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黒人人口の変化(その1)——シカゴの黒人人口の「流出」が続く

先週7月3日の日曜日、拙訳の書評が朝日新聞に掲載されました。径書房でのお仕事は、わたしがまだ修士1年以来、実に16年ぶりになります。そのときは、マルコムXのアフォリズム集『マルコムXワールド』で、黒人史年表を書くという仕事でした(物を書くことで初めて収入を得たわたしにとっては一生忘れられないお仕事で、映画公開に併せた最後の追い込みは、やっていてとても楽しいお仕事でした)。同書を監修され、私を起用して下さったアメリカ文学者の佐藤良明先生も、ご自身のブログで批評とともに紹介してくださっているので、これらの内容について、いずれここで、まとめて語りたいと思います。

さて、今日は、かつてのこのブログの調子に戻ろうと思います(と、いうので文体変更)

この春頃からアメリカの新聞では黒人人口の北部都市離れが数多く報じられている。2010年国勢調査(センサス)の数値に基づいて政策が策定される時期に入ったのがその原因であるが、このような報道のなかには大都市が連邦政府から受けている助成金が大幅削減される水準にまで人口が落ち込んだデトロイトのケースなど、かなりショッキングな数値も多い。

南北戦争勃発以後、一貫して南部から北部へ、農村から都市へと動いていたアフリカン・アメリカンの人口は、1990年のセンサスで初めて「南部への回帰」とも思われる徴候が現れた。それから20年、黒人の人口動勢は、どうやらはっきりと北部から南部へ、都市中央部から郊外へと向きを変えたようだ。これはまさに「歴史的」と形容できる変化である。

このなかで、紹介したいのは、7月1日にAP通信が報じたニューヨークに関する記事と、7月2日に『ニューヨーク・タイムズ』が報じたシカゴに関する記事Black Chicagoans Fuel Growth of South Suburbsである。ここには、かつてさまざまなメディアに溢れたアメリカの都市の地景——たとえば、スパイク・リーの映画に出てくる混乱していても活気溢れるブラック・コミュニティであったり、「24時間犯罪現場密着追跡」のようなタイトルののぞき見主義丸出しのテレビの特番に描かれる黒人ゲトー——が急速に過去のものになっていっていることが現れている。

今回は、この二つのなかでも、より大きな動勢について書かれている『ニューヨーク・タイムズ』の記事について述べてみたい。

ファンクバンドのパーラメントは、1975年に、Chocolate Cityというタイトルのアルバムを発表した。このタイトル曲、Chocolate Cityは、アメリカの都市——わけてもこのアルバムにおいてはワシントンD・C——の有り様を、「チョコレート色の街とバニラ色の郊外」と表現し、チョコレート・シティで花開くファンク・ディスコ文化を賛美した。この色彩豊かな表現は、実のところ、アメリカの都市がデファクトの人種隔離状態にあったということを物語っていた。チョコレート色とは黒人の肌の色、バニラ色とは白人の肌の色を指す。

アメリカの都市、わけても北部・中西部の住宅の人種隔離に関する研究は多い(そのなかの優れた研究のいくつかは日本語の翻訳も出ている)。わけてもシカゴは、都市と黒人文化、そして黒人の社会政治運動に関心をもつ人びとの主な焦点になってきた。わたしがそこに住んでいた1990年代半ばも、おそらくその基本的構図は変わっていなかったと思う。たとえば、ループ地区の中心にあるデパート、メイシーズ(当時はマーシャル・フィールズ)の前にあるバス停に夕刻に立ち、バスに乗り込む人を見れば、それはよくわかった。北や北西に向かうバスに乗るのはほとんどがコーケージャン、対して南や西に向かうバスに乗るのはほとんどがアフリカ系だった。当時のわたしはサウスサイドの59丁目に住んでいたのだが、夜11時を過ぎると、南に向かって走ってくれるタクシーを捕まえるのに苦労したことも多い。学部学生当時にバンドを一緒にやっていた友人が遊びに来てくれたので、バディ・ガイが経営しているブルーズ小屋(Checker Board Lounge--当時はハイド・パークではなく、サウスサイドのど真ん中にあった)に行こうとして何台もタクシーに乗ったが、最終的に連れて行ってくれる運転手にめぐり遭うまでとても長い時間がかかり、さらにはそのブルーズ小屋から帰るのに電話で読んだタクシーを3時間(!)も待たなくてはならなかった。しかし、どうやらその構図に大きなとは言えなくとも、意義深い変化が現れているようだ。

シカゴ市の人口は、2000年から2010年までのあいだに、約20万人減少した。この減少した人口のうち、18万1千人が黒人である。この10年間のあいだに同市の黒人人口は、比率にして17%も減少したのだ。

『ニューヨーク・タイムズ』紙の報道によると、この人口流出を促した要因は二つ。ひとつは、日本でも予測できることではあるが、サブプライム住宅市場のクラッシュに伴う抵当物件差し押さえの増加。つまり、単純に言って、不況のため都市に住めなくなったという要因。そしていまひとつが、日本的環境ではまったく馴染みのないこと、低所得者向け高層公共住宅の取り壊しとそれに伴う住民の立ち退き(ちなみに、これはこの記事では触れられていないが、シカゴの2016年オリンピック立候補は、めずらしくループ北側の高級住宅地ゴールドコーストに隣接した地区に建設されていたカブリニ・グリーン・ホームズという「悪名高い」公共住宅を取り壊すことで可能になっていた)。低所得者という経済的階層は、この都市のなかにあっては、かなりの確率でアフリカ系を意味する。

この記事で描かれている図式は簡単に言うとこうなる。差し押さえ物件の増加と、それの低迷する住宅市場での売り出し(つまり住人のいない物件の増加)が、都市中央部(インナー・シティ)にあった中上流層向けの住宅地——2000年代初頭の住宅バブルのときに開発されていた——の魅力を乏しいものに変えた。これと同時に進行した公共住宅の取り壊しは、インナー・シティの「マイノリティが住む低所得者住宅地」にさらなる低所得者を「流入」させることになった。そこで生じたのが、マイノリティの中間層の郊外への「脱出」である。

シカゴ郊外のマッテソン Mattesonの街に、サウスサイド96丁目から引っ越してきたある人物は、こう語っている。「シカゴの市内には中間なんていうものはありません。デイレー[前]市長の政策は、ずっと噂されていたこと、つまり中間層の浸蝕政策というのがほんとうの姿だったのです。リッチになるか、プアになるか、そのいずれかだったのです」。

このようなアメリカ社会の実態は、ベストセラー『貧困大国アメリカ』でも詳述されていることであり、経済格差の拡大といったテーマ自体、今日となっては何の新規さもないものである。しかし、ここでこの記事をほんの少し詳しく見れば、ブラック・アメリカに生じていることの深層が垣間見ることができる。ほんの少し詳しくみよう、マッテソンの位置から。

イリノイ州の南、もしくはインディアナ州の側からシカゴに接近して行くと、シカゴ都市圏に入ったと思う特定の地点がある。それは、おそらく東西に走るI-80かI-94を越えて北に進んだときだ。これを越えると東西に伸びる通りの名前も急にシカゴ市中心部から続く連番が増えてくるし、ハイウェイも有料のものが現れてくる。道の両端が壁で仕切られ、場所によっては高架道になるなど、はっきりと都市に入ったとわかるようになる。しかし、マッテソンは、これより南に位置する。市民活動家だったバラク・オバマがその活動の拠点としていたアルゲルト・ガーデンズは、このマッテソンより北側、シカゴ市中心部とのほぼ中間あたり。つまり、ここは、郊外suburbというよりも、exurbや”outburb”というところに位置する。そのようなところで、黒人人口の増加率は85%に達し、19,000人の総人口のうち15,000人が黒人になった。他方、白人の人口は、4,000人から2,800人に減少しているのである。

この記事のなかで興味深いのが、移ってきた住民が、その理由に都市の荒廃をあげているところ。

ブラック・アメリカの歴史的経験を捨象して考えるならば、荒廃した居住環境を去るということに殊更不思議な点はない。しかしながら、郊外への居住が人種的偏見の壁に阻まれ、黒人がインナー・シティのゲトーに住まざるを得ないとき、彼ら彼女らにとって政治社会的に現実的な戦略は、都市の政治的権力を握ることだった。その戦略にしたがって大衆を動員するには、人種的アイデンティティを強める「ブラック・コンシャスネス」はきわめて重要だった。しかし、いまや都市の政治を握ることよりも、その地を去ることをインナー・シティの住民は選ぶことができ、現実にも選び始めたのである。

1987年、シカゴ最初の黒人市長、ハロルド・ワシントンが在職中に死去して以後、黒人がこの市の市長に当選したことはない。現職のリチャード・デイレーが出馬しなかった2011年2月の市長選では、黒人候補の当選が予測され期待されたが、「黒人の統一候補」を擁立するための話し合いも難航するなか、白人のラーム・エマニュエルが市長に当選した。この市にあって、ひとつの政治運動を形成できるほど強力な人種的紐帯は、もはや存在していない。

シカゴのこのような情況はおそらく全米の都市各地で起きていることだろう。そう考えてくると、2008年の大統領選挙で、オバマが黒人の96%もの支持を集めたという現象の方がむしろ奇異なものに思える。2012年、彼がここまで強く黒人有権者から支持される可能性は、それほど高くはない。

いささか古い言葉だが、スチュアート・ホールが〈人種〉について定義したつぎの言葉が響いてくる。

Race is a modality in which class is lived.

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2011年07月10日 16:21に投稿されたエントリーのページです。

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