「ブラック・パワーの分節化−−クワメ・トゥーレ(ストークリー・カーマイケル)の史的位置」
中四国アメリカ学会年次大会(於:広島大学)

以下の文面は、口頭発表を念頭にし、筆記したものです。したがって句読点が書字としては不自然なところに打ってありますが、どうかご寛恕のほどお願いします

 

I.先行研究概観

私は、これまで第1次世界大戦以後の黒人の運動の研究を行って参りました。今回の報告のテーマは1960年代公民権運動の最終局面のものなのですが、実は、60年代の運動が私の学部卒業論文のテーマであり、その後も60年代を取り上げたいとは思いつつも、それが実現できませんでした。

さて今回はいよいよその60年代に取り組むわけですが、報告タイトルで使用致しましたクワメ・トゥーレという名前について少し説明させて頂きます。お手許レジュメ4頁のストークリー・カーマイケルの略史に記しておりますとおり、彼はアメリカでの公民権運動が分裂し頓挫するのと同時に、ギニア独立運動の指導者で初代大統領、さらには汎アフリカニストであるセク・トゥーレから招聘され、ギニアに移住します。当時のギニアには、CIAが使嗾した軍事クーデタで政権を追われた、ガーナの初代大統領、クワメ・ンクルマが亡命しておりました。カーマイケルは彼らの強い影響を受け、アフリカの地でクワメ・トゥーレと改名し、それ以後、アフリカン・アメリカンであろうとも、アフロ・カリビアンであろうとも、みなをアフリカンと呼ぶ汎アフリカニストになります。

報告のタイトルは、カーマイケルの生涯の最後の局面で為された彼の決断に敬意を払うものでありますが、今回の報告のなかでは、歴史研究として、60年代に知られていた彼の名、ストークリー・カーマイケルを使うことに致します。

なお、50年代60年代公民権運動を担った団体は主に5つありますが、以下、報告では団体の略称を使用致します。そこで団体それぞれの特質はお手許ハンドアウトの8頁に簡明さを優先し、いささか思い切った説明・形容を行っておりますので、適宜こちらをご参照ください。

ストークリー・カーマイケルは、〈ブラック・パワー〉という戦闘的なスローガンを最初に使った人物として、60年代後半には極めて著名な人物でありました。ところが、SNCCに関する研究書は毎年のように刊行されている一方で、そのSNCCの後期の指導者カーマイケルに関するモノグラフは、1973年にJournal of Politicsに掲載された一遍の論文を例外としまして、存在しておりません。

これには次のような事情が影響しているように思われます。テレビのニュースやトークショーでの映像、さらにはFBIによる適法性ギリギリの諜報活動の史料を加えますと、彼に関する史料は膨大なものに達するのにもかかわらず、彼の発言は、一見しましたところでは、日々日々調子や方向性を変え、指導者として一貫性のある態度をとっていたとは考え難いというところにあると思われます。ここから出てくる結論としましては、良くてエニグマティックな活動家、悪くて無責任な指導者ということにしかなりません。お手許ハンドアウト4頁の史料【I-1は、カーマイケル本人が、その当時の混乱を回顧し物語っているものであります。

しかしながら、私見では、カーマイケルの行動や発言にはある一つの一貫した性格が存在するように思われます。それは、運動の本部で指揮をとる指導者ではなく、もっとも人種差別の厳しい深南部の農村地区で、オーガナイザーとして活動していたという運動内部での彼の役割と密接な関係にあります。彼の言辞は「政治的」な発言というよりもむしろ、日々の人種差別・抑圧を受けていた人びとの怒りを代弁していた、と考えられるわけです。

それがもっとも顕著に現れているのが、ほかでもない、彼の幾多の演説のなかでももっとも有名なもの、〈ブラック・パワー〉宣言のなかに見られ、否、聞かれます。お手許ハンドアウト【I-2 は、カーマイケルと60年から行動をともにしていたクリーヴランド・セラーズというSNCC後期の幹部の回顧録からの抜粋です。セラーズは、”whipping”“whupping”と表記し、強い否定の意味をなす二重否定を使っています。映像資料で確認しましたところ、確かにこのときのカーマイケルはこのような表現を使っています。ところが、同じく映像資料で彼の発話を聞いてみますと、南部の農民と話しているのではない場合、文法的逸脱はなく、そして独特のアクセントがあるどちらかというとイギリス語に近い発音で語ります。イギリス語の使用は、彼がトリニダッド出身であるということから、家庭での使用言語として理解できるのですが、そのような彼が一歩南部農村に足を入れるや否や、彼は、アメリカ南部の農民が親しみを持てるように、意図的に農民の言葉で語っているのです。

〈ブラック・パワー〉宣言は、ミシシッピ州グリーンズボロの小学校の敷地内でデモ隊がキャンプをしていたところを警察から襲撃され、その直後になされたものです。ここでの彼の発言は、公民権法が通過して2年を閲しても、未だ白人優越主義者のテロ支配のもとで生活を強いられている一般の南部黒人の「怒り」を正直に語ったものだ、と考えることができます。その「怒り」に忠実であるからこそ、”whipping””whupping” になったのだ、と考えられるわけです。彼は【史料I-1】にて「時間がなかった」と語っているのですが、これはいかに彼が南部農村の黒人コミュニティに密着し忙しく行動していたのかを示すものであると考えられます。

しかしながら、「怒り」の忠実な表出は、論理的一貫性を欠く発言と表裏一体の関係にあります。他方、一般に〈ブラック・パワー〉ムーヴメントと総称されるものは、多様な政治社会的主張・方向性を包含するものであり、私見では、ムーヴメンツと複数形で表現されるべきものであると考えております。

ところで、SNCCは、〈ブラック・パワー〉宣言のあとの大きな反響・反発を受けて、6610月に、カーマイケルに公衆の場での発言を禁止する「処分」を下します。その間に彼は〈ブラック・パワー〉概念を改めて定義することに着手致しました。したがって、多様な〈ブラック・パワー〉ムーヴメンツの分節化の試みの第一歩としまして、カーマイケルの発言が極めて強い影響力を持ちかつある程度熟慮された発言がなされている66年後半から67年、お手許ハンドアウト3頁の略史年表で左に罫線を引いている時期に焦点を絞ることが研究上妥当であると思われ、その時代の彼の運動思想に接近してみることを以下本報告の目的とさせて頂きます。

II.1966年の社会政治的情況

そこで最初に1966年の社会政治的情況を、公民権運動史の視点から、簡単に整理してみたいと思います。

この年、主立った公民権団体は、南部から北部へ活動の中心地を移動させます。というのも、投票権法施行の直後に起きたロサンゼルスのワッツ地区での暴動が、公民権諸立法の限界を如実に示し、それに応じる形で、公民権団体は、憲法で保証されている権利の保護のみならず、北部都市に集中的に現れている貧困、失業、実質上の住宅・学校の隔離の問題に運動の焦点を移したのでした。

ちょうどこのようなとき、ミシシッピ大学に連邦軍から保護され黒人として初めて入学したジェイムス・メレディスが、公民権諸法がenforceされていることを確かめることを目的に、メンフィスからミシシッピ州ジャクソンまでのたった独りでの行進する、「恐怖に抗する行進」を開始しました。しかしながら、ちょうどミシシッピ州境を渡ったところで、メレディスは白人優越主義者から狙撃され、重傷を負うことになります。

この知らせを受け、5つの公民権諸団体が彼の意思を継いだ行進を行うという結論にいったんは達します。しかしながら、カーマイケルが、人命への危険性が高いミシシッピでの行進に際しては、自己防衛のため「武装警備部隊」の帯同が必要である、という意見を提示し、それに徹底的に拘泥する姿勢をとります。つまり、これまでの南部公民権運動の戦術であった非暴力直接行動への部分的変更を求めるわけです。しかしながらこの提案に激しく抵抗したのはキングではなく、NAACPとアーバン・リーグであり、両団体は公式に行進不参加を決定します。

ところで、カーマイケルがSNCCの議長に就任したのは、この行進の直前のことでした。しかし、このときのSNCCの「議決」は、同団体のこれまでの慣行から大きく逸脱するものでした。なぜならばSNCCの特質は、メンバーがごく少数の専従活動家であるということから、運動の方針は議決ではなく、コンセンサスが得られるまで議論を尽くすというものでした。

なお、SNCCの研究の第一人者であるクレイボーン・カーソンは、65年の時点でのSNCCの活動家の数を約200名と見積もっています。しかしながら彼がいかなる論拠でこの数を出したのかは不明です。60年代の行動主義的公民権団体は、メンバーのリストを持ってはいませんでした。なぜならば、ひとつにはNAACPが反対したためであり、いまひとつはリストが白人優越主義者の手に渡るとなると、メンバーの生命が即座に危機に曝されるからであります。

そしてまた、ある団体のメンバーの数が、その団体の推進する運動の力を示していると見なすのも、社会運動の研究としては、実証的に妥当性を欠いています。と申し上げますのも、そもそも60年代の大衆を動員した諸運動の嚆矢となったのは、わずか4人の黒人学生が人種隔離されたランチカウンターに座り込んだからというものであり、ごく少数の人間が大衆運動の端緒を切り開くということは、むしろ、そのほかにもごく普通に起きていることです。

話を戻しまして、南部公民権運動には、ジム・クロウ体制の打破という誰もが同意する窮極の目的があり、世論の支持を喚起する方法として、非暴力直接行動が基本姿勢でもありました。しかし66年投票権法の制定が、ジム・クロウ体制の土台を破壊し、この事情を劇的に変化させ、運動の勝利が運動の危機を招くという状態が生まれたのであります。つまり活動家内部でさえ、もはや運動の戦術、目標に関するコンセンサスが存在しなくなり、カーマイケルは諸派に分裂していくSNCC内部にあって、もっとも急進的な翼を代表する人物となりました。〈ブラック・パワー〉の最初の声は、SNCC内部においては、このような文脈において為されたのでした。

そこでカーマイケルは、保守的なNAACPから運動の主導権を奪取し、公民権運動勢力の再編成を企図、この行進の再開にあたり、「武装警備部隊」の帯同に、敢えて拘泥したのであります。NAACPの行進不参加は、カーマイケルがまさに望んでいたものでした。

その事情を明確に述べているのが史料【II-1なのですが、キング、およびSCLCが非暴力を教条的に掲げ反対しようとしなかったことは着目するに値することです。事実、〈ブラック・パワー〉が至るところで叫び始められたとき、このスローガンの存在の意義をいったんは認め、暴力的含意を否定するという、冷静な反応をしめした黒人指導者はキングのみだったのです。

そのキングの団体SCLCも、66年には、北部都市の問題にシカゴで取り組むことになります。しかしながら、シカゴには、ゲトーの存在に既得権益をもっている黒人が少なくありませんでした。その筆頭にあげられるのが、最後のマシーン政治家として有名なリチャード・J・デイレー市長と近しい関係にある黒人政治家たちであり、キングは彼らの協力をまったく得ることができませんでした。その結果、運動が目標とした住宅の人種統合は、「人種統合にむけて努力する」という合意は得られたものの、その方法、そしてデッドラインに関してはまったく何の規定もないという協定を結び、シカゴ・サウスサイド、ウェストサイドの黒人たちの罵声のなか、キングはいわば撤退することになっていたのです。

事態ここに至り、行動主義的公民権団体と白人リベラルの関係は極めて悪化することになりました。ちなみにシカゴのデイレー市長は、68年の民主党大会でデモ隊を弾圧するまで、当初は民主党のリベラル派とみなされておりました。また、わけてもSNCCの場合、民主党リベラル派に対する不信感は頂点に達しました。これより2年前の1964年、SNCCは、黒人の予備選挙参加を排除しているミシシッピ民主党に対抗し、Mississippi Freedom Democratic PartyMFDPを結成、同年の民主党全国大会で正式な代議権を争うという運動を展開しました。この運動が、カーマイケルがSNCCの専従活動家として行った最初のものになります。

当初のところ、北部諸州の民主党はMFDPの代議権を支持する姿勢をとっていたのですが、南部白人票の離反を恐れたジョンソンは、州の代議権は従来通りミシシッピ民主党に、MFDPには特別に2議席を与えるという妥協案を提示し、民主党リベラル中のリベラル、ヒューバート・ハンフリーにMFDPを懐柔させれば副大統領候補に指名するという交換条件を突きつけました。これを受けてハンフリーは、全米統一自動車組合会長ウォルター・リューサーとともに、北部民主党の支持を崩した上で、MFDPに妥協案の受諾を迫りました。さらに、民主党党員資格審査委員会の委員長、ウォルター・モンデールは、ハンフリーの指示で意図的に議事進行を早め、かかる工作を目の当たりにしたMFDPは妥協案を拒否し、その代わりに党大会会場のミシシッピ州代議団の席で坐り込みを敢行することになったのです。

ここで重要なことは、MFDPならびにSNCCは、白人優越主義者が率いる南部民主党の暴力ではなく、ハンフリー、リューサー、モンデールといったリベラル派の代表者たちの政治的工作によって敗北を喫したというところにあります。彼ら彼女らにしてみれば、ナイーヴにリベラル派を信じたことが、間違いだったと感じられたのです。

このような白人リベラル派の路線の変更は、いわゆる「ホワイト・バックラッシュ」のなかのひとつと考えられます。黒人の運動の急進化が先か、それとも白人の保守化が先かということに関しましては、今後の研究の課題と致したいのですが、この現象がはっきりとした形で初めて現れたのは、住宅販売における人種差別を禁止した法律を廃止する1964年のカリフォルニア州提案14号の可決であり、このときに同州では4人に3人の白人が同提案を支持したとされています。そして、1966年になりますと、この動きははっきりと連邦議会にも達し、同年に上程された公民権法案は否決されるに至りました。これはトルーマン政権が公民権委員会を設置してから以後、連邦政治のレベルで公民権勢力が喫した初めての敗北であります。

III.Black Power :1967年の時点でのカーマイケル

さてこのような情況下で考えられたカーマイケルの言う〈ブラック・パワー〉とは何かをこれから検討致したいと思います。

史料【III-1】【III-2は、移民のアメリカ社会への同化過程を再検討し、その上でエスニシティによってアメリカ社会は未だ分かれ立っているという事態に改めて着目、ユーロ・アメリカンのエスニック・グループが獲得した政治社会的パワーと〈ブラック・パワー〉とを類比しているものであります。このような観点から考えますと、〈ブラック・パワー〉というスローガンは、ブラック・ナショナリズムの語彙ではなく、アメリカ社会での現実政治リアル・ポリティークを直視した末に発せられた言葉であると考えることが妥当であると思われます。

かかる主張はリベラル派に「依存」したことが、運動の「失敗」に帰結したということを反省したうえに為されたものであり、その意味においての「依存」を、独立しつつも相互の利益に基づいた政治連合へ転轍しようとする試みであると評価できるのではないでしょうか。

史料【III-3】【III-4はこの事情を物語っているとともに、この政治的独立が、社会的、経済的領域へ拡大されてきております。ここにおいて、きわめて奇妙なことに、ミリタントなスローガン〈ブラック・パワー〉は、ある面において、ブッカーT主義にも類似してきます。そう申し上げますのも、同時期のカーマイケルに特徴的に見られるのは、黒人に対する訴えかけであり、白人の批判ではないからであります。その黒人に対する訴えかけのなかには、通例〈ブラック・パワー〉と連想されること多い、自尊心を持とうという呼びかけとともに、黒人の経済的自助努力を推奨するというものも含まれております。

周囲の環境が敵対的になる、ワシントンの時代では人民党の変質・敗北とジム・クロウ体制の確立、カーマイケルの時代には「ホワイト・バックラッシュ」ということになりますが、それぞれ敵対的環境のなかで発せられた声であるという点でも共通点をもっております。

もとよりブッカー・T・ワシントンは、政治活動を戒めました。しかし、カーマイケルの時代より約40年前の1920年代、これまでのところ最大の黒人の大衆的運動を率いたマーカス・ガーヴィも、ブッカー・T・ワシントンを強く尊敬していた人物であり、この時代にブッカーT主義は政治的課題へとすでに接続されていたのであります。そして、トリニダッド出身のカーマイケルの父親は、ジャマイカ人ガーヴィの熱心な支持者でありました。

この点は、1968年に報告書を提出しました通称カーナー委員会報告にもはっきりと認められており、報告書のなかで黒人戦闘派の主張はブッカーT主義に近似しているということが、史料【III-5】に見られますとおり、明記されているのであります。

ここでまた考えなくてはならないのは、60年代中葉の時点では、特に北部都市において、連邦政府の政策が原因で、政治的領域と経済的領域の境界が極めて曖昧になっていたということであります。ジョンソン大統領が推進した福祉政策、いわゆる「貧困との戦争War on Poverty」には、これまでの福祉政策とは一線を画す特徴がありました。Community Action Programと呼ばれる施策では、福祉は単に受けるものではなく、貧困者自身が福祉政策の策定過程に参加していくものであるという参加民主主義の主張、maximum feasible participation of poorが政策目標であるとされ、その結果、組織化を早く進めれば進めるほど、有利になるという情況が生まれていたのであります。その実、一生涯を通じて人種統合の理念に忠実であった黒人の臨床心理学者ケネス・B・クラークも、ニューヨークのハーレムでCommunity Groupを結成したのですが、住宅がde factoの隔離状態にあるとはいえ、結果として結成された団体は黒人だけの組織でありました。

かかる視点から省みた場合、初期のカーマイケルに見られる〈ブラック・パワー〉の主張は、革命や分離した黒人国家の樹立ではなく、今日で言うところの「アイデンティティ・ポリティックス」の先端、もしくは端緒であったと規定する方がより正確であると言えるでしょう。

このような進展を受け、SNCCでは白人活動家を除名するという議決が可決されるに至ります。この議決をもって、一般的にSNCCはブラック・ナショナリズムを標榜する分離主義団体に変貌したと規定されています。しかし、黒人が別個の生活空間、場合によっては国家を形成するという分離主義をカーマイケルは、とっておりません。たとえば、ネイション・オヴ・イスラームの場合、黒人はすでに別個の国家の国民ネーションであるという理由で、アメリカ政治への参加を禁止していました。ところがカーマイケルの場合は、近い将来に対等な立場で連合が組むため、とりあえず既存のいわゆる公民権連合を解消するというものであります。したがって、カーマイケルの主張は、ブラック・ナショナリズムとはむしろ一線を画す、戦略的分離主義と形容するべきであるように思われます。

さて、SNCCの白人追放の決定に対し、白人活動家は、黙って従うことを選択しました。カーマイケルは、〈ブラック・パワー〉宣言後、黒人を支援したい白人は、黒人コミュニティにやってきて、そこのリーダーになろうなどとはせず、白人コミュニティに赴き、白人を組織化してほしい、と幾度となく述べていますが、SDSを初めとするこのとき成長過程にあった白人学生のニュー・レフト組織は、かねてから白人貧困層・労働者階級の組織化の必要性を感じていたこともあり、概して彼の主張に賛意を表明しておりました。

一方、この時点において、SNCCが、白人と黒人が手を取り合いデモ行進をしていた頃の団体とは異なるものに変化したのは確かであります。SNCCから公的場での発言を禁止されたカーマイケルは、〈ブラック・パワー〉の代弁者として日本を含む海外で講演を何度も行い、その途中でrevolutionという言葉が彼の演説のなかに初めて登場してくるようになります。

そして1967年には、カリフォルニア州オークランドのブラック・パンサー党の影の内閣の首相となります。しかしながら、カーマイケルが黒人だけの独立した組織の建設を推進していたのに対し、ブラック・パンサー党の場合、西海岸のニュー・レフトやカウンターカルチャーのいわゆるグルたちと密接な関係にあり、パンサー党とカーマイケルの関係はすぐさま悪化していきます。

これがSNCCとブラック・パンサー党の対立のそもそもの原因ですが、これより以前にCOINTELPROと呼ばれる黒人組織の弾圧作戦を開始していたFBIは、この対立を意図的に煽ることで、ラディカルな黒人組織の壊滅を目指します。カーマイケルがSNCCを追放処分になったのは、元SNCC議長というふれこみで行った講演の収入で、7万ドルのアパートを買ったという噂が原因だったのですが、今日公開されている史料から判明しましたことは、この噂を流したのはFBIのスパイでありました。このように組織内が寸断されていった結果、60年代の公民権運動の先頭を突っ走ったSNCCは、1972年にニューヨークで会合を開いたのを最後に、消滅することになったのでした。

このような情況下、カーマイケルの言辞はかえって過激になり、そして暴力的になっていきました。マスコミはそれを大々的に、そしてスキャンダラスに取り上げたのですが、その時点での彼には言辞を現実にする組織的基盤がなかったのです。そこで彼は、67年の海外諸国歴訪の際に親好を温めていたアフリカの独立国家に将来を見るようになり、アメリカを追い出されるようにギニアに移住したのち、汎アフリカニストとして人生の最後の局面に入っていったのでした。この最期は、どことなく黒人の抵抗運動の巨人、W・E・B・デュボイスを偲ばせるものでもあります。ちなみにデュボイスも晩年は白人リベラルに頼らない黒人だけの組織の結成を訴えておりました。そして、NAACPの創設者の一人でありながら、NAACPから除名されておりました。

ところで〈ブラック・パワー〉というスローガンが発せられた直後の模様を、白人ジャーナリストのフレッド・パウレッジは、このように語っています。”Within a few days entire white nation was talking about black power; many of those who talked about it did not have the slightest idea of what the slogan meant.”  つまり最初の時点からこの言葉には精緻な定義が必要だったのですが、結局、カーマイケルにはそれができませんでした。運動の新たな語彙を創造しつつ、残念ながらと申し上げればいいのでしょうか、その語彙の異常な人気に結局は振り回されてしまったのです。そのような彼は、60年代後半期を回顧し、史料【V-1のように述べています。

イギリスの政治思想家、エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフは、社会運動参加者のアイデンティティの形成に着目し、アントニオ・グラムシのヘゲモニー論を援用しながら、こう述べています。「地域共同体運動、エコロジー闘争、性的少数者運動などの政治的意味は、当初から与えられているわけではない。それは他の闘争や要求とのヘゲモニー的節合に、決定的に依存している。」ここにあげられた諸運動はいずれも60年代以後の先進諸国で起きた、改めて覚醒されたアイデンティティを基軸とする新たな社会運動であり、そのなかにアメリカでは間違いなく〈ブラック・パワー〉ムーヴメンツが入ることになります。〈ブラック・パワー〉は、1960年代中葉の時代の情況の映し絵であるとともに、情況を新たに解釈し直そうとする語彙でもあったのです。そのように考えていった場合、〈ブラック・パワー〉という語彙は、アメリカ政治のヘゲモニー的節合に強烈な影響を与えるとともに、その節合の綻び目を作り出したと言えると思われます。

以上にて、今回の報告を終わらせて頂きます。ご静聴どうもありがとうございました。

史料

0.カーマイケルの経歴

1941年 英領トリニダッドのポート・スペインで生まれる。父親は大工
1952年 ニューヨークに移住
1956年 Bronx High School of Scienceに進学。300名の入学生の内、黒人は彼を含めて2名。在学中にYoung Communists やFair Play for Cubaなどの活動に参加
1960年 ハワード大学に進学。Student Nonviolent Coordinating Committee (SNCC)のハワード大学支部、Nonviolent Action Groupを結成。
1961年 Congress of Racial Equality が開始したFreedom RideにSNCCのメンバーとして参加。ジャクソンで逮捕され、69日の禁固刑に服す
1964年 ハワード大学卒業(哲学)。SNCCの専従活動家になり、Mississippi Freedom Summer(600名から1000名の北部白人学生を動員した運動)、さらにはMississippi Freedom Democratic Party(MFDP) の選挙運動に参加。民主党大会では、ハンフリー妥協案拒否を支持。
1965年 SNCCのコンセンサスに従い、アラバマ州で黒人だけの第3政党、Lowndes County Freedom Organization (Black Panther Party)の組織化を開始。
1966年5月 SNCCの議長に就任
1966年6月 〈ブラック・パワー〉演説を行う
1966年10月 SNCCがカーマイケルに公衆の場での発言を慎むように勧告、カーマイケル本人は一応同意。
1966年12月 SNCCの臨時大会が開催。白人の活動家の追放が議決によって決定される(賛成19票、反対18票、棄権24票)
1966年1月、プエルトリコを訪問。その後、キューバ、イギリス、北ベトナムを歴訪。イギリスで行った発言が問題となり、英国政府は英連邦諸国への入国を禁止する。
1967年2月、カリフォルニアで結成されていたBlack Panther Party for Self Defense (BPP)にPrime Minister として参加
1967年5月、SNCC議長を辞任←BPPとSNCCの対立が影響
1968年8月、SNCC、BPP双方から追放される
1969年、Seku Tour獅ゥら招聘され、ギニアに移住
1996年、Nation of Islam 主催のモA Day of Atonnement メに参加
1998年11月18日、ギニアで死去。死去の第一報をアメリカで受けたのは、ジェシー・ジャクソン
1999年5月、ハワード大学から名誉博士号を授与される

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【I-1】1970年に一時帰国した際、モアハウス大学で行った演説から

If you're talking twenty-four hours a day to rallies, to television, to the press, you don't have time to read the newspapers, let alone read your history. You can't be revolutionary off the top of your head. . . Therefore, at the invitation of the president of Guinea, Mr. Ahmed Sekou Toure I went to study under the man I consider the most brilliant in the world today -- Osagyefo, Dr. Kwame Nkurumah.

Stokely Carmichael's Speech delivered at Morehous College, Atlanta, GA. April 1970, Stokely Carmichael, Stokely Speaks: Black Power Back to Pan-Africanism (New York: Vintage, 1971), pp.185-186.

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【I-2】〈ブラック・パワー〉宣言

[T]his is the twenty-seventh time I have been arrested - and I ain't going to jail no more! The only way we gonna stop them white men from whuppin' [sic] us is to take over. We been saying freedom for six years and we ain't got nothin'. What we gonna saying now is Black Power!

Cleveland Sellers with Robert Terrel, The River of No Return: The Autobiography of a Black Militant and the Life and Death of SNCC (Jackson, Miss.: University Press of Mississippi, 1973), p.224.

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【II-1】1979年に実施されたオーラル・ヒストリー・インタビューより

He [Martin Luther King, Jr.] had the strongest personality. King could take a middle position among the organizations and appear to be the real arbitrator. We wanted to pull him to the left. We knew if we got rid of [Whitney] Young [the executive director of the National Urban League] and [Roy] Wilkins [executive director of the NAACP], the march is ours.

ed., Milton Viorst, Fire in the Streets: America in the 1960s (New York: Simon and Schuster, 1979), p.372.

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【III-1】カーマイケルによる〈ブラック・パワー〉の定義(1)

The concept of Black Power rests on a fundamental premise: Before a group can enter the open society, it must first close ranks. . . . . Studies in voting behavior specifically, and political behavior generally, have made it clear that politically the American pot has not melted. Italians vote for Rubino over O'Brien; Irish for Murphy over Goldberg, etc.. This phenomenon may seem distasteful to some, but it has been and remains today a central fact of the American political system. [italics, in original]

Stokely Carmichael and Charles V. Hamilton, Black Power: The Politics of Liberation (New York: Vintage, 1967), pp.44-45.

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【III-2】カーマイケルによる〈ブラック・パワー〉の定義(2)

No other group would submit to being led by others. Italians do not run the Anti-Defamation League of B'nai B'rith. Irish do not char Christopher Columbus Societies. Yet when black people call for black-run and all-black organizations, they are immediately classed in a category with the Ku Klux Klan. This is interesting and ironic, but by no means surprising: the society does not expect black people to be able to take care of their business, and there are many who prefer it precisely that way.

Camichael and Hamilton, Black Power, p.49.

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【III-3】カーマイケルによる〈ブラック・パワー〉の定義(3)

It is absolutely imperative that black people strive to form an independent base of political power first. When they can control their own communities -- however large or small -- then other groups will make overtures to them based on a wise calculation of self-interest. The blacks will have the mobilized ability to grant or withhold from coalition. Black people must set about to build those new forms of politics.

Camichael and Hamilton, Black Power, p.96.

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【III-4】カーマイケルによる〈ブラック・パワー〉の定義(4)

I just think that for six years, black people in this country have demonstrated, and that they demonstrated from a point of weakness, that they marched and they are the ones that got their head beaten, got shot, with white allies, and what they are saying to the community was, "Look, you guys are supposed to be nice guys, and we are only going to do what we are supposed to -- why you going to beat us up? Why don't you straighten yourselves out?" Six years late we are at the same point. I think you can't speak from a point of weakness anymore. What you do is organize yourself and you go see a man and you say, "Look, baby, I got five thousand votes. We need a street pave. Either you get it or we get a boy for our votes." You know, that's it.

Stokely Carmichael, "Black Power: The Widening Dialogue," New South (Summer 1966). p.67.

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【III-5】カーナー委員会報告

The Black Power advocates of today consciously feel that they are the most militant group in the Negro protest movement. Yet they have retreated from a direct confrontation with American society on the issue of integration and, by preaching separatism. Much of the economic program, as well as their interest in Negro history, self-help, racial solidarity and separation, is reminiscent of Booker T. Washington. The rhetoric is different, but the ideas are remarkably similar.

National Advisory Commission on Civil Disorders, Report of the National Advisory Commission on Civil Disorders (New York: Bantam, 1968), pp.11-12.

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【V-1】カーマイケルの回顧

SNCC worked for Black Power, and Black Power killed SNCC. . . . But we couldn't control what was happening in America . . . .By the time Black Power came, it was clear to a lot of us what revolution actually calls for. Watts had already rebelled. As you moved around, you saw what the black masses felt about Watts. They were happy. But we had a problem: while most of us were from the North, most of our worked was in the South. We never looked at the North for organizational bases. We saw them only as support groups, Friends of SNCC. But it was in the urban areas that the real repercussions of Black Power movement could be felt. These areas needed sure, heavy organizing, and that's where we were weakest. . . . As the chairman of SNCC, I tried to educate the masses, to add fuel for the urban rebellion, to encourage a new way of thinking. But there was no organization capable of meeting the challenge. In the year after the Black Power march, it became clear that SNCC had run its course.

ed., Viorst, Fire in the Streets, pp.376-377.

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公民権運動の中心になった組織

非行動主義団体

・全米黒人向上協会National Association for the Advancement of Colored People (NAACP)

法廷闘争、ロビー活動が中心。執行委員長はRoy Wilkins。60年代に活動した団体のなかでは、唯一会費を徴収する会員制団体。活動資金はその会費から。
・ナショナル・アーバン・リーグNational Urban League (NUL)
職業斡旋や経済問題のリサーチなどを主に行う団体。執行委員長はWhitney Young。活動資金は企業や財団からの寄付。

行動主義団体

・南部キリスト教指導者会議Southern Christian Leadership Conference(SCLC)

マーティン・ルーサー・キングを中心に南部の牧師を糾合した団体。当初は会員制をとるが、そのことでNAACPと対立し、その後はキングのカリスマ性によって集められた寄付が財源。会員制をとらなかったが故に、「会員数」は不明。北部には基盤なし。
・学生非暴力調整委員会Student Nonviolent Coordinating Committee(SNCCスニック)
1960年のシット・インの直後に結成された南部学生の団体。運動資金は当初は財団からの寄付に依存。〈ブラック・パワー〉宣言後、寄付が激減。SCLCと同じく、NAACPが反対したため、会員制にはなれず、したがって正確な「会員数」は不明

・人種平等会議Congress of Racial Equality(CORE)

1942年にアメリカ社会党と社会党系労働組合の支援を得てシカゴで結成された団体。60年代の時点で運動資金は労組などからの寄付から調達。1960年以後、SNCCの活動の刺戟を受けて南部で活動を展開するが、主な基盤は北部。ほかの団体と同じくNAACPの反対により会員制をとれず、「会員数」は不明。

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Bibliography

【一次史料】

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【二次文献】

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拙稿「シカゴ・フリーダム・ムーヴメント」『歴史学研究』758号(2002年1月):16-32頁。