6-8 憎しみが憎しみを生む ーー 都市ゲトーのカリズマ

 

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200411月8日脱稿

さて、ここまでこのシリーズでは、どちらかと言うとアメリカ南部の人種関係を中心に話を進めてきました。その過程で、南部と北部双方の黒人のコミュニケーションの存在ーーたとえばエメット・ティル・リンチ事件とシカゴの黒人ーーにも言及してきました。今回は、北部の都市ゲトーが生んだこの時代最大のカリズマ、そうマルコムXの話です。

ここでひとつ大事な事実を確認しておきます。シット・インの開始以後、南部における黒人たちの運動は激しさをいちだんと増していきました。しかしながら、モントゴメリー・バス・ボイコットの勝利以外、それらの運動が達成した「成果」というものは、実に少なかったのです。シット・インの対象となったカフェテリアの多くは、人種統合するよりも営業を中止することを選択し、フリーダム・ライダーたちは逮捕投獄、そしてオルバニー運動に至ってはほぼ完全に敗北。ブラウン判決によって見えた光明は、日増しに暗くなっていっていたのです。つまり運動は勝利によって勢力を増したわけではなく、遅々として進まない社会改革へ青年たちが業を煮やすかたちで拡大していったのでした。

このような南部公民権運動の進展を見ながら、辛辣な社会的コメントを発していた人物がマルコムXにほかなりません。そこで、マルコムXが参加し育てた組織、ネイション・オヴ・イスラームに関する歴史は次節で扱い、ここではマルコムの名前がいかなる歴史上の文脈において有名になっていったのか、その瞬間を捉えようと思います。

1952年、窃盗を初めとする複数の罪科によって懲役刑をうけていたネブラスカ出身の黒人、マルコム・リトルは、アメリカ黒人独特の「イスラーム」組織、ネイション・オヴ・イスラーム(NOI)に入会します。彼は、獄中で兄を通じてNOIの最高指導者イライジャ・モハメドの教義を知り、文通を通じてモハメド本人と親交を温め、保釈になるや否やモハメドの邸宅があるシカゴ・サウスサイドに向かったのです。

NOIは、黒人のセカンド・ネームは奴隷主の名前であるという教説をとっており、このときマルコムは、リトルという名前を棄て、その変わりに「失われたアフリカ名」を示す記号Xを自らのセカンドネームにします。その後、1955年にはニューヨーク市を統括するNOIの寺院、第7寺院の導師に任命されます(残念なことに、1952年から55年の3年間に何があったのかは未だに明らかになっていません)。

NOIは、このマルコムXのカリズマによってその後急成長していきました。わけても多くの黒人を魅了したのがマルコムXの巧みな弁舌です。日本の多くの方も、マーティン・ルーサー・キングの雄弁な演説はお聞きになられたことがあると思います。キングの雄弁術は、ある特定のフレーズ(たとえば"I Have a Dream . . . ")の繰り返しと変奏、そして大きな抑揚に特徴があります。それに較べると、マルコムXの雄弁術は、強烈なビート、それをキープする「クール」さにあります。またキングのことばには南部のアクセントが強くあるのに対し、マルコムXのそれは都市黒人独特の早さとリズムがありますーー今日、ヒップ・ホップは、しばしばマルコムXのイコンを使いますが、このような文化的側面もそれは継承しているのです。そして、キングの演説の内容が崇高であり生真面目であるのに対し、マルコムXのそれには思わず吹き出してしまうようなジョークーー多くの場合「ブラック」ユーモアですがーーが織り込まれています。(このマルコムXの演説、日本でもP-VINE RecordsからCDで発売されています。タイトルはMalcolm X Speaks)。

このようなマルコムXは、1957年4月14日に起きた事件によって、都市黒人大衆、さらには警察権力から注視されるようになりました。この日、第7寺院の信徒が警察から逮捕されるという事件が起きました。単なる逮捕だけならば別に問題はないのですが、アメリカ史を通じて繰り返されていること、黒人に対する警察官の過度な暴力の行使がこのときにも起きていたのです。信徒暴行のニュースは、口づてにハーレムの街に拡がっていきました。そこにマルコムXは、NOIの武装自衛組織〈フルーツ・オブ・イスラム〉を初め、2000人の群衆を動員し、暴行を受けた信徒に適切な医療措置がなされること、暴行事件の調査を要求、ふくれあがった群衆を目の当たりにし、暴動発生を恐れた警察当局は、このマルコムの要求をすぐさま受諾します。信徒が救急車で運ばれるのを見届けたマルコムXは、ここで彼のカリズマを明白に示すことになります。事情を群衆に向かって説明、それにしたがって群衆は「おとなしく」解散。これを契機に彼は「暴動を起こすこともできれば止めることもできるただひとりの男」という評価を得ることになります。

このエピソードについて、ひとつ重要なポイントを指摘しておきます。それは、マルコムXが交渉に挑む際に、武装自衛組織を帯同していたということ、そして交渉に成功することでその有効性を示したということです。これは、あくまで非暴力を貫き通そうとしていた同時期の南部公民権運動指導層の考えとははっきりとした対称をなします。

続く1959年、彼の名前はニューヨークを超え、全米中に拡まっていくことになります。57年以後のマルコムXの評判の高まりを追いかけていた黒人ジャーナリスト、ルイス・ローマックスは、ネットワークテレビ向けに、『憎悪が憎悪を生む』”The Hate that Hate Produced"という番組を制作し、NOIの集会の模様がお茶の間のテレビに映し出されたのです。イライジャ・モハメドが取り仕切ったその集会では、白人を世界の平和の破壊者・卑劣漢・強盗として有罪判決をくだす模擬裁判が行われ、モハメドは25年後に善と悪との最後の大決戦、つまりハルマゲドンが起きると予言、そのときに備えて「黒人の国」(ブラック・ネイション)を建設することを命じました。このセンセーショナルな内容の番組の放映後、NOIは「逆人種差別組織」としての悪名をとどろかせることになり、マルコムXはその組織のもっとも魅力のあるスポークスマンとしてさらに有名になったのです。

しかし、NOIやマルコムXのメッセージは、黒人にとって、否定的に響いたとは限りません。袋小路に入りつつあった非暴力の運動の代替案として、それは魅力的なトーンを持っていたのです。

1962年、ハワード大学のSNCCのメンバーは、当時キングのアドバイザーを務めていたベイヤード・ラスティンとマルコムXの討論会を企画、実施に移します。このときマルコムXは、博士号をもった黒人パネリストにむかってこう言ったとされていますーーそれは後にテレビ討論会で何度も繰り返され、彼の名句のひとつになっていきます。「博士!、白人も人前ではあなたのことを『博士』と呼ぶでしょう、しかし彼らが仲間内だけになったとき、何とあなたを呼んでいるかご存じですか、それは『ニガー』です」。このような歯に衣を着せぬ大胆な表現能力と厳しい現実を直視するクールさを備えた彼は、都市の青年黒人を中心に、その後も急速に人気を博していくことになります。

ここで、このとき、非暴力直接行動の運動は、オルバニーで大敗北を喫していたことを思い出してください。マルコムXの登場は、そのような歴史的文脈で起きたのです。

次回は、NOIの歴史とその特異な教義を、NOI結成時(1930年代)に遡って解説していきます。

【注】
”The Hate that Hate Produced" :ヒップホップアーティスト Watts 1965Watts 1965 - V.O.W.S. - The Hate That Hate ProducedやSSistah Souljahの曲はこの番組のタイトルから直接インスピレーションを得たものです。[本文に戻る]

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。