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2007年05月 アーカイブ

2007年05月05日

ブログ更新

これまで、ライブドアブログを借りて運営していおりましたこのコーナー、自作ブログに完全移行しました。ブックマークやお気に入りの登録をされている方は、改めて新規登録をお願いします。

また、メインサイトでの更新履歴も、こちらのブログに掲載することにしました。気張らずに更新の頻度を上げることを、これからは目指していきます。(過去の更新履歴)

サイト更新

以下のページを更新しましした

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・業績一覧

2007年05月09日

トップページ更新

トップページを更新しました

2007年05月10日

ヒップホップと「黒人」大統領候補

20070510snoop.jpg既に各種のメディアが報じている通り、2008年大統領選挙では、人種的には「黒人」に属しているバラック・オバマ上院議員が民主党の最有力候補として浮上してきている。ここで私は「黒人」、と、カッコつきで彼の人種的アイデンティティを記したが、簡単にその理由を説明しよう。

 彼の父親はケニア人、母親はヨーロッパ系アメリカ人である。その後、父親はケニアに帰国し、オバマはハワイで育った。ハワイと言えば、アジア系の人口比率も高く、彼が育ったのは「黒人ゲトー」ではない。さらには、その後の彼はハーヴァード大学ロースクールに進学し、シカゴ大学ロースクールで教鞭を執った。つまりある意味においてエスタブリシュメントの一員である。もっとも、シカゴ時代に、極めて献身的法律家として市民運動を支援したというキャリアはもっているものの、彼のキャリアはそれまでの黒人政治家と大きく異なる。そんな彼は、ヒップホップ・アーティストの語彙を批判することで、ヒップホップ界の重鎮、ラッセル・シモンズと対立することになった。

奇妙なことに、その論争の発端は、白人のトークショー・ホスト、ドン・アイムズが放った、おぞましい発言にある。アイムスは、多くが黒人女性のプレイヤーからなるルトガース大学のバスケットボールチームを形容し、「ちりちりの毛をした売女の軍団」"kinky-haired bunch of ho"と語った。これがネットワークテレビに流れてしまい、公民権運動家・黒人政治家の猛烈な抗議のなか、数々のネットワークテレビが彼との契約を破棄することになった。

これより以前、バスケットボールチーム関係で言えば、シカゴ・ブルズが全盛だった1990年代中頃、ネットワークテレビのスポーツ解説者が「黒人はバスケットボールが得意だ、なぜなら腰の位置が高い、そうしたのも棉畑で良い労働者になるように白人主人が奴隷を「交配」したからだ」といった発言を行い、同じく喧々囂々の抗議のなか解雇されたということがある。

しかし、このとき、そのスポーツ解説者の発言を聞き、「あぁ、そうだね、黒人は腰が高いね」などと言う「黒人」はいなかった。ところがこの度は、バラック・オバマがドン・アイムスの意見には一理がある、という発言を行ったのである。

オバマは、「「ちりちりの毛をした売女の軍団」という発言を非難するには、同じ言語を使用しているヒップホップの歌詞を非難しなくてはいけない」と語っている。さらに彼はこう言う。

「黒人たち自信が認めなくてはなりません、「売女」"ho"という言葉を聞いたのはこれが初めてのことではないということを。ラジオのスイッチを入れてください。同じ言語を使っている歌の数は夥しいし、そのような歌が家の中、学校の教室、iPodのなかで流れるのを許しているではないですか」。

このようなオバマの発言は、当然、ヒップホップ世代の批判の対象になった(このヒップホップ世代対公民権世代の社会認識に関しては、ついこのほど、筆者は最初の試論を著した)。デフ・ジャム・レーベルの創始者、ラッセル・シモンズが言うには、「そもそもそのような言葉を発しなくてはならない環境の改善を考えるのが政治家の仕事ではないか、ラップの歌詞を批判するのはやめてくれ」となる。

さらには、"ho"という言葉を連呼することでは、おそらく悪名高いラッパーのひとり、スヌープ・ドッグはこう言う。

「全然背景が違うじゃないか、教育やスポーツで成功し、高いステージに昇った女学生のことを俺たちがそう呼んでいるのではない。俺らは街角でやばいことばかりやっている奴らのことを"ho"と呼んでいるんだ。ニガを見ると金をぶんどることしか考えないバカ女のことを言っているんだ」。

ここでわたしは「ニガ」という言葉を使った。これは原文では"n.-a"と記されている。さて、かかる婉曲語法を使って何が起きるだろうか…。

その後、シモンズは、オバマへの批判を和らげ、いわゆる「Nから始まる言葉」や"ho"といった言葉を、レコード会社が自主的に規制し、ラジオ局は「ピー」という音で消すように提言している。これでこの言葉が消えるだろうか。この言葉が極めて攻撃的な侮蔑的言葉として、その毒牙が「ピー」で消えるのだろうか?。わたしはそう思えない。

既発表の論文で引用したばかりだが、その昔、2Pacはこう断言した。

「ニガーNiggerとは首にロープを巻かれて木から吊される奴ことだ。俺はニガNigga。ニガの首には純金のネックレスがぶらさがっている」。

2Pacの大胆な姿が恋しい。

2007年05月11日

公民権運動と「白人」

5月6日づけの『ワシントン・ポスト』紙によると、1961年に行われた運動、「フリーダム・ライド」の参加者たちの「同窓会」が開催され、運動参加者たちが当時の体験談を語ったパネルの模様を伝えている。この記事は、その後「黒人指導者」や政治家として運動家としてのキャリアを進んでいったものたちと較べた上で、この会合に集まった人びとのことを、「褒め称えが足らない英雄たち」"Unsung Heroes"と形容している。わたしも、ここ数年間、幾度かこのような運動家たちの「同窓会」に参加する機会を得、そこでさまざまな人びとに出会ってきたが、アメリカ史上最大級の大衆運動である公民権運動の支柱になったものたちは、まさにこのよう"Unsung Heroes"たちに他ならない。

この記事が、そのような「英雄たち」の中でも、光をあてているのが、南部生まれの白人たちである。公民権運動といって多くの人びとが連想する光景は、非暴力デモ隊に襲いかかる警察犬や高圧放水である。そこでは黒人と白人は対立するもの、憎しみあっていたものとして描かれている。しかし、運動の現実は、それとは大きく異なった。

それは、60年代前半期の非暴力運動にかぎられたことではない。たとえば、しばしばブラック・ナショナリスト団体として形容されることが多いブラック・パンサー党にしてみても、彼ら彼女らの周りにはニューレフトの白人活動家がいつも存在していたし、そもそも同党の結党メンバーのひとりは、リチャード・アオキという日系人である。

60年代の運動の力学は、保守対リベラル、白人対黒人、南部対北部といった対項では把握することはまったく不可能であるし、これまでの研究のなかでも、アオキの件を除けば、このような事実はもちろん触れられてきている。しかし、やはりなぜか研究者はこの対項を知らず知らずのうちに用いてしまう傾向がある。この領域の研究にに必要なのは、そうならない別種のボキャブラリーであろう。

2007年05月12日

42年後の訴追とTruth Commission

20070512selma.jpg
私がシカゴにいた頃、Ghost of Mississippiという映画が公開された。その映画は、1963年にミシシッピで起きた公民権運動指導者の暗殺事件の犯人を、アレック・ボールドウィン扮する地方検事が歴史家たちとともに特定して起訴、有罪判決を導くというものだった。そして、それは史実に立脚している。

その後、アメリカ中にショックを与えたバーミングハム市の教会爆破事件(3名の少女が犠牲になった)の犯人、そして映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった1964年の公民権運動家3名の殺害者等々、1960年に起きた夥しい暴力事件の加害者の訴追が続いている。今度は、1965年投票権法の制定に向けて巨大な圧力を形成することに資した「セルマ=モントゴメリー行進」のきっかけとなった事件、「ジェイムス・リー・ジャクソン殺害事件」の犯人が起訴されることになった。既述の件と同様に、この度も、起訴された人物は、自分が殺害を行ったということを認めている。起訴された人物は、73歳の退役アラバマ州兵。その人物は、さて、どのような主張をしているのだろうか?

その人物は、アラバマ州セルマでの運動が、キング牧師の参加もあってかつてない激しさになるなか、治安維持のため(運動家からすれば、運動弾圧のため)に派遣された州兵だった。デモ隊との激しい衝突のなか、彼はジェイムス・リー・ジャクソンを撃ち殺した。

その人物は、ジャクソンが「銃をつかもうとしたので、自衛として撃ち殺した」、「あのときの感情的な情況下で、もし彼が私の銃を握ったならば、私の方が撃ち殺されていた」と主張してる(写真が示しているのは、この事件の現場ではない、これはこの時の運動の中の一シーンを捉えたものである)。また、彼の弁護人は、このケースはバーミングハム市の教会爆破事件とは異なると主張する。バーミングハムの件で極悪犯罪を犯した人物は、その意図をもって行った、しかし、このケースでは、起訴された人物は州知事によって「派遣された」に過ぎないという論陣を張っている。

私は、実のところ、この弁護人の主張に限定的ながらも同意せざるを得ない。

キング牧師の夫人、コレッタ・スコット・キングが存命中のこと、彼女は、公民権運動時代に起きた「悲劇」を乗り越えて人びとが「和解」するために、「真実委員会」Truth Commissionを設立することを主張していた。なぜならば、キング牧師暗殺事件が、暗い闇のなかに閉ざされ、政府の陰謀説だの、マフィアの陰謀説だの、真実が何だったのかわからなくなっているからである。(逮捕された犯人は、裁判の最終的局面ならびに獄中で、キングを殺害したという自白は嘘であると述べていた。その主張を聞き、キング家は再審を要求したのだが、結局、一度有罪となった「犯人」は獄中で亡くなった)。

Truth Commissionとは、「部族間」で夥しい「政治的暴力」が起きた南アフリカにおいて、ネルソン・マンデラが設立した委員会のことである。この委員会は、アパルトヘイト時代の憎しみを乗り越えることを目的に、真実を語ったものには恩赦を与え、犠牲者と加害者との対話を促し、ポスト・アパルトヘイトの時代の南アの建設を目指したものである。

私は、コレッタ・キングと同じく、通常の刑事裁判ではなく、特別な委員会を設置するべきだと思わざるを得ない。問われているのは人種間憎悪の歴史の重みであり、ひとりまたひとりと「犯人」を追い詰めることでその重みは軽くはならないと感じるからだ。

Ghost of Mississippiの最後のシーン、裁判映画ではよくあることだが、"guilty"という判決がくだったとき、検察官とウーピー・ゴールドバーグ扮する殺害された公民権指導者夫人、裁判所に詰めかけたギャラリーは抱き合って喜んだ。私は、シカゴ・サウスサイドでその映画を観たのだが、オーディエンスのなかからは「笑い声」が聞こえた。その笑い声は、「有罪」と「真実」との懸隔を示すように思える。

2007年05月13日

ムミア・アブ=ジャマル再審要求運動

パリには、1970年代のフィラデルフィアで活動していたひとりブラック・パンサー党員の名前に因んだ、「ムミア・アブ=ジャマル通り」というストリートがある。ブラック・パンサー党は昨年の10月で結党40周年を迎えた。同党は現存してはいないものの、多くのひとびとはその後も市民運動や言論活動に従事しており、10年ほど前に最初の「同窓会」が開催されて以後、各地でさまざまなリユニオンが行われている。私は、そのなかのいくつかに参加したのであるが、昨年の「同窓会」では、60年代後半に激化した政府や地方官憲による弾圧を物語るさまざまな演説が行われ、この時期の運動がいかに激烈なものであったのかがまざまざと伝えられた。ほぼ6時間に及んだそのセッションのなかで、ムミア・アブ=ジャマルも演壇に立った。しかし、彼の声は、小さなラジカセのスピーカーを通じて伝えられた。なぜならば、彼は、いまフィラデルフィアの監獄にいるからである。(この件については、過去にもこのブログで記事を書いている)

1982年、フィラデルフィアで白人の警官殺害事件で彼は逮捕され、その後死刑判決がくだされた。死刑の不当性や冤罪に関しては、このブログのほかのエントリーやサイトのエッセイで伝えてきたものの、この訴訟を異常なものにしているのは、その後犯人が名乗り出てきたのにもかかわらず、彼の死刑判決が破棄されることはなく、今日も死刑囚棟に収監されているといことである。この裁判は、アムネスティ・インターナショナルなどの人権団体も関心をもち、同団体は「公正な裁判上の手続きに関する国際基準の最低限度の規定すらも侵犯したもの」と告発し、パリに彼の名前を冠した通りがあるのは、彼が「政治犯」として国際的シンボルになっているからである。彼が「政治犯」だと言うのは、逮捕された時点での彼がフィラデルフィアのローカル局で「警官暴力」ーーブラック・パンサー党が格闘した問題で最大のものーーに対し活発に発言するDJであったからだ。

同じ頃の同じ場所を舞台にした冤罪事件を扱った映画『ハリケーン』、そしてデンゼル・ワシントン扮する主人公ルービン・ハリケーン・カーターの自伝Hurricaneが物語っているように、当時のフィラデルフィアにおいて、社会的・政治的偏見の対象となった人物が、公正な裁判を受けられたのかには当然疑問が残る(ルービン・ハリケーン・カーターの件は、日本での袴田厳の裁判を思い出さずにはいられない。そのうえでもなお、アブ=ジャマルのケースの不当さを強調せずにはいられないのは、自分が犯人だと名乗り出た人物に関する証拠が、裁判では証拠として認められないという事態が起きているからだ。

20070513mumiaパンサー党結成40周年「同窓会」には、黒人・白人・アジア系・ラティーノの多くのムミア支援運動に参加している者も集っていた。そしてこの4月24日、アブ=ジャマルの誕生日にあわせ、全米各地で集会が開催された。もちろんフィラデルフィアがその運動の中心地になったのであるが、同地での集会では、警官の労働組合が公正な裁判を要求する運動に「反対する」集会を同時に開催し、両者が連邦巡回控訴裁判所の前で対峙するという事態にも発展したらしい。ここですぐに付け加えておかなくてはならないのは、アブ=ジャマルの支持者のなかにも警察官が含まれていとうことであり、その警察官たちはそもそもアブ=ジャマルが格闘していた問題「警官暴力」に対しても、警察組織の内部で闘っているということである。そして、彼ら彼女らが求めているのは、釈放ではなくただ単に公正な再審に過ぎないのである。

ムミア・アブ=ジャマル国際支援者の会のコーディネーターをやっている快活な黒人女性パム・アフリカはこう語っている。「ムミアは無罪だと信じていますし、個人的意見を述べると、即時の釈放を要求したいところです。だけど、裁判における公正さを求める人びととならば誰とでも一緒に運動をします」。5月17日には、おそらく最後の機会となるであろう彼の弁護団による口頭での主張の審理が行われる。ここにきて支援運動が活発化しているのは、それ以後のこのケースの審理が続く可能性が低く、したがってアブ=ジャマルの死刑が確定してしまいかねないからだ。

パム・アフリカはさらにこう続ける。「ムミアはいまもまだ死刑執行される危険に直面しています。なぜならば連邦最高裁が彼のケースを審理する可能性は低いですし、現実的に考えて、これが彼のケースが審理される最後のチャンスになるからです。抑圧者に屈服したり、卑屈な態度をとることを拒否した黒人の革命家がまたひとり殺されようとしている、そのことを理解してほしいと思います。彼のケースは、この体制の悪の象徴です。遅きに失しないためにも、行動を起こすのはいまなのです」。

さて、上の話からは若干逸脱するが、アブ=ジャマルのケースは、死刑の問題や不当な裁判の問題、つまり冤罪問題一般を表すとともに、「言論の弾圧」の問題としても認識されている。彼は警察を批判し、その警察に逮捕されたのだから。そのような彼が好んだことばのひとつが、19世紀の奴隷解放運動指導者フレデリック・ダグラスのことば、「暴君がおそれるのは言論の自由である」だ。日本で可決されるのがほぼ決定的になった国民投票法では、「教員・公務員」から「言論の自由」が奪われる可能性がある。投票が公示された後に、「教員・公務員」は、その「地位」を利用して発言することは許されない。つまり憲法学者が憲法学者として意見を述べることが違法とされる(これは医者に対し、手術前の診察を禁止する、というのと同じひどい規定だ)。さて、われわれの社会は、何を恐れ、いったいどこに向かっているのだろうか?。

2007年05月14日

民間の運営による刑務所

20070514prison%20population.gif

上のグラフは、アメリカにおける刑務所人口の変遷である。この異常な受刑者数の増加は、多くの犯罪学者が論じているところによると、80年代に入り刑務所が「民営化」されたのをひとつの原因としており、犯罪が増えたから民営化せざるを得なくなったのではない。

そして、その受刑者に占める社会的に不利な立場にある人びと(もちろんゲトーの黒人はそこに含まれる)の率は異常に高い。黒人に関していうならば、それは人口比の約4倍に達する。多くのヒップホップ・アーティストが刑務所での経験をラップするのは、その社会的環境の反映である。

民営化した刑務所がある街のなかには、その街の経済活動のほとんどが刑務所関係のものになているところがある。つまり、刑務所の民営化とは、犯罪犠牲者の悲しみ、そして罪を犯さざるを得なかったものの悲しみ、それらの人びとみなの悲しみのの向こう側で、そこから経済的利得を得ている人びとが生まれることを意味する。

かつて、公民権運動以前の南部では、「受刑者貸出制度」convict lease systemというのがあったが、刑務行政の実体は、少なくとも現在のアメリカにおいては、そのひとつの変奏型にすぎない。なかにはそれを現代版の奴隷制というものすらいる。

ところで、本日、日本で初めての民間の運営による刑務所が開所した。前のエントリーと同じ問いかけになるが、われわれの社会はいったいどこに向かっているのだろうか。

グラフの出典:U.S Census Bureau, Statistical Abstract of the United States: 2000 (Washington, D.C.: Government Printing Office, 2000), p.202.

2007年05月16日

ムミアの声

ムミアの声が届きました。

こちらからどうぞ。

2007年05月17日

ポスト公民権時代の「黒人」政治家

昨年の末、ジェイムズ・ブラウンが亡くなった。その時、日本のニュースでは、「ソウル界のゴッドファーザー」と呼ばれ、「60年代末に黒人の誇りについて歌った人物」と紹介されていた。彼が亡くなったということは、言うまでもないが、この世代の人間ーー60年代に活躍した世代ーーが他界する時期が遂にやって来た、これを政治的社会的文脈におくと、かつての公民権指導者の政治世界からの「引退」「退場」が起きているということを意味する。その実、モントゴメリー・バス・ボイコット運動のシンボル、ローザ・パークス、コレッタ・スコット・キング夫人、SNCC指導者ストークリー・カーマイケル、COREの指導者ジェイムス・ファーマー、彼ら彼女らはみなもうこの世にはいない。

そして、今、政治の世界に飛び出してきたのが新しい世代である。彼ら彼女らは、公民権世代が築いた環境のなかで育ちつつも、その世代とははっきりと違ったキャリアをもっている。その新しい世代の代表のひとり、バラック・オバマ、彼は、2006年民主党大会の基調演説で一躍名を馳せることになった。

このそしてアメリカがそもそも依拠する崇高な理念、独立宣言に発する「アメリカン・ドリーム」を訴えるその雄弁さは、「マーティン・ルーサー・キングの再来」と呼ばれたほどである。彼が演壇に上がるときに流れている音楽は、1967年にカーティス・メイフィールドが歌った"Keep on Pushing"である。この曲は、当時の文脈のなかでは、ブラック・ナショナリズムを鼓舞するものだと言われた。今やそれが民主党大会の基調演説者のテーマに使われる時代になったのである。ここには時代の懸隔と、その懸隔にかかる橋が、象徴的に表れている。

今回は、では、その新しい世代の黒人政治家たちの横顔について語ろう。

日本でも広く知られることになった人物、バラック・オバマは、これまでの「黒人」政治家とははっきりと異なる「素性」をもっている。ハワイ大学に留学していたケニア人留学生とカンサス州出身の白人女性とのあいだに生まれた。ジェイムス・ファーマーがフリーダムライド運動の先頭に立っていた1961年のことである。その後、両親は離婚し、父親はアフリカに帰国、母親はインドネシア人と再婚した。そして彼はその母と継父とともにジャカルタで少年期を過ごした。

帰国後の彼はエリートコースを一直線。コロンビア大学で政治学学士号を取り国際的業務を扱う弁護士事務所に務めた後、ハーヴァード大学ロースクールに進学。そこで法学博士となる一方、黒人としては初めて、104年の歴史を持つHarvard Law Reviewの編集者に選ばれた。

通常このようなキャリアの人間は実入りの良い仕事をもつ。ところが彼は、シカゴ・サウスサイドで貧困者の法律相談を応じたり、職業訓練を助けたりする非営利的事業に従事した。その後、シカゴ大学ロースクールで教鞭を執った後、イリノイ州議会議員になり、2002年に連邦上院に当選、今日に至っている。

さて、ここで多くの人は気づいたと思うが、彼は、いわゆるアフリカン・アメリカンとは根本的に違う。彼の父親はアフリカ系ではあっても奴隷の子孫ではなく、彼自身の人種的アイデンティティは極めてハイブリッドなものだ。そしてまた、「黒人ゲトー」で暮らした時期といえば、シカゴが初めてだったのである。このような彼に対し、当然、「黒人票を集める力があるのか?」という疑問があがっている。

一方、「エリート」としてのキャリアを持つ黒人政治家にはいくつかの先例がある。その典型例が、現在ニュージャージー州最大の都市、ニューワーク市長であるコーリー・ブッカーだ。

彼は1969年(つまり公民権運動がはっきりと衰退した年)に生まれた。しかし、彼の両親は、IBMの重役になった初めての黒人であり、ワシントンD・C郊外の「高級住宅地」で育った。スタンフォード大学に進学し政治学で学士号、社会学で修士号を修める傍ら、フットボールの世界でも活躍し、大学のなかではヒーローのひとりだった。その後、イェール大学ロースクールに進学し、極めて競争率が高く、それゆえエリート中のエリートの象徴でもあるローズ奨学金を受けてオックスフォード大学に留学した。しかし、オバマと同じく、ロースクールにいた頃から周囲のコミュニティの活動に身を投じ、ロースクール卒業後ニューワークに戻ると、貧困地区の公共住宅に住むことを敢えて選んだ。そこにいる人びとに、法律面での手助けをするためである。

2002年、そのような彼が市長選に立候補した。当時の現職の市長ジェイムス・シャープは、5期連続当選(つまり20年間ずっと市長)を果たしており、1999年からは州議会議員を兼務していた。つまり、ニューワークでは伍するものがいないほど強力な政治力を持っていたのである。市長として全米のどの州知事よりも高額な報酬を受けていた、そのような彼の政治スタイルは「ボス政治」ーーアメリカ型利益誘導型政治ーーと呼ばれていた。もちろん彼の支持母体は、同市の黒人市民である。

重要なことに、この選挙戦中に問題になったのは「ブッカーは〈黒人〉なのか?」ということであった。貧困と直面しながら公民権運動で政治的経歴を積み、そうして政治の世界に入っていった旧来の黒人政治家と異なり、彼は典型的エリート。そんなエリートに「「黒人の問題」がわかるのか?」という問題が提起されたのである。もちろん、この点をもっとも執拗についたのは、シャープ市長であった。彼は選挙戦中こう語った。「あなたはまずアフリカン・アメリカンになることから始めなくちゃいけない、自分でそれをやりなさい、わたしたちにそんな暇はないから」。

「血統」の上ではまちがいなく黒人であるブッカーが「黒人ではない」と言われる。つまり、ここでの「黒人」とはエリートの対極として規定されているのであり、至極簡単にいえば「社会的落伍者」こそが「典型的黒人」なのである。

かくして黒人対黒人の選挙戦でありながら、なぜか「人種」が問題になった選挙戦では、黒人市民からの支持を得たシャープが僅差で勝利した。この「ダーティな選挙」は、Street Fightというドキュメンタリー(アカデミー賞にノミネートされた)に収録されている。

しかし、2006年、その流れははっきり変わった。73%という圧倒的得票率でブッカーが勝利したのである(なお、このときの対抗馬は市長職からの引退を表明したシャープではなかった)。そんなブッカーがまず行ったのは、市場価格以下で私企業に売却されている市所有の不動産の販売を停止することだった。

企業が次々に工場を閉鎖していくなか、新規事業を誘致するならば刑務所でもなんでも良いと考えている他の首長とはまったく異なる。白人の郊外流出、工場や企業の閉鎖で疲弊したアメリカ経済の立て直しにあたって、「民間の活力」だけに盲従しようともしていない。そんな彼は、固定資産税の大幅増税を提案し、市の職員の補充拡大を提案している。これもまた他の首長とはまったく異なる。

そのようなコーリー・ブッカーが5月12日にオバマを支持するという表明を行った。ヒラリー・クリントンを支持していたそれまでの態度を転回したのである。ニュージャージー州は、大統領選挙にあたって、しばしばbattle ground stateと呼ばれ、ここでの勝敗は結果に対し重要な意味を持つ。

新しいタイプの黒人政治家、ポスト公民権世代の黒人政治家は、もはや黒人票だけに頼ることはしない。「黒人ではない」と誹謗中傷された人間がどうして黒人票を頼りにできよう。他面、白人優越主義者から脅迫を受けているとされているオバマはこう語っている。「こんなことをあれこれ考えるので時間を無駄にしたくありません。このような人びとがアフリカン・アメリカンの大統領が誕生することを嫌がっているのかどうかというと、それにはイエスとしか応えられません。ならば、アフリカン・アメリカンは私が黒人だからというので票を投じることになるのかというと、それもまたまちがいのない事実です。しかし、私が落選することになるとすると、それは人種が原因ではない、人びとが信頼できるビジョンを提示することに私が失敗したからそうなるのです」。彼らは「人種」を超越しようとしている。ブッカーがオバマ支持に傾いたのも、人種が理由ではない。オバマは、ブッシュが行った富裕層に対する減税措置を廃止する、つまり増税を行うと語っている。疲弊した政府を立て直す、つまり連邦の職員の補充拡大を提案している。

黒人が白人に投票し(これは歴史上何度も起きた)、白人が黒人に投票する(これはほとんど起きたためしがない)、そんな選挙が来年繰り広げられたとき、きっとアメリカにおける「人種」の意味が激変する。ブッカーやオバマが背負っているのは、その未来への期待である。

ムミアのために!

20070517mumiaアメリカ東海岸で5月17日の朝がきました。

正義の光がムミアに届きますように。

We want justice, Now!

2007年05月19日

「リズム&ブルーズの政治学」アップデート

連載「リズム&ブルーズの政治学」の既発表の項のいくつかを改訂しました。
改訂した部分には〈UPDATE〉のロゴをつけています。

2007年05月22日

ラップの検閲、アゲイン


クリントンが大統領に初当選した1992年の大統領選挙、ヒップホップの歌詞が、人種的・性的に不快な表現を使っているとして選挙戦で決して小さくない問題となった(この模様については右の著書が詳しい)。先のエントリーでも述べたが、近日、その問題がまたかまびすしくなってきている。事の発端は、白人DJが黒人を侮辱する発言を行ったことが原因であったのだが、いつの間にか問題は「ブーメラン」のように飛んできて、黒人ラッパー、特にギャングスタ系が非難・批判の対象となってしまっている。

要は、"nigga"、"ho"、"bitich"という言葉を使うなということだが、それに関して、50セントがこの度反論を行った。決して論理一貫したものではないが、それでもこれはゲトーの市民の感情をある面で物語ったいるように思えるので少し紹介しよう。

彼はこう述べている。

いま起きていることは悲しいことだね。みんなこの国がいま戦争を行っているということを忘れちまっているんじゃないか?。ヒップホップのような音楽での言葉遣いはやたらと問題にして、それが暴力を助長しているなんて言っているが、暴力的な内容の動画には何も言わないじゃないか。だからどうしてもこう考えてしまうんだよ、企業を攻撃することよりも個人を攻撃することの方がずっと簡単なんでそうしているんだって。だから、パラマウントやコロムビアのような映画会社を相手にするんじゃなくて、個人のヒップホップ・アーティストを追っかけ回してているんだってね。

さらに彼はこう続ける。

音楽っていうのは写し絵なんだ、ヒップホップは俺たちが育った壮絶な環境を写し出しているんだ。何ならあんたら赤色を使わずにアメリカの国旗を書いてみなよ、そんなのできないだろ。保守的なアメリカ人のなかには、その育ちやライフスタイルが原因で、ヒップホップが表現しようとしていることがわからない奴らがいる。俺たちが生きてきたリアリティとは無縁だったんでね。それはわかるよ。それで、何で俺がいつも攻撃されるのかもわかる。挑撥的なところがない内容で、ヒップホップの世界で成功するのは難しいもんな。

少しシニカルに聞こえるだろうが、ダブルスタンダードはどこの世界にも存在するだろう。それを非難するのはたやすい。

それでもなお、50セントの発言は、奇妙に、そしてそれでもしっかり正鵠を射たものに私には聞こえる。

2007年05月24日

遅く成された正義は正義とは言わないーーキング博士

1964年のミシシッピ、3人の公民権運動家(黒人のジェイムス・チェイニー、白人のマイケル・シュウェルナー、アンドリュー・グッドマン)が行方不明になり、軍隊を動員した捜査の結果、死体で発見された。彼らを殺害したのは、地元の保安官補を含むKKKのメンバーたち、このショッキングな事件は公民権運動の大きな転換点のひとつとなる政治社会的激震を引き起こすとともに、そのストーリーの衝撃から映画やドラマのテーマになってもいる。そのなかで最も有名なのは、アラン・パーカー監督、ジーン・ハックマン主演で、FBIが大活躍しKKKを追い詰める様を描いたアカデミー賞受賞作『ミシシッピー・バーニング』であろう。

しかし、この映画は、公民権活動家のあいだでひじょうに評判が悪かった。なぜならば、大活躍するFBIは実際には存在せず(否、KKKと結託してたケースすらある)、3人の活動家の死自体、身の危険があるとFBIに何度も連絡をしたのにもかかわらず、必要な保護措置がとられなかったから起きたものであった。この「史実の改竄」に対し、活動家のなかには映画のボイコットを訴えたものもいる。(右の著作は、この「事件」の研究書の中でもっとも優れた「決定版」である。そこにはFBIの「ていたらくぶり」が詳述されている)。

本日の『ニューヨーク・タイムズ』は、このときに殺害されたジェイムス・チェイニーの母親、ファニー・リー・チェイニーが5月22日に逝去したと伝えている。享年84。驚いたのは、その年齢にもかかわらず、パン工場の労働者として、何と週給28ドルの労働を強いられていたということである。さて、アラン・パーカー監督は、ジェイムス・チェイニーの死にインスピレーションを得た映画で、いくらの収入を得ただろうか?

今日では「歴史の転換点」と言われる事件の登場人物のひとり、ファニー・リー・チェイニーは、ミシシッピ州に住み続けることはできなかった。なぜならば白人優越主義者の脅迫が続き、遂には家が爆破されたこともあったからである。その後、ニューヨーク、ニュージャージと移り住まざるを得ず、その生活は裕福どころか楽でさえなかった。

3人の殺害が起きたとき、検察は、殺人や故殺では起訴できず、公民権侵害の廉でしか有罪に持ち込めなかった。その結果、最大の量刑は懲役6年であった。ファニー・リー・チェイニーはさぞかし口惜しかっただろう。

ところが2005年、この事件の捜査を再開した連邦司法省は、生存する殺害者のひとりエドガー・レイ・キレンを起訴し、懲役60年の有罪判決を勝ち取った。キレンの年齢を考えると、無期懲役に等しい。(死刑に反対している私にとっては、これが「極刑」である)。

この裁判の過程で、ファニー・リー・チェイニーが再び証言台に立つことがあった。量刑が言い渡され裁判が終わったとき、彼女はこう言ったらしい。「うんと昔のこと、あの頃いた人たち、もうみんな死んじまっているでしょう」。彼女のこころの寂しさは、この判決では埋められなかった。

かつて、マーティン・ルーサー・キング博士がこう言ったことがある。「遅く成された正義は正義とは言わない」。この「事件」の訴追はあまりにも遅すぎた。したがって「正義とは言われない」のかもしれない。

(現在、連邦司法省は、60年代に訴追できなかった白人優越主義者の極悪犯罪の訴追を次々に行っている。その嚆矢となったメドガー・エヴァース殺人事件の訴追、有罪に持ち込む過程については、全米図書館賞を受賞したノンフィクションをもとに、ウーピー・ゴールドバーグ、アレック・ボールドウィン、ジェイムス・ウッズといった錚々たる顔ぶれでGhost of Mississippi という映画になっている。)

2007年05月25日

「ヒップホップ誕生の地」が消える!?

20070526west_bronx.jpg文化」というアモルファスな領域に属する音楽のジャンルの起源はどこにあるのかが定かでないものが多い。たとえば、ジャズはいつどこで生まれたか?。ブルーズはどこで生まれたか?。これに答えられるものはほとんどいないだろう。いたとしても、それはひとつの「仮説」に過ぎない。

ところがヒップホップは違う。「記録」がしっかりと残る「現代」に生まれたこの文化様式は、ニューヨーク市ウェストブロンクス、セジウィック・アベニュー1520番地で、1973年に生まれた。同地のコミュニティセンターで開催された「ダンパ」(そのときのビラは右下を参照)、DJ. Kool Hercという人物が創ったサウンドが、ヒップホップの原点である(左の写真がその場所の入り口)。

いま、その場所が変貌しようとしている。そのことは、ある意味において好ましいものなのだが、別の面では、今日の「ゲトー」で何が起きているのかを示す興味深い事例となっている(←欧米か!、典型的な欧文脈失礼!)。

20070526kool_herc.jpgニューヨーク州では、減税と担保の一部を州政府が負担し、賃貸住宅の家賃を低く抑える政策、ミッチェル・ラマ・プログラムというものがあった。セジウィック・アヴェニュー1520番地の住宅の所有者はそのプログラムに参加していて、住民は低賃金で働く労働者(そのなかでラティーノの占める割合は高い、ここは決して「黒人ゲトー」ではない)。しかし、近年住宅市場が活況になったため、このプログラム(担保の負担は不況下においては所有者にとっても利得のあるものだった)との契約を切る住宅所有者が増加している。『ニューヨーク・タイムズ』が報じるところによると、同市でこのプログラムに参加していた住宅は1990年には6万6千戸あったのに、それが現在は4万まで減少しているらしい。

そのような環境下、今年の2月、セジウィック・アヴェニュー1520番地の所有者が、プログラムとの契約を切ると通告した。これは、具体的には、家賃を上げるということを意味する。家賃をあげるためには、もちろん、この住宅はリノベートされなくてはならないし、所有者もその意思をもっているらしい。つまり、ウェストブロンクスにも、いわゆる「ジェントリフィケーション」の波が押し寄せてきたのである。

そこで、住民たちは、いまや世界大に拡がったヒップホップ文化の発祥の地として、この地を「史跡」に指定し、そうすうすることで現在の住宅のキャラクター(貧困者が一所懸命いきる街のアパート)を保持しようとした。ヒップホップは、アフリカン・アメリカン、ラティーノたちが、貧しさと格闘するなかで生まれた文化である。その文化の徴を残すには、住宅の外観だけでなく、質も「保存」しなくちゃいけない。それが住民たちの主張だ。

しかし、環境保護や史跡保護に詳しい人間の意見では、このようなことは前例がないらしい。やはり、史跡の保存とは概観のみを指すというのだ。

でも、NHKの番組「世界遺産の旅」によると、オーストリア=ハンガリー帝国の女帝、マリア・テレジアが建設を命じたシューブルン宮殿は、世界遺産としての指定を受けているとともに、そのなかの質も「保存」されているらしい。この宮殿の一部は、第1次世界大戦後の帝国の解体と社会党政権の誕生によって、国を真に支えている労働者に開放され、いまもそのときに住み始めた労働者階級の人びとの子孫が住んでいる。

1973年8月11日、DJ. Kool Herc は、妹が学校に行くための服を買ってやるために、パーティを開催した。それがヒップホップの誕生の瞬間。この文化は、一所懸命生きる人びととコミュニティが創りだしたものである。ニューヨーク市やニューヨーク州に、その気があれば、このセジウィック・アヴェニュー1520番地の住宅は、ヒップホップを誕生させた環境とともに「保存」することが可能ではないのだろうか。

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