている。今回は、したがって、ヘヴィな解説になると思う。

まず英語の原文を示そう。

It's the answer that -- that led those who've been told for so long by so many to be cynical and fearful and doubtful about what we can achieve to put their hands on the arc of history and bend it once more toward the hope of a better day. It's been a long time coming, but tonight, because of what we did on this day, in this election, at this defining moment, change has come to America

これを訳すとこんな感じだろうか。

「またそれは、ずいぶんと長い間、ずいぶんと多くの人に、歴史が描く円弧を自身の手でしっかりとつかみ、それをもう一度より良い明日の方向へ曲げるには、やれシニカルになっている、やれ恐怖心で、そしてさらには猜疑心でいっぱになっていると言われてきた人びとが出した答なのです。この答がでるまでに、ほんとうにずいぶんと長い時間がかかりました。しかし、今夜、私たちが今日行ったことによって、この選挙によって、そしていまこの決定的瞬間に、変化のとき、それがアメリカにやってきたのです」。

さて、この訳を読むと、「歴史の円弧を自身の手で…」の部分、さっぱり意味が通じないはずだ。なかには、これを「手を伸ばすことができたのです。歴史を自分たちの手に握るため。より良い日々への希望に向けて、自分たちの手で歴史を変えるために」と訳しているところもあるが、正直言ってこれではこの一節が持つ重みがまったく伝わらない。

オバマは、3行目で "once more"と言っています。直訳は「もう一度」。さてでは最初の一回はいつのことだったのでしょう? 少し日本の新聞の訳をみたが、全部不正解です、まったくわかっていません。先に紹介した訳は、ここをまったく無視しています(さらにこの訳は、「あれはできないこれはできないと言われてきました」と訳していますが、そんなこと彼は全然言っていませんよ、achieve anything とは言ってないじゃないですか?、政治行動に関してだけここは述べているのです、その内実がわからないのでごまかそうとしていますね、この訳は)。

では、今回が"once more "ならば、前回はいつだったのでしょうか?

答え:公民権運動のときです。

なぜか、なぜそう言えるのか

それは、その直前にある"arc of history"という言葉があるからそう言えるのです。

人類の営為=歴史を天空を描くアーチに喩えることは、実はマーティン・ルーサー・キングが十八番としたものだった。彼は"bend"という動詞も使ってよくこう述べていた

The arc of the universe is long, but it bends towad justice。「空を描く天空の弧は長い、だがそれは正義がある場所に向かって弧を描いているのだ」

さてよく考えるとこの比喩はおかしい。だからすこしピンぼけな感じがする。比喩が懐にポンと落ちない。

おかしいのは、「天空の弧」の中心には「地球にいる人間」が立ち、それを「中心」にして宇宙の秩序が説明づけされているからだ。現代のわたしたちはこんな天空の描き方はしない。これは「天動説」なのである。

それもそのはず、この文言を最初に述べた人は、中世の神学者、アウグスティヌスである。彼の思想を現代の政治に持ち込んだのは、神学博士であるキングの解釈があってのことだ。

「あのねぇ、学者先生、それはあんたの深読みでしょ」、そう述べたい人がいるかもしれない。だから少し念を押しておこう。

ちがいますよ、オバマははっきりとキングの演説を意識しています。意識している証拠があります。

1966年投票権法の期限延長法案が連邦議会上院で討議されたとき、彼は、キングが行ったこの演説(それは投票権法の可決を迫るセルマ=モントゴメリー行進の最後の集会──公民権運動史上、主要黒人団体が最後の団結を示した行進──で述べられたもの)をはっきりと出典を明示して議場で、こう演説している。

Two weeks after the first march was turned back, Dr. King told a gathering of organizers and activists and community members that they should not despair because the arc of the moral universe is long, but it bends towards justice. That's because of the work that each of us do to bend it towards justice. It's because of people like John Lewis and Fannie Lou Hamer and Coretta Scott King and Rosa Parks, all the giants upon whose shoulders we stand that we are the beneficiaries of that arc bending towards justice.

「(セルマ=モントゴメリー行進の)最初のデモ隊が撤退させられたあと、キング博士はオーガナイザーと活動家、そしてコミュニティの人びとに対してこう述べました。「空を描く天空の弧は長い、だがそれは正義がある場所に向かって弧を描いているのです、だから悲嘆に暮れるべきではないのです」と。そうなるのも、わたしたち一人ひとりが、天空の弧を正義の方向に向かうように行動しているからです。ジョン・ルイス、ファニー・ルー・ヘイマー、コレッタ・スコット・キング、ローザ・パークス、その他もろもろ偉大な人びとの存在があってこそ弧は正義へと向かい、そんな彼ら彼女らの偉業のうえにわれわれは立っています。われわれは、弧が正義へと向かい始めたことの受益者なのです」。

つまり、1966年にははっきりとしていた天空の円弧の方向は、その後一度見えなくなり、2008年11月に再度そもそも向かっていた方向に「曲げられた」のだ、そう彼は述べたいるのだ。

ここの意味の重層性、強烈である。

その次の箇所はこれに比べるとそれほど重くはないが、それでもその時間感覚の表現は絶妙だ。

時制を少し変え、語句を抜き去れば、ここにこんなフレーズが見えてくる。

It's been a long time coming but , , , change has come. . .

こうすれば、リズム&ブルースの好きな人は、すぐにピンと来るでしょう。そうです、サム・クックの名曲、「ア・チェンジ・ゴナ・カム」の歌詞をもじっているのです。この曲は、映画『マルコムX』のなかで、マルコムXが煩悶の末にネイション・オヴ・イスラームを脱会することを決断するシーンで流れる曲でもある。

公民権法が成立した1964年(サム・クックが殺害される年)、クックはこう歌った。

It's been a long, long time coming, but I know, ou, ou, ou, a change's gonna come

ここでのポイントは時制にある。クックが近接未来形を用いた箇所で、オバマは大胆に現在完了・完了形を用いている。1964年公民権法が約束した変化の到来を、44年後に宣言したのだ。

なお、右のCDは、1990年代になって発売されたベスト盤だが、これに収録されている「ア・チェンジ・ゴナ・カム」は、公民権運動の歴史に少しでも関心があるものには必聴のものだ。64年に発売されたシングル盤にはない歌詞が入っているものが収録されていて、その「発掘された」歌詞の部分は、明らかに公民権法成立によって到来した新しい秩序のことを歌っているのである。

しかし、ほんとうにほんとうに実に長い時間だった。

さらにオバマの才覚。キングの演説(YouTubeのリンクを参照)では、"How long, not long”というフレーズが繰り返されている。ブラックパワー宣言が行われ、ロサンゼルス・ワッツ地区では大規模な人種暴動が勃発した1966年の夏、キングは、たちこめる暗雲(と催涙弾のガス)を振り払うかのように、夢が現実となる日まで「長くはない」と断言していた。黒人のキリスト教の伝統のコール・アンド・レスポンスを駆使しつつも、自分で自分に言い聞かせるかのように何度も何度ももそう述べていた。

そう、今回解説している箇所の前半部と後半部は、時間の表現、long によってつなげられているのだ。わかりやすく翻案すると、オバマはこう言っているのである。

「キング博士、あなたは長くはかからないとおっしゃいましたが、実際のところ長くなってしまいました。その間、人びとはシニカルになり、怖れを抱き、猜疑心でいっぱいになっていったのです。でも、それも終わりです、今夜、変化が来たのです、ご安心ください」。

さて、よく英語を聴いて欲しい。中学2年で習う文法が実に巧妙に使われている。クックの近接未来 is gonna come (is going to come) が、オバマでは現在完了 has come になっている。まだ現実でない(近接未来)の実現が完了したのだ。

これは、おそろしく大胆な宣言だ。

こうやってみると、オバマの演説の bottom line にはいつも「アメリカ黒人の経験」が存在しているのがわかるだろう。彼の演説の妙は、それを明示することで黒人の経験の特殊性を主張したりはせず、敢えて比喩や引用にとどめることによって人類普遍の経験を喚起しているところにある。

オバマの雄弁さは、ヒラリー・クリントンとの「死闘」を通じて、一般に知られるようになった。しかし8月の民主党大会の指名受諾演説(それまでの演説を繰り返しただけの間延びした退屈なもの)にがっかりした人は多い。それによって彼が旬だった時期はもう去ってしまったと思った向きも多い。

それゆえ、11月5日未明、わたしはオバマの演説に期待するとともに不安も感じていた。しかし、おそらくいまとなってははっきりとは思い出せないが、この辺りから、「今夜はちがう」と感じ始めたと思う。Tell like it is!、おそらくそう実際に叫んでいた。

ところで、クックの歌い方とオバマの話し方にはかなりの差異がある。クックの歌い方は、ジェシー・ジャクソンらの黒人教会が育んだ黒人指導層の話し方に近い。そう考えると、さまざまな意味をコラージュさせていくオバマの手法はヒップホップ的と形容してもいいかもしれない。

続く

2009年01月10日

オークランドの警官暴力が暗示するもの ── 「ポスト人種」時代の人種問題

20090109_policebrutality2009年元旦のカリフォルニア州オークランド、サンフランシスコ=バークレー=オークランド間を結ぶ鉄道BARTの駅で、警官が無抵抗で非武装の黒人青年を射殺した。広く報道されている画像を見るかぎり、これは幾多ある警官暴力のなかでももっともひどいもののひとつだ。黒人青年は、3人警官から抑え込まれてうつ伏せになっている。その3人のなかのひとりが、ピストルを抜き背後から弾丸を撃ち込んだ。この模様を映している鉄道の乗客の携帯ビデオには、その警官の行動に対する驚きの声までも録画されている。

同地では、NAACPはもとより、市議会議員も先頭に立ち、抗議行動が行われた。自己調査をするのでその報告をまってくれと言っているBARTに件を任せた市警察に対しての抗議だ。そしてその非暴力の抗議は、7日、小さな暴動と化した。

これは1960年代後半の人種暴動や公民権運動の展開と「うりふたつ」だ。オークランドは、また、警官暴力への抗議をきっかけに結成されたブラック・パンサー党発祥の地でもある。抗議デモを行っている人のなかには、「身の回りに注意しろ、警官が近くにいる!」と皮肉を書いたプラカードを掲げているものがいたが、これはパンサー党が抗議デモで用いたものそのものである。

ところが当時とはひとつだけ大きく異なることがある。

現在のオークランド市長はロナルド・デラムス。1940年代に黒人ポーターの労働組合オルグとして社会政治活動を始め、1970年代には同市の「ブラック・パワー」のシンボルにもなった人物。さらにまた、60年代にはほとんどが白人だったオークランド警察は完全に人種統合されている。

人種は社会的構築物であるという認識が広まってから以後頻繁に言われるようになった言葉に「ポスト人種社会」という言葉がある。現代社会は、人種によって分断した社会の「後」に位置するという見方だ。

そして、バラク・オバマの当選は、ポスト人種社会の象徴とさえ思えた。

そこで起きたこの事件。

大統領は黒人である、しかし実際の現状は60年代と何らかわならい、そんな事態の展開をある面では予示しているように思える。

ただし、そんな不安を消し去ってくれるかのような状況もまた、この事件のなかでは見られた。60年代の抗議行動、その後半期になると怒りを抱えた群衆の大半が黒人だった。今回の抗議行動は完全に「人種統合」されていた。白人もまた、残忍な警官の行為に激怒していたのである。

なお、黒人を射殺した警官は、これを書いている時点では、まだ逮捕されていない。

2009年01月20日

歴史的キング博士誕生記念日

20090119julian_bond_small.jpg大統領就任式を明日に控えたワシントンD・Cのモールの夕暮れの模様がテレビに映し出されている。もうかなりの人が集まっており、明日の就任式がいかに巨大なものになるのかを、そしてバラク・オバマ ── このブログで彼を最初に取り上げたとき、まさかこんなに短期間で大統領になるとは思わなかった ── にどれだけ巨大な期待が寄せられているのかを伺わせる。

さて、その就任式イヴにあたる今日は、マーティン・ルーサー・キング博士誕生日記念日の休日だった。したがって、ワシントンD・C、そして実質上アメリカ中が明日のオバマの宣誓の瞬間に向けて、公民権運動が辿ってきた歩みを反芻する機会を得たことになった。

わたしの住んでいるミシガン州アナーバーでもミシガン大学が実に多くの行事を主催した。

そのなかで、これまでわたしが出席したのは3つ。

ひとつめ、「非暴力」が主な戦略となった南部公民権運動のなかにあって、「暴力は暴力で向かい打つ」という発言を行い、アメリカ政府から迫害された末にキューバに亡命したラディカルな黒人活動家ロバート・F・ウィリアムスの研究で有名なティモシー・タイソンの講演。

彼は自分が生まれ育った街、ノース・キャロライナ州オクスフォードでおきた1970年の黒人殺害事件の研究を一昨年公刊し、それはこの夏にはハリウッド映画として公開されることになっている。

彼が強調するのは、アメリカにおける暴力の歴史。いかに暴力が歴史を作り、そしてそれを公的記憶が消し去ってきたのか、これが彼の研究の主眼だ。自分の生まれ育った街の暴力の歴史を「暴露」したところ、激怒する人が現れて、そのような「隣人」たちは悪宣伝サイトまで開設しているらしい。

これを主催したのは歴史学部とアフリカン・アメリカン研究センター

二つめ。NAACP会長、ジュリアン・ボンドの記念講演。今日の午前中に行われた。彼はこんなことを言っていた。「キング博士がムーヴメントをつくったのではなくて、ムーヴメントがキング博士をつくったのです、それは本人も何度も言っていました」(冒頭上部の写真がボンド)

三つ目。キング博士の伝記でピュリツァー賞を受賞したテイラー・ブランチの講演。彼によると、すべてが非暴力の運動から始まったらしい。南アのアパルトヘイト政権崩壊から、1989年の天安門事件まで。そしてそれは明日(オバマの大統領就任)へとつながっていくらしい。なおこれはビジネス・スクールが主催した。

ブランチの講演にはがっかりした。もう非暴力ばかり。非暴力が凄かった、非暴力がすべての運動の「変化」の源泉だった、それしか言わない。

いまこの暴力だらけの世界を見て、どうしてそんなことが言えるのだろう。パレスティナ人がイスラエルの戦車の前で非暴力に徹したらどうなるだろう。

きっと轢き殺される。

オバマの勝利にしてみても、民主的過程(選挙)を保障するには巨大な警察力が必要であり、それが今回は見事に機能したからこそ、民主主義が「動いた」のだ。アメリカの少し前の歴史をみても、2000年の大統領選挙のように、人間の「権利」などは簡単に蹂躙されるものなのだということがわかっていない(天安門を引用しつつ、この峻厳な現実を等閑視しているから驚きだ)。

ピュリツァー賞に輝いたこの歴史家にはホッブス的現実感覚がないようだった。そのようなブランチはアレントの講義を受けたことがあり、アレントは「民主主義とは非暴力だ」と言っていたそうだ。アレントの発言や著作のなかにそう臭わせるところはある。しかし、これはアレントの思想の大きな歪曲だ。ホロコーストの傍で生きた彼女には、「人間が南京虫になるのは簡単だ、それは南京虫のように扱えば済む」という彼女自身のことばがあるように、研ぎ澄まされた現実を見据える眼力があった。しかし、ブランチにはそれがない。

だから、彼は、聴衆のからのこんな問いに答えられなかった。「なぜ、では、アリゾナ州やサウス・キャロライナ州はまだキング博士の誕生日を休日にしていないんですか?」。

ブランチはぜんぜんわかっていない。

他方、今朝CNNテレビに出たクラレンス・ジョーンズ(キング博士の演説草稿の執筆者のひとり)は、オバマ当選の日に泣いたと言っていた。ここでなぜ泣いたかが問題だ。くやしかったらしい。多くの人が死んでいった。そのなかには運動のなかで殺されたものも多い。その人たちとこの日をともにできなかったことが悔しかったらしい。

そういえば、ティモシー・タイソンは、非暴力をロマン化することを歴史家は避けなくてはならないと言っていた。わたしは強くタイソンの意見に同意する。なおタイソンはアメリカ歴史学者協会のフレデリック・ジャクソン・ターナー賞(優れた歴史研究に贈られる褒賞)を受賞している。

2009年01月22日

連邦議会黒人幹部会 Congressional Black Caucus と大統領の関係 ── 多様性 diversity の今ひとつの側面

大統領就任式記念の昼食会でのオバマの挨拶で、名前が言及された人物が二人いる。ひとりはテディ。これは、今年の春に脳腫瘍の手術をし、昼食会が始まるとすぐに倒れたリベラル派のシンボルでケネディ大統領の実弟、エドワード・ケネディのことを。突然のこの事態にあたり、オバマ大統領は、彼の健康の回復を祈った。

もう一人は、ジョン。これは「公民権運動の突撃隊」と呼ばれ、数ある公民権団体のなかでももっとも急進的だった学生非暴力調整委員会のジョン・ルイスのこと。彼は現在連邦下院議員を務めている。

オバマは、この両者の共通点として、自分の当選には1966年投票権法の制定が不可欠であり、それにあたっては、テディ・ケネディが上院議員として、そしてジョン・ルイスが運動家として関係していたことに触れて、簡単な謝意を示したのである。

ジョン・ルイスが参加したセルマ行進では、アラバマ州兵がデモ隊に襲いかかり、彼は頭蓋骨骨折の重傷を負った。そんな彼は、その後のホワイト・ハウスまでの大統領のパレードのときにCNNの解説席に呼ばれ、就任式では涙がでてきたこと、そして運動の最中に投げ入れられた冷たい監獄のなかでは想像すらできなかったことが現実になったと良い、感無量のようだった。

ところが、このブログがかつて紹介しているように、実のところ、ジョン・ルイスはヒラリー・クリントンの支持者であり、オバマ支持に回ったのはジョージア州での民主党予備選が終わったあとである。

彼の場合、「自分の選挙区の民意には逆らえない」という考えが強く働いて、翻意につながっていった。ところが、黒人議員のなかでも、たとえば、下院議院院内幹事の高位の職にあるジェイムス・クライバーンなど、自分の選挙区がオバマに行っていても、最後までクリントンの支持の姿勢を変えなかった者もいる。

つまり、バラク・オバマは、黒人議員の支持を固めているとははっきりとは言えないのだ。彼の大統領就任がまちがいのない人種関係の歴史の新しい時代の幕開けであったとしても。

ここに来て厳しい立場に置かれているのは、そのような黒人議員たちからなる連邦議会黒人幹部会 Congressional Black Caucus (CBC)だろう。これまでCBCは、数ある議会会派のなかでも、もっともリベラルな会派として、もっとも団結した投票行動をとってきた。ところが、大統領が黒人となると、そしてその大統領と政策が噛み合わなくなった場合、会派が統一行動を取れなくなるケースが多いにあり得る。

たとえば、イリノイ州知事が、オバマの大統領就任で空席になった連邦上院議員の席に座る人間を指名する際、もっとも高額の賄賂を贈ってきたものにその席を与えるという汚職行為を摘発され、それでも憲法の規定にしたがって(アメリカではこの場合補欠選挙が行われるのではなく、州知事に任命権が与えられることになっている)公認を任命したとき、その任命された人物 ── 黒人のローランド・バーリス ── の議会出席を民主党幹部が妨害し、大きな問題になった。

このときのオバマの態度は、イリノイ州知事に辞任を求め、別の手段や人間によって後任人事を行うことだった。他方、CBCは、態度を表明できなかった。なぜならば、CBC内部の意思統一ができなかったからだ。

たとえば、かつてはブラック・パンサー党シカゴ支部の幹部であり、2000年の選挙では当時政界に入ったばかりのオバマを簡単に選挙で打ち負かしたこともあるシカゴ選出の連邦下院銀ボビー・ラッシュは、バーリスの承認を拒否しようとする動きには人種主義があるとし、民主党幹部の姿勢を激しく批判していた。他面、この大統領選の初期からオバマ支持をはっきりと言明していたCBC会長のイライジャ・カミングスは、憲政的手続きに則ってバーリスが任命された以上、それを否定することは憲法違反に当たるという意味から民主党幹部を批判していた。つまり、総論賛成各論反対の状態だったのだが、こういうときに行動に出られないのは政治の常だ。

実際のところ、CBCが人種だけに左右される組織だとしたら、もっと自体は簡単だろう。オバマ「候補」に対しても、彼は同会派の会員であるがゆえに、早い段階で一致団結した支持を表明していたはずだ。ところが現実はこれとは異なっていた。

黒人コミュニティ内部はおろか、黒人政治家のなかでさえ政治的姿勢や意見はいまや多様化しているのである。

それでもCBC議員のなかには、これまでは大統領に自分の政治姿勢を黒人の視点から説明する必要があったが、これからはそれがなくなる、と言うものもいる。それでも、今後、CBCとホワイト・ハウスは、おそらくまちがいなく何度も衝突するであろう。そこに見えるのは、このような多様化した社会だ。バラク・オバマの当選自体、アメリカ社会の多様性 diversity の証左だと言われるが、CBCとホワイト・ハウスとの関係もまた、 多様性の今ひとつの側面だと言えよう。

それとも、あまりにも急速に進む多様化に押されて、CBC自体が機能不全に陥るかもしれない。これを書き終えて思ったが、この可能性、実はそんなに低くはないように思えてきた。これが「ポスト公民権時代」の現象であることは間違いないが、果たして「ポスト人種」であろうか。今少し考えてみたい。

2014年08月19日

ミズーリ州ファーガソンについて(1)

このサイトは2000年大統領選挙で起きたことを伝えるために始めました。ずいぶんと休んでいましたが、活発に発言を再開するべきときが来たと感じています。そこで、久しぶりに日本のニュースも賑わしているミズーリ州ファーガソンでの件について。英語で書いた文章をfacebookの方にアップしましたので、こちらにも再掲します。

newyork2014_detroit1942.png

Left: NYPD officers chalk-killing an unarmed African American (2014)
Right: Detroit police officers brutalizing an African American protester (1942) in front of a public housing project.

You can add Rodney King beating in 1991 in LA.

Scenes are so similar, but. . . .

Pundits say that a racial disturbance will lead to conservative backlash, but is it really so?

1943 Sojourner Truth riot in Detroit precipitated coalition building between civic liberals, white unionists, and civil rights activists. This coalition served as a backbone of the Civil Rights Movement. Racial disturbance does not always lead to backlash but sometimes help organize liberal coalitions.

Look closely at diverse crowds protesting killings of unarmed African American males on the TV screen right now. The videos are, more often than not, HD with FULL COLOR. These are not black and white. Then, we can build a coalition which will crush current political stalemate in Washington.

ファーガソンの件については、facebookにおいても発言しています。

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