5-7 ブッカーT主義再考ーーKags Music, Motown, マーカス・ガーヴィ、ブラック・ナショナリズム、Part 2

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20037月30日脱稿

ふむ、何でモータウンからこんな話になるの?、と疑問を持たれている方がいらっしゃるかもしれません。そこで、最初にその意味を明確にしておきます。初期のモータウン・レコーズの特徴は、経営、制作、営業、販促すべてを黒人だけが行う会社でした。サム・クックが創設したKags Musicも同じです。そこで黒人による会社経営の歴史を振り返ると、実業教育を「人種の進歩」の第一歩としたブッカー・T・ワシントンという人物にたどりつくことができます。ところが、例えば邦語で入手できるワシントンに言及している論文や書籍にあたると、彼の評価は「白人優越主義に屈服した宥和主義者」といったものに次々に出会うことになります。しかしながら、彼の教えは決して「宥和主義」として片づけられるものではなく、彼の言を借りて表現すると、「分かれ」てたつ黒い「指」だけで努力をするという行為が北部都市で実践に移された場合、それは黒人だけの国家建設を最終目標とするブラック・ナショナリズムにもつながるミリタントなものに変化するのです。この節では、そのつながりを最も明確に表している人物、レゲエ・シンガーの精神的支柱、マーカス・ガーヴィという人物に焦点をあてます。マキシ・プリーストがBGMで歌っている"Marcus We Love You"のMarcusとはマーカス・ガーヴィのことなのです。(またWeは、アフリカ、カリブ、アメリカ、さらにはヨーロッパや日本に住むアフリカに血縁を持つ人々であることも、ここで指摘しておきます)。

さらにモータウンが創設されたデトロイトは、ブラック・ナショナリズムが極めて強い土地でもあります。ですからなおさらブラック・ナショナリズムの歴史に関して理解しておくことが肝心になってくるのです。

さて、そのガーヴィは、アメリカではなく、ジャマイカに生まれました。時は1887年、したがってデュボイスよりも2世代下になります。

そのガーヴィ思想(Garveyism)を理解するにあたって極めて重要なのが、彼の生まれがアメリカ合州国ではなく、ジャマイカであったということです。合州国では、たとえ南部であっても黒人はマイノリティになります。しかしジャマイカでは黒人は多数派でした。比較奴隷制研究が明らかにしていることによると、そうなったのは、ジャマイカなどのカリブ海域では気候の厳しさ故に不在地主による奴隷制が発展したからでした。疫病にかかる危険性も高く、白人の地主は遠くイングランドから支配権を行使するのみで、プランテーションの日々の経営は黒人奴隷に一任していたのです。

そのような奴隷の労働を監督する奴隷は、プランテーション所有者と血縁があるものが少なくありませんでしたここでカリブ海域独特の人種秩序が生まれます。それは肌の色合いが白くなればなるほど権力・財力を持つことになる、ということです。これは合州国ではニューオリンズやチャールストンという一部の例外を除き、一般化したものではありませんでした。もちろん、スパイク・リー監督の映画『ジャングル・フィーヴァー』や『スクール・デイズ』が描き出しているように、アメリカにも肌の白さと権力の比例関係はそれなりに認めることができますーー合州国史上最高位の政治職に就いた黒人、コリン・パウエルの肌の色を考えてください。しかしそれは決して支配的秩序にはなりませんでしたーー「ネオコン」きってのイデオローグ、コンドーリーザ・ライス国家安全保障担当大統領補佐官の肌の色を考えてください。むしろ合州国では「一滴の血でも黒人の血が入れば、その人物は黒人」という考え方が支配的になり、「黒人である」ということは人種的劣等性と等値されたのです。

そこで、両地域の人種関係を総括し、カリブ型を3層もしくは多層構造(Three or multi-layerd system)、合州国型を2層構造(two layered sytem)と言います。したがって、ガーヴィは、ジャマイカで、人種的には「黒人」にあたる人物が、政治的に大きな力を持つことを、事実として見てきたのでした。このような経験は、当時のアメリカ黒人にはないものです。なぜならば政治力を持つ黒人は、1910年代後半よりやっと出現し始めたにすぎなかったからです。

さて、そのガーヴィはジャマイカの首都キングストンで、ブッカー・T・ワシントンが創設したタスキーギ大学に似た職業訓練校を創設することを思いつき、全世界黒人向上協会(Universal Negro Improvement Associatio, UNIA、ちなみにアメリカでの発音は「ユー・ナイ・エー」、ジャマイカでは「ウニア」)ました。このときまでに彼は、パナマ運河地域で建設工として働き、その後はロンドンに渡り、そこでデュゼ・モハメド・アリというスーダン出身(黒人)の歴史家からアフリカ史を学びことになりました。彼の主張によると、名門のロンドン・スクール・オヴ・エコノミクスの学生だったそうですが、同校の学生名簿が第2次世界大戦の空爆で焼失してしまっために真偽は確かではありません(経歴詐称の可能性の方が高い、とガーヴィ研究者の多くは考えています)。

そこで彼は、1915年にワシントン本人に財政的援助を乞う手紙を送ります。ワシントンはその手紙に対し「アラバマ州へお立寄りの折りには、どうぞ本校をおたずねください」という返事を書きます。ここで人間関係のなかでは恋愛関係を筆頭に実によくあることなのですが、歴史「学」があまり取り上げようとしてこなかった事態が起きます。当時のワシントンの書簡を見ると、同様の資金援助を乞う手紙は多数受け取っており、上の返事はいわば社交辞令としての返信にすぎなかったのです。ところが尊敬する人物から返信を受け取った側はそうは受け取らない。ガーヴィは、社交辞令をマジに受け取り、勇んで合州国に向かったのでした。

このような顛末ですから、いざワシントンを訪ねてみると、「あっ、あれ、マジにとったの」云々言われ、傷心の大ショックになること間違いない(?)のですが、幸か不幸か、彼がニューヨークに到着する直前にワシントンが死去し、その「真実」は知らないまま大都市に取り残されることになります。そこで向かったところが、NAACPの本部(NAACPとUNIA、大きく異なるのがNationalとUniversalだけ、あとは酷似しています)。そこでデュボイスに会うのですが、NAACPの本部のなかのムードにガーヴィはむかついてしまいました。

NAACPは、その歴史を通じて一度も、黒人大衆から支持されたことはありません。黒人エリートと開明的白人が中心になっている組織なのです。さらに黒人エリートの参加も1920年代に進展したものであり、この時点で最高意志決定機関の理事会(Board of Directors)の大多数が白人でした。そのような組織にあって重要な地位を占めているデュボイスを見たとき、真っ黒な肌をしたガーヴィは嫌悪感を感じざるをえなかったのです。デュボイスは、「後進地域ジャマイカ」の実権を握っている白人の血の入った黒人(当時のことばで「ムラトー」と言いますが、いまではこの言葉は侮蔑的トーンがでてしまいます、使用にはご注意を!)にそっくりだ、そうガーヴィには見えたのです。

そこで、アフリカ史をロンドンで学んだガーヴィは、ハーレムの人々に向かってこう訴えます。

「アフリカの大統領はどこにいる?!、アフリカの王はどこにいる?!、アフリカの実業界のリーダーはいったいどこにいる?!」

「アフリカはアフリカ人のもの、アフリカとそのほかの地域に住むアフリカ人のもの」

この2つ目のスローガンは第1次世界大戦後には特に強烈に響きました。なぜならば第1次世界大戦こそヨーロッパ植民地主義を支えたイデオロギーを叩き壊す大事件だったのです。アフリカ植民地支配のイデオロギーは以下のような主張からなっていました。

・資源の豊かなアフリカにはかつて偉大な文明があった。
・しかし怠惰な黒人は、野獣的力はあってもそれを合理的に使うことを知らない
・対して、白人は、強力な肉体的力があると同時に、それを抑制して効果的に使うことができる
・この世界の恵みは、したがってそのような白人の指示のもとに活用されねばならない

ここで今日一般に流布しているイメージと植民地主義とは大きく異なっていることに着目してください。肉体的力においても、白人は黒人より優れていると考えられたのですーーなぜならば知性において優れているので、その強靱な力を効果的に発揮できるからです。

ところが、第1次世界大戦は、欧米列強には「抑制」し「効果的」に力を行使できないことを立証してしまったのです。なぜならば、史上最大の殺戮は、独仏国境、いわゆるマジノ戦での陣地戦、塹壕戦において起きた。最初に「大量殺戮兵器」を互いに使用しあったのは、欧米列強だったのです。数ヶ月で終わると思われた軍事的衝突は4年間にわたる国家総動員戦に変わり、戦地となった中央・西ヨーロッパには戦争での実際の被害のみならず、将来に対する信頼感すらなくなってしまったのです。

それと反比例するように高まったのが、植民地での独立闘争でした。ガーヴィの訴えはそのような心を強く打ったのです。そこで彼は大きな提唱をします。「黒人だけが経営する船舶会社を興し、アメリカ大陸の黒人とアフリカの黒人の通商によってアフリカの再興を目指そう!」。

では、このような訴えはどのようなアクションに繋がるでしょう?。ポイントは「会社を興す」というところにあります。この訴えは、独立を目指した軍事蜂起にはつながらないのです。では「会社を興そう」ということに対し、一般の黒人はどう応じればいいでしょう?。ガーヴィの答は、「株を買おう」ということでした。

このような論理展開で起きた運動は、ところが、わずか4ヶ月で20万ドルの資本金を集めることに成功します。しかも資本金に占める発行株式の比率は100%(経営学に通じていらっしゃる方はすぐにお気づきになられると思われますが、これは極めて「危ない」会社です、その顛末は次回に)。ガーヴィの運動は、ここに大衆運動として大規模に展開していくことになったのです。

字だけで、音楽以外の話が長くなりました。そこで、今回はここまでで止めておきます。次回もガーヴィ主義の説明になりますが、(1)60年代を理解することにとっても、(2)黒人の音楽表現を理解することにとっても、この思想や運動はとても重要なものです。次回の予告と読者のみなさまが再度次回更新の際にもご訪問してくださることを期待し、二つのエピソードを紹介しておきます。

・20世紀の黒人のなかでもっとも強い影響力を持ったカリスマの一人、マルコムXの父親はUNIAのネブラスカ州オマハ支部支部長だった
・現在のデトロイトにある「アフリカン・アメリカン・ミュージアム」ではエジプト文明などの陳列が並び、これは「アフリカン・アメリカン・ミュージアム」ではなくて「アフリカン・ミュージアム」ではないかと思うほどだが、エジプト文明は黒人のものだと最初に大々的に主張したのはガーヴィである。

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。