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2000年05月24日

書評 Suzanne E. Smith, Dancing in the Street: Motown and the Cultural Politics of Detroit

書評

Suzanne E. Smith, Dancing in the Street: Motown and the Cultural Politics of Detroit (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1999).

モータウン。「サウンド・オヴ・ヤング・アメリカ」としてヒットチャートに次から次へと曲を送り込んだ1960年代を代表するインデペンデント系レコード会社。その話は、同時期にクライマックスに達した公民権運動、ならびにその運動が引き出した社会変革と黒人の地位の向上と複雑に交錯している。同書は、モータウン興隆をデトロイト黒人ゲトーのコミュニティ史のなかに位置づけることによって、その歴史的意味を明らかにしようと試みたものである。

このような目的はほぼ達成されている。その点において、これから〈モータウン史〉--そのようなカテゴリーがあればの話だが--に接するものにとって、同書が必読文献になることはまちがいない。これに先行するモータウンに関する書物、たとえばネルソン・ジョージの『モータウン・ミュージック』などに較べ[1]、同書では社会経済的文脈・分析がはるかに詳細な形で織り込まれいて、モータウンに対する最初の学術研究の一つにあげてもほぼ支障はない[2]。

事実、著者スザンヌ・スミスが乗り越えようとしたものは、極めて魅力的で面白い〈モータウン物語〉、ネルソン・ジョージの『モータウン・ミュージック』であったはずである。しかし、 ネルソン・ジョージの著作はしばしば黒人史の側面から「単なるノスタルジアに過ぎない」と批判されてきた。だが長らくこの著作を乗り越えようとするものは出現しなかった。ジョージの著作には、黒人史、とくに黒人の抵抗思想史を学んだものにとってとても豊かな研究素材になりそうなエピソードがふんだんに散りばめられている。たとえば、モータウンの設立者、ベリー・ゴーディ・ジュニアの父親が経営していた雑貨屋の名前は「ブッカー・T雑貨店」と言う名前であったらしい。ここで黒人史家--と言うよりも、黒人研究者とほとんどのアフリカ系アメリカ人--が、政治的アジテーションによって公民権獲得を目指すのではなく、地道な努力を積み重ねることによってまずは経済力を確保し、政治的行動よりも経済的〈自助努力〉の方が優先すると説いた、黒人の教育者ブッカー・T・ワシントンの名前を思い起こすのはほぼ条件反射的になされることである。その後ゴーディがモータウン製品のディストリビューションにあたって権限を保持しようと必死に努めたことからもわかるように、モータウン・レコーズとは、黒人の経済的自律性を説くブッカー・T主義の最良の成果であったのだ。ところがこのエピソードに飛びつき、議論を深めようとするものはいなかった。

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2000年08月20日

書評:Gerri Hirshey, Nowhere to Run

Gerri Hirshey Nowhere to Run: The Story of Soul Music (New York: Da Capo Press, 1994)

白人による黒人音楽パフォーマーのインタービュー集である同書はきわめて興味深い論点を提示してくれている。60年代のR&B、ソウルを扱った同様の著書とはまったく異なった「トーン」が、この本にはある。それは、1960年代というきわめて感情的思い入れが強い時期に興隆したソウルを語るにあたって、ハーシーはなにひとつ同時代的論考をしていない、という点である。

評者は、スザンヌ・スミスの著書の評する際に、ネルソン・ジョージの二大作は「単なるノスタルジアに過ぎない」という批評がなされているという事実に関して言及しておいた。今日の都市ゲトーは、60年代のそれとは異なり、上・中流階級が心地よい住宅環境を求め郊外へ「脱出」したあとのものである。したがって、かつてのゲトーには生き生きとした〈文化〉が存在していたのに対し、今日のゲトーにはその〈文化〉の担い手になれる資力・能力が(一部のヒップ・ホップ・アーティストを除くと)存在しない。そのような現状をふまえた上でかつての〈黒人コミュニティ〉、ならびにこのコミュニティが生んだ文化を論じると、どうしても「古き良き日々」を語ってしまうトーンになりがちである。

この本は60年代に立ち返らないことによってノスタルジアに陥ることを巧妙に避けている。著者の視点は必ず1994年という時点におかれ、過去を振り返るのはアーティスト当人である。そしてアーティストたちの言葉の底辺に流れるのは「時代は変わった」というものであり、彼ら彼女らは過去の人種隔離の存在した時代をノスタルジックに振り返ることなく、黒人音楽がアメリカ文化の主流となった現在を楽しく生きている。マーサ・リーヴスはモータウンの南部ツアーの際に、白人優越主義者からバスが銃撃された事件を語っているが[1]、そこにもどこかしら人種主義を嘲笑う余裕がある。白人優越主義者がわがもの顔で南部を闊歩した時代は、確実に過ぎ去ったのだ。

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2007年06月08日

ふと思い出した名作映画

ジム・クラークのことを、一晩考えて、ある映画(アカデミー賞をいくつかとった名作のひとつ)を思い出した。

それは、シドニー・ポアチティエ主演、『夜の大捜査線』。

ポアティエ扮する主人公は、南部の田舎町の駅で乗り継ぎの電車を待っていた。偶然、近くで殺人事件が起き、その地の保安官は頑迷な白人優越主義者だった。それで、駅にいたポアティエを浮浪者として逮捕し、殺人事件の犯人にしようとした。ところが、ポアティエにはアリバイがあり、そのうえ、彼は、シカゴの敏腕刑事 plain cloth pliceman だった。(バカな人種の)「ニグロに刑事がいるか」と保安官は豪語、そこでポアティエは、シカゴ警察の上司に直接電話、その事実を証明する。保安官は、「野蛮な人種」の黒人が警官であること、さらには田舎警官の自分より遙かに高給取りだということに強い反感を憶えた。

話が妙な展開をするのは、それから後。シカゴの上司は、市民生活の保護に努めている同志として「捜査に協力すること」をポアティエに命じた。これで、田舎者の白人優越主義者でまぬけな保安官と黒人の敏腕刑事の「ドタバタ劇」が始まる。

当初、保安官は、もちろん、「野蛮な人種」の「協力」を拒否した。ところがところが、殺害された人物は地域の富豪、その奥さんは北部出身の「セレブ」だった(この時代設定で北部出身の富豪となると、それは「リベラル」を意味する)。

しかも、ポワティエ扮する刑事は、シカゴの都市で鍛えられた敏腕を発揮、初期捜査での不備を指摘し、それを補うために次から次へと対策を立てていく。それを目の当たりにした夫人は、ポワティエが捜査に協力、否、指揮することを強く望む。地域の名士の奥さんの望みだから、保安官は断れない。ドタバタ劇は続かざるをえない。そうしたところ、やがて、保安官は、「ニグロ」の刑事から、捜査の技術をいうものを「学ぶ」という経験をしていく。

結局、そのふたりの努力あって、事件は解決する。

その間、ふたりは自分の生い立ちを話し合い、ひとりの人として触れあうときが何度もあった。それで、ふたりがわかったことは、両者とも貧しい家に生まれながら、世の中を少しでも良くしようと警察官になったということ。このときにこころは通じ合った。

だが、映画ではずっと罵りあう。つまりお互いが自分の感情に素直になれなかったのだ。保安官は「ニグロは大嫌いだ」と言って憚らないし、ポワティエはこんな田舎者の人種主義者 bigot の近くにはもういたくない、という感情を露骨に表す。

それでも、最後にふたりが素直になるときがある。それは、ポワティエがシカゴに帰るために駅のプラットフォームに立ったとき。ポワティエを駅まで送ってきた保安官は思わずこう訊いた。「次、この街を通りかかるのはいつだい?、そのときは連絡してくれ」。

さて、ポワティエは何と答えたか…。とても心温まる会話が交わされる。そのときのふたりの表情がたまらない。

ちなみにこの映画のテーマソングを歌っているのは、御大レイ・チャールズ。是非、一度観てほしい。世の中捨てたものじゃない。

2007年06月25日

書評 ジェームス・M・ヴァーダマン『黒人差別とアメリカ公民権運動』

書評

ジェームス・M・ヴァーダマン
『黒人差別とアメリカ公民権運動 ── 名もなき人びとの戦い』(集英社新書)

最近流行の「新書」の形で、アメリカ黒人史、わけてもわたしが専門としている公民権運動関係のものが出版された。同様のテーマが、一般読者に求めやすい形で出版されるのは、1993年に岩波新書から出版された辻内鏡人・中條献『キング牧師──人種の平等と人間愛を求めて』、1994年に講談社新書から出版された上坂昇『キング牧師とマルコムX 』以来、10年以上もの時間を閲してのことになる。学生の関心も高く一般のあいだでの認知度も高いこの運動に関して、取りつきやすく理解しやすい筆致で書かれた書籍は、実のところ少ない。

本書は、その意味でおいて、きわめて貴重な存在であるし、大学で教員を務めているわたしは、さっそく今季から授業で使うことになろう。わけても、エメット・ティル・リンチ事件や、リトル・ロック危機ミシシッピ大学とジェイムス・メレディス、ミシシッピにおける SNCC の運動を、このように詳細に述べている邦語の文献は類をみない。このサイトの訪問者にも、強くお勧めする。(おそらく参考にしている2次文献が同じなのだろう、私が「リズム&ブルーズの政治学」で語っている内容と本書との間に事実関係上の齟齬はほとんどない)。

その上で、本書の問題点をいくつか指摘したい。まず、訳語の問題。訳者の水谷八也は、おそらく segregationist に「差別主義者」という訳語を与えているように思われる。しかし、これは本来、「人種隔離論者」とするべきではなかろうか。訳者は、segregation に対しても、ある時には「分離」あるときには「隔離」と訳語を使いわけているが、この南部史特有の言葉を日本語にこのように「意訳」してしまてっては南部社会の本質が見えてこない。具体的にその一例を挙げよう。本書163頁にこのような訳がある。

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2009年01月20日

歴史的キング博士誕生記念日

20090119julian_bond_small.jpg大統領就任式を明日に控えたワシントンD・Cのモールの夕暮れの模様がテレビに映し出されている。もうかなりの人が集まっており、明日の就任式がいかに巨大なものになるのかを、そしてバラク・オバマ ── このブログで彼を最初に取り上げたとき、まさかこんなに短期間で大統領になるとは思わなかった ── にどれだけ巨大な期待が寄せられているのかを伺わせる。

さて、その就任式イヴにあたる今日は、マーティン・ルーサー・キング博士誕生日記念日の休日だった。したがって、ワシントンD・C、そして実質上アメリカ中が明日のオバマの宣誓の瞬間に向けて、公民権運動が辿ってきた歩みを反芻する機会を得たことになった。

わたしの住んでいるミシガン州アナーバーでもミシガン大学が実に多くの行事を主催した。

そのなかで、これまでわたしが出席したのは3つ。

ひとつめ、「非暴力」が主な戦略となった南部公民権運動のなかにあって、「暴力は暴力で向かい打つ」という発言を行い、アメリカ政府から迫害された末にキューバに亡命したラディカルな黒人活動家ロバート・F・ウィリアムスの研究で有名なティモシー・タイソンの講演。

彼は自分が生まれ育った街、ノース・キャロライナ州オクスフォードでおきた1970年の黒人殺害事件の研究を一昨年公刊し、それはこの夏にはハリウッド映画として公開されることになっている。

彼が強調するのは、アメリカにおける暴力の歴史。いかに暴力が歴史を作り、そしてそれを公的記憶が消し去ってきたのか、これが彼の研究の主眼だ。自分の生まれ育った街の暴力の歴史を「暴露」したところ、激怒する人が現れて、そのような「隣人」たちは悪宣伝サイトまで開設しているらしい。

これを主催したのは歴史学部とアフリカン・アメリカン研究センター

二つめ。NAACP会長、ジュリアン・ボンドの記念講演。今日の午前中に行われた。彼はこんなことを言っていた。「キング博士がムーヴメントをつくったのではなくて、ムーヴメントがキング博士をつくったのです、それは本人も何度も言っていました」(冒頭上部の写真がボンド)

三つ目。キング博士の伝記でピュリツァー賞を受賞したテイラー・ブランチの講演。彼によると、すべてが非暴力の運動から始まったらしい。南アのアパルトヘイト政権崩壊から、1989年の天安門事件まで。そしてそれは明日(オバマの大統領就任)へとつながっていくらしい。なおこれはビジネス・スクールが主催した。

ブランチの講演にはがっかりした。もう非暴力ばかり。非暴力が凄かった、非暴力がすべての運動の「変化」の源泉だった、それしか言わない。

いまこの暴力だらけの世界を見て、どうしてそんなことが言えるのだろう。パレスティナ人がイスラエルの戦車の前で非暴力に徹したらどうなるだろう。

きっと轢き殺される。

オバマの勝利にしてみても、民主的過程(選挙)を保障するには巨大な警察力が必要であり、それが今回は見事に機能したからこそ、民主主義が「動いた」のだ。アメリカの少し前の歴史をみても、2000年の大統領選挙のように、人間の「権利」などは簡単に蹂躙されるものなのだということがわかっていない(天安門を引用しつつ、この峻厳な現実を等閑視しているから驚きだ)。

ピュリツァー賞に輝いたこの歴史家にはホッブス的現実感覚がないようだった。そのようなブランチはアレントの講義を受けたことがあり、アレントは「民主主義とは非暴力だ」と言っていたそうだ。アレントの発言や著作のなかにそう臭わせるところはある。しかし、これはアレントの思想の大きな歪曲だ。ホロコーストの傍で生きた彼女には、「人間が南京虫になるのは簡単だ、それは南京虫のように扱えば済む」という彼女自身のことばがあるように、研ぎ澄まされた現実を見据える眼力があった。しかし、ブランチにはそれがない。

だから、彼は、聴衆のからのこんな問いに答えられなかった。「なぜ、では、アリゾナ州やサウス・キャロライナ州はまだキング博士の誕生日を休日にしていないんですか?」。

ブランチはぜんぜんわかっていない。

他方、今朝CNNテレビに出たクラレンス・ジョーンズ(キング博士の演説草稿の執筆者のひとり)は、オバマ当選の日に泣いたと言っていた。ここでなぜ泣いたかが問題だ。くやしかったらしい。多くの人が死んでいった。そのなかには運動のなかで殺されたものも多い。その人たちとこの日をともにできなかったことが悔しかったらしい。

そういえば、ティモシー・タイソンは、非暴力をロマン化することを歴史家は避けなくてはならないと言っていた。わたしは強くタイソンの意見に同意する。なおタイソンはアメリカ歴史学者協会のフレデリック・ジャクソン・ターナー賞(優れた歴史研究に贈られる褒賞)を受賞している。

2011年06月21日

『ストークリー・カーマイケル自伝』

それなりに面白いところはあったが、なかなか読み進むことができなかった。700頁の自伝、読み終わるまで結局3年費やす。

60年代後半のSNCCの内紛等、肝心なところにほとんど言及なし。この『自伝』で語られていることは、すでに他のところで語られていた。

2015年01月20日

お知らせ

下にも記していますが、ファーガソンでの黒人少年殺害、ニューヨークでの黒人絞殺などの時事的な問題について、このところはフェイスブックにて発言をしております。というのも、関連記事へのリンクが容易でわかりやすいからです。


それでもこちらのブログも、ほんとうに再開させることを真剣に考えないといけません。そこで新たな試みをすることにします。黒人研究にあたって話題の書籍について、その読後感想を、自分の研究ノートもかねて、ここに少しずつ記すことにします。

今回はその第一回で、ウィリアム・ジュリアス・ウィルソンのもとで学んだ社会学者による、シカゴのサウスサイドにエスノグラフィ。Mary Pattillo, Black Picket Fences: Privilege and Peril among the Black Middle Class (Chicago: University of Chicago Press, 1999)

同種のエスノグラフィには、同じくシカゴ社会学のスディール・アラディヴェンカテッシュによる『アメリカの地下経済―ギャング・聖職者・警察官が活躍する非合法の世界』があり、邦語訳も慣行され、日本においても知っている人は多いはずである。ここで紹介するパティーロの研究は、黒人の貧困層の「逸脱行為」に焦点を当てる研究が多いことを批判的に捉え、むしろミドルクラスがいかなる社会経済的環境に住み、どのような規範をもっているのかの解明に焦点をあてたところに特徴がある。その内容は以下の通り、


【梗概】
・社会学・政治学の研究は、わけても1980年代以後、貧困層にもっぱら焦点を当ててきた。その結果、黒人ミドルクラスはかつてのゲトーから「脱出した者たち」という簡単な規定を受けるに留まり、その内実の研究は疎かにされてきた。しかし、黒人ミドルクラスの研究は重要である。
・黒人ミドルクラスの経験は、白人のそれとは質的に異なる。黒人ミドルクラスは、実態としての住宅地の人種隔離が存在しているために、貧困層と近接して住む傾向がある。1970年代以後のアメリカ経済の低成長は、それまで続いてきたミドルクラスの増加に終止符を打った。この情況が隔離された生活圏と重なったとき、黒人ミドルクラスは、白人とは異なり、強い下方圧力を経験することになった。たとえば、黒人の場合、ミドルクラス家庭出身であろうと貧困家庭出身であろうと、同じ公立学校に通う傾向がある。同じミドルクラスでも白人の場合、白人貧困層とは居住地が異なるために、このような事態は生じてはいない。
・したがって、アメリカ経済のリセッションに対する黒人の対処法は、白人のそれとは異なることになる。それは、拡大家族のネットワークを活用するという柔軟な対応策を採る場合もあれば、ギャング活動やドラッグ売買といった犯罪性の強い対応策へ向かうケースもある。
・黒人青少年は、白人とはまったく異なり、ギャング活動に対する直接の経験と知識を持っている。黒人ミドルクラス家庭は、子供たちをそのような活動から遠ざけようとはするのだが、しばしばそれは成功していない。
・しかし、同書がリサーチ対象に選んだコミュニティでは、ギャングの存在は地域の治安維持に貢献するといった肯定的な側面も持っている。また、顔を向き合わせた親密な関係がまだ特徴的であるこのようなコミュニティにおいて、ギャングはしばしば親しい「横丁の少年」でもあり、年長の住民たちのギャングに対する勘定はアンビヴァレントなものにならざるを得ない。

【感想】
同書におけるギャング活動やヒップホップ文化に関する記述は、黒人の犯罪性というステレオタイプを強化しかねない。犯罪行動は社会経済的な混乱や苦境へのクリエイティヴな対応であるということ、これは社会科学においては通説であろう。ところがしかし、それが一般社会の「常識」にフィットした感覚かというと、そうではないはずだ。ここで述べられている現象が事実だとすると、それをどのように記述するのかこそが大きな問題であろう。

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