4-1 サム・クック:その生い立ち、南部、ゴスペル、ブルーズ 

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20011216日脱稿

この節をアップロードするまでに、こちらの勝手な都合でずいぶんと長い時間を空けてしまいました。そこで、前回までの話を整理しておくと、アメリカン・バンドスタンドといった全米ネットで放送される青年向け音楽番組の人気は、皮肉なことにその音楽の淵源をブラック・カルチャーにもちながら、黒人が実際にメディアにのる機会を閉ざす方向に働いてしまった。白人の文化的ヘゲモニーが動揺し始めていることには間違いがなく、その動揺によってつくりだされた音楽の政治的空間に、黒い声が響き始めるのです。それは2つの方向からやってきました。ひとつは、「ポール・アンカ」の仮面をかぶること。もうひとつは、黒人ではなく女性として売り出すこと。前者の具体例にサム・クックというソウル/ゴスペル界の巨人の名前があげられます。後者には一般的に「ガール・グループ」と言われたグループたちがあげられます。

この章が取り上げるのはサム・クックという人物。私見では彼がもし60年代を生きていたら、ブラック・ミュージック、わけてもリズム&ブルーズがどのようになったのか想像ができない、少なくとも60年代を代表する人物たち、モータウンのアーティスト、アレサ・フランクリン、オーティス・レディングなどは、ただでさえ影響を強く受けたと公言しているのだから、それぞれが独自に活動しようとも、リズム&ブルーズ総体のなかで強烈なコラボレーション=協動を行ったのではないか、と思っています。例えば、黒人がコンサート・ツアーの日程からレコーディング、そして広報宣伝活動までを握るという行為の成功、これはモータウンが初ではなく、すでに短い期間ですが、サム・クックがパイオニアだったのです。したがって彼の影響は、(1)音楽スタイル、(2)黒人音楽を商品として売買する音楽産業のなかでその黒人当人が占める場、にきわめて明確な痕跡をとどめることになりました。

サム・クックと、これが要諦ではありますが、今回はそのさわりの部分として、サム・クックがブレークするまでの前説を行います。しかしこの前説を書こうと調べ始めるや否や、わたしはとんでものない事実にいきなり直面しました。

彼の生まれは1931年。ちょうどマーヴィン・ゲイやオーティス・レディング、フォー・トップスやテンプテーションズのオリジナル・メンバーたちより、日本風にいってひと周り上になります。つまり彼らにとってサム・クックとは、憧憬の対象となるアイドルであり、幼心からついつい真似してしまう人物だったことになります。[1]左のハンサムな男ーーhandsome という形容詞はこのような人物を形容するのにまさにピッタリーーの写真に、幼いアレサ・フランクリンは恋いこがれたのです。

ところで、なぜか不思議に、ある文化的事象がある〈場〉を共通の起源に持っていることがあります。たとえばブルーズの里、クラークスデールの位置60年代のカウンターカルチャーにとってのサンフランシスコ、もっと近しい例で言えば1990年代の日本の沖縄のように。この時代までのブラック・ミュージックを考えるのに、そうすると、ある場所がクローズアップされてきます。それはミシシッピ州クラークスデール(Clarksdale)。この町の名前を聞いて、ピンときた方、あなたも濃いです。何が濃いかは敢えていいません。

右の地図を見てください。赤い円のあるところがクラークスデールです。ご覧のように、西にはリトル・ロック、そして北にはメンフィスというこれまでもこのエッセイで取り上げた街が近くにあります。メンフィスには、エルヴィス・プレスリーが居住することになり、50年代の文化のひとつの中心地になりますが、それ以前、エンターテイメントの世界で一旗揚げようと発起したものたちは、青い線=ミシシッピ川を北にあがり、シカゴに向かいました。そのシカゴを中心に一大音楽ムーヴメントを形成したのがデルタ・ブルーズです。サン・ハウス、マディ・ウォーターズ、そしてロバート・ジョンストンといった人物は、すべてクラークスデール生まれなのです。シカゴのサウスサイドと呼ばれる地区には、1910年代後半以後に南部を後にしたクラークスデール出身者の家庭が多く、今でも「クラークスデール・クラブ」という互助会があります。

この時代になると、リズム&ブルーズという形で黒人の音楽がアメリカの音楽のメインストリームを出入りする傍ら、それまで真にアメリカ発の音楽とされたジャズの全般的人気は長期的下降線を辿っていました。戦後直後に誕生したビバップ以後のジャズは、ポピュラー音楽というよりは「芸術」とみなされるようになりました。[2]

一方、ジャズがブレークしてから後も、その前も、ずっと黒人のあいだで人気を持っていた音楽形態があります。ゴスペルという教会音楽がそうです。しかしながら、ジャズの愛好者とゴスペルの愛好者は、公の場では、決して同じ人物ではありえませんでした。なぜならジャズは世俗世界の堕落を象徴し、ゴスペルは聖なる世界の美を象徴すると考えられていたからです。かつてはジャズが象徴した世俗世界は、この頃にはブルーズになっていました。そのブルーズの名手の名産地こそクラークスデールで、サム・クックは、その地の牧師の8男でした。

クックの経歴は、まずは育ちが環境より強い影響を与え、ゴスペルの世界で築かれました。1940年代にハイウェイQCsというゴスペル・コーラス・グループのリードシンガーとしてデビューを果たすと、彼独特の節回しーーよく「ヨーデル」とも言われますーーは熱心なファン層を抱えることになりました。ところでこのゴスペル・グループたちは、戦後になると、バス1台のなかにバンドのメンバーとクルーが全員乗り込み、全米中を巡業して回っていました。よくスウィングバンドのバンドリーダーを主人公としたハリウッド映画ーー例えば『ベニー・グッドマン物語』ーーにこのようなバスツアーのシーンが出てきますが、戦後はスウィングの人気が失せ、それを今度はゴスペル・グループが行っていたのです。これはひとつのサブカルチャーを形成するのに至ります。スウィングはラジオの人気と手を携えて流行しましたが、ゴスペルの場合は、これとは異なった展開になります。ラジオやテレビなどに出演することなしに、全米を回っていたため、全米中に拡がるファン層が生まれることになったのです。バス巡業ツアーは俗から聖への変化と遂げていたのです。[3]

しかしいちばん重要な違いはこれにはありません。スウィングは、黒人と白人の双方がプレイし、ダンスする音楽でした。ところがゴスペル・バス・ツアーの世界は黒人だけが棲まう黒人のための世界だったのです。クックは、1950年に、幾多のゴスペル・グループのなかでも最大級の人気を誇っていたグループ、ソウル・スターラーズのリードシンガーになり、彼の人気はこれで「ゴスペルの世界では」絶頂期に入ります。今回のバックに流れている音楽は、サム・クックがソウル・スターラーズで残した名演中の名演と呼び声高い曲、ゴスペルの "Touch the Hem of His Garment"Soul Stirrers - Traveling On… - History Part VI - Touch the Hem of His Garmentです。色っぽくハスキーで、ハスキーでかつしなやかに伸び艶のある声をお聴き下さい。

ところが、ところが、クックは、ブルーズが名産の地に生まれ育った人物でした。彼は、そこで、黒人だけのゴスペルの世界から、一歩一歩足を出していくことになります。周囲に注意をしながら。そして、これが重要なことですが、自分のイメージは他人に押しつけられることなく、自分自身の力を淵源にしながら。(そして、解説はずっと後の節になりますが、この自己創造の方法には、ある有名な人物が影響を与えたのです。それは誰か?。楽しみに想像してください)。

次節では、そのクックの第一歩をみてみます。それはよく「ソウルの創造」と呼ばれる方向に向かっての第一歩でもありました。


[1] もっとも彼の音楽スタイルの影響は後代のブラック・アーティストにとどまりません。彼のスタイルをそのまま真似ているものの代表は、イギリス人のロッド・スチュアートです [本文にもどる
[2] この事情はのちにモータウン・レコーズが創業される際にも影響を与えることになります。[本文にもどる
[3] のちにモータウン・レコーズが行うモータウン・レヴューというバス巡業ツアーは、これが変態したものです。[本文にもどる]

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