共和党幹部がやってしまったことーー本性を現したポスト公民権運動の共和党

2003年3月17日脱稿
藤永康政

このコーナーでは、アメリカ黒人関係の最新のニュースを届けている。そしてまた、このコーナーは。話題の新しさにおいて、わたし自身、一般の方々のみならず、研究者の方々にも貴重な情報を提示してきていると自負している。今回、タイトルに掲げた問題を扱うにあたり、若干前半部分で歴史的補足説明を行わなければならない。というのも、2000年の共和党を論じるにあたり、南北戦争ならびにニューディール期の政党政治と〈人種〉の関係を一般の方々にわかりやすく説明する必要性を感じているからである。このトピックが不必要な方は、すぐさま第2項に進まれたし(ここ、をクリック)。

【第1項】〈人種〉と政党政治
高校の世界史を学んだだけでは、なぜ黒人が、奴隷解放令を発布したリンカン大統領の党、共和党ではなく、民主党を支持しているのか、は理解できない。この項ではその補足説明を行う。

奴隷制反対の世論が高まるにあたり、奴隷制廃止を訴えた人間がみな人種間の不平等を是正しようと思っていたわけではなかった。たとえば、未熟練工の白人のなかには黒人奴隷制に反対しつつ、黒人が劣った〈人種〉であると信じて疑わないものがいた。もっと言えば、白人未熟練工たちは、黒人が嫌いだからこそ、奴隷制廃止を望んでいたのだ(その典型例は、南北戦争中に起きた、ニューヨークの反徴兵暴動で黒人の大虐殺を行ったアイルランド系移民労働者たち)。彼らは、自分の賃金が上がらないのは、南部に賃金なしで働く奴隷がいると考えていた。その奴隷たちを解放し、「アフリカに送り返せば、約束の地であるアメリカ合州国はもっと良い国になる」と考えたのである。

リンカン大統領の政治方針も大筋においてこのような議論と違いはなかった。リンカンは、見た目にはっきりとわかる「差異を持った」二つの〈人種〉が一つの社会のなかで共存できるとは考えていなかった。彼は南部連合降伏の直後に暗殺され、奴隷解放後の政治を行うことはなかった。が、彼は解放した黒人のアフリカへの送還を真剣に検討していたのである。

かといって、共和党はこのような人種主義的奴隷廃止論者ばかりの集まりでもなかった。上院議員チャールズ・サムナー、下院議員ディウス・スティーヴンスなどに代表される共和党急進派Radical Republicanと呼ばれる人々は、解放後の黒人の生活の向上のため、連邦議会で必死の活動を行っていた。つまり、共和党は、その後のアメリカの将来像を問わず、「奴隷制反対」という特定問題だけで政権政党となった政党である。したがって、南北戦争が終われば、党内での派閥争いが激化するのはあたりまえだったのだ。

そして1876年大統領選挙という決定的瞬間を迎えることになる。このとき、奴隷制を守るために南部連合の中核となった深南部の諸州(アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ等々)での投票で不正が明らかになり、選挙の勝者を決めることができない、という事態になった。わたしたちの記憶に新しいところでは、いわば2000年大統領選挙と同じ事態が起きたのだ。合州国憲法には、かかる事態に備え、連邦下院での議決によって大統領が決定されるという規定をもっている。しかしながら、大統領選出という問題を連邦議会が実際に扱うとすると、民主・共和両党の内部での派閥争いが激化し、双方が分裂しかねない。つまりステイタス・クオが激変する危険性が生まれるのである。

そこで政治的妥協が行われることになった。大統領には共和党の候補ヘイズが就任する、その代わりに共和党は南北戦争後黒人の人権侵害・暴力を防ぐために治安維持活動を行っていた連邦軍を撤退する。これによって、南部の黒人の人権は大統領の宣言と憲法という紙に書かれたものだけになってしまった。共和党の側も20年以上に及ぶ「軍事占拠」を続け、その維持費・戦費の増加によって財政が逼迫していたことからも、南部とは「穏健なかたち」での問題の収拾を望んでいたのだった。つまり、「黒人問題」への政治的介入を止める機をうかがっていたのだ。

その結果、1890年代、南部において黒人の公民権は完全に剥奪されることになる。このときからニューディールまでの時期を、黒人で歴史家のレイフォード・ローガンなどは、「どん底期」と形容している。

1932年に開始されたニューディール政策の多くは、しかし、黒人の経済的環境を劇的に変化させるには至らなかった。むしろ事態はその逆だった。何度かの政策の変更があったニューディール政策のなかで、ひとつだけ一貫していた政策がある。それは労資間の対立を避けることであり、この目的は、それまでアメリカの法制度や行政のなかでは取るに足らぬ存在であった労働組合を保護することによってなされる。

しかし、この時点までに結成されていた労働組合の多くは、黒人を組合委と認めない会則をもっている団体が多かった。したがって「労資協調」は「黒人の排除」に直結する。これを突き破ったのが、(1)1930年代に生まれた急進的労働組合、産業別組織会議(CIO)による積極的な黒人リクルート活動、(2)黒人たち自身の運動、(3)大統領夫人エレノア・ローズヴェルトの活躍、(4)第2次世界大戦がナチ型の露骨な人種論との戦いとなり、人種平等が連合軍の主張となったこと、といった事情である。(この詳細は、拙稿があります、ここ、をクリック)

その結果、1936年の選挙で黒人は、労働組合とともにニューディール連合の一角を担うことになった。もとより、第2次世界大戦の英雄アイゼンハワーが圧倒的人気を誇っていた1950年代に、黒人のなかでも共和党に投票するものがいったん増加したこともある。しかしながら、ニクソンとケネディが合州国史上のなかでも記録に残るほどの接戦をした1960年大統領選挙の頃になると、黒人の公民権団体は民主党支持の意向を固めることになった。なぜならば、南北戦争後最初に黒人の人権を保護するために動いた大統領が、ローズヴェルトの次の大統領、トルーマンであり、60年代までに民主党では黒人の公民権保護のために尽力する白人議員が決して少なくはなかったからである。

そして、ケネディが上程し、ジョンソン大統領の巧みな議会戦略によって公民権法が1964年に可決され、1966年には投票権法、1968年には公正住宅法が禁止されるに至る。これらすべてが民主党政権下のもとで行われたため、黒人の民主党支持は揺るぐことのないものになった。すでに1964年大統領選挙の時点で、民主党現職のジョンソンに投票した黒人は、黒人全体の92%に達していたのである。

【第2項】共和党幹部がやってしまったこと

以上の経緯があって、今回の共和党幹部の失態が起きた。本稿を起稿するまでにグズグズしてしまったために、いまとなってはかなり昔のことになるが、それでも現在の共和党ブッシュ政権と21世期のアメリカ政治と〈人種〉の関係を考慮するうえで、そのシンボリックな意味は決して軽くはないと思うため、いま改めて整理してみたい。

ブッシュとトレント・ロット2001年11月に行われた中間選挙では共和党が圧勝し、上下両院で単独多数と占めることに成功した。その共和党の上院のリーダー(Majorirty Leader、通例、新聞報道では「院内総務」と訳されている)となったのが、トレント・ロットという人物である。右の写真にもみられるように、ジョージ・W・ブッシュとの親交も厚く、少なくとも次の2年間は世界でもっともパワフルな政治家の一人となった。否、なったはずだった。

ところが、12月5日のこと、サウス・カロライナ州の連邦上院議員ストロム・サーモンドの誕生パーティに参加したとき、彼は権力の座から放逐されることになった。

ストロム・サーモンドとは頑迷な人種隔離論者として有名な人物である。その政治姿勢がもっとも鮮明になったのは、1948年の大統領選挙のときだ。

この前年、ジョージア州で「自由を守るため」に第2次世界大戦を戦った黒人復員兵が目をくりぬかれるという残虐なリンチ事件が起きた。ときはインドが独立し、大英帝国がアフリカなどその他の地域でもでの植民地支配を維持する意思がないことが判明しだした頃だった。そしてまた、ヨーロッパにおいて米ソ冷戦が始まったときだった。そこで、ソ連の共産党機関誌『プラウダ』は、アフリカで支持を拡大するため、このリンチを大々的に報道したのである。これによって窮地に追い込まれたトルーマン政権は、〈人種〉問題を調査する特別機関、〈公民権委員会〉を設置し、同委員会は、南部で行われている人種隔離の撤廃と黒人の公民権回復を大統領に求めたのである。

このトルーマン政権の行為に激怒したのは、南部の民主党政治家たちだった。そこで彼らは〈州権党(Sate's Rights Party)〉という別個の政党を結党して民主党を離脱、当時サウス・カロライナ州知事の職にあったストロム・サーモンドを大統領候補に擁立したのである。それもこれも黒人への支配体制を維持するためだ。

ここで「ん、1948年に大統領候補?」と思われた方々がいらっしゃるかもしれない。それも当然である。同時代の政治家はもはやほとんどこの世にいない。ところが彼は、サウス・カロライナ州知事職を退くと、今度は民主党の連邦上院議員となり、民主党と公民権団体との関係が引き離すことのできないものになった1968年、共和党に「鞍替え」し、なんと未だに現職でいるのである。これは、公民権運動があっても「変わらない南部」を表す一例である。

このサーモンドの「鞍替え」と同じ頃、現大統領の父親、ジョージ・ブッシュが政界にデビューした。もちろん共和党からである。そのとき彼はこう言った。「わたしは、人口のわずか10%ほどのものたちのことよりも、残された90%のことをまず第一に考えます」。

60年代のアメリカ国内政治の中心は何といっても黒人だった。ここでの「人口の10%」とは黒人のことである。ブッシュの父親は、これより20年後の1988年大統領選挙で、「黒人=レイプ犯」というイメージを選挙CMで流すことで白人を掘り起こしたことで悪名高い。しかし、彼はことのときすでに、白人のルサンチマンに訴えることをしていたのである。

その裏には、共和党の選挙戦略の転換があった。すなわち、何をしても黒人票は民主党に行くのだから、黒人票を無視し、白人票の掘り起こしにターゲットを絞れ、白人が多数派である限り、人種間にくさびを打ち込めば選挙に勝てる。

数集めが何よりの重要な民主政体において、これはきわめて「現実的」で狡猾な戦略である。

話をサーモンドとロットに戻そう。怪物的政治家サーモンドの何と100歳の誕生パーティの席上で、中間選挙の勝利に酔ったトレント・ロット上院院内総務は何とこう言ったのだ。「サーモンド先生、先生が1948年の選挙で大統領に選ばれましたら、アメリカはもっと良い国になったでしょう」。

こうしてロットは超えてはならぬ一線を越えてしまった。

しかし、その後の事態の展開でもっとも興味深いのは、ロットを院内総務辞任に追い込むまで黒人活動家が圧力をかけたことにあるのではない。黒人がこの発言に激怒する、それは当たり前であり、簡単に予測できる。予測できなかったのは、ブッシュ政権の対応であり、南部共和党支持者の動きだった。

奇妙なことにこの失言を最初に報道したのは、ミシシッピ州の共和党系の地方紙だった。リベラルな新聞が騒ぎたてたのではないのである。そして、ロットへの「引導」はジョージ・W・ブッシュによって渡されたのだ。

皮肉なことに、政府の要職に非白人を任命した数で言えば、最多記録は現政権が持っている。そのもっとも目立つ人物がコリン・パウエル国務長官であり、コンドリーザ・ライス国家安全保障担当大統領補佐官である。さらに2000年の共和党大会では、多くの非白人が演壇にあがり、「共和党の変化」をアピールした。もはや1980年代の共和党ではないというのだ。ジョージ・W・ブッシュは「憐れみ深い保守compassionate conservative」というイメージを前面に出し、1968年以後では初めて非白人票の掘り起こしに着手したのである。

これには以下のような状況が影響を与えている。アメリカではスペイン語を話すラティーノ/ラティーナの人口が急増し、ついこのほど黒人の人口を超え、最多のマイノリティ集団になった。しかしながらラティーノ/ラティーナは、共産党支配を逃れてアメリカに亡命してきた裕福なキューバ系から、内戦を逃れ難民としてやってきた中米出身者、さらには母国とアメリカとのあいだで複雑なアイデンティティをもっているメキシカン・アメリカンなど多様な集団であり、これらをひとつの政治集団として扱うことはできない。それに較べると、黒人の投票行動は、団結票というかたちではっきりと現れる。

そして何よりも肝要なことに、相対的にみて白人がアメリカ人全員のなかに占める割合は劇的に低下し、やがては非白人の票を獲得しなくては政権を担う政党ではなくなってしまう。したがって、「万年野党」に堕する危険性は、マイノリティ政策を重要視してきた民主党よりも、共和党の方が強い。ブッシュ政権の戦略は、目立つところにマイノリティを任命することで表面上の変化を演出し、「変化した共和党」を押し出すことにあった。このように大きな舵を切った共和党にとってみれば、ロットの発言は許容できるものではなかったのである。

したがって、ロット前共和党上院院内総務の辞任は、共和党の変化や「憐れみ」を示すものではなく、21世期の人口構成の変化を踏まえた狡猾な計算のうえに行われたのだ。ブッシュとロットとの親交はいまだに深い。彼らは、2003年のいまでも異人種がデートすることを禁止しているアナクロニズムも甚だしい大学、Bob Jones Universityで講演するという大胆なことを平気でできる人物である点においても共通点をもっている。ただロットは、国内の一致団結が必要としてる時期に、時宜を得ない「本音」を言っただけである。

さてこれが「変わった南部」と「変わった共和党」が向かっている方向である。対して民主党はどうしているのか?

中間選挙の大敗北を受け、民主党の下院院内総務にはナンシー・ペロシが就任した。ペロシは天安門事件を始めとする中国での人権抑圧をたった独りで問題にし、クリントン政権が遅浩田中国人民解放軍総司令官と立食会をワシントンD・Cで開催したとき、民主党議員のなかでこれまたたった独り欠席したことで有名な人物だ。つまり、9.11後の政治的トラウマから恢復し、次の選挙まで共和党との政策の相違を強調しなければまた大敗北を喫すと判断、舵をよりリベラルな方向に切ったのである。

そのペロシは、国連決議なしのイラク攻撃に反対する公式声明を発表し、ブッシュ政権と対決姿勢を鮮明にしている。アメリカ政治は、いま、大きな変化のときを迎えている。