Free, Al-Amin, Free!?

2000年4月
藤永康政

1.「60年代の黒人過激派逮捕」

1960年4月、ノース・カロライナ州グリーンズボロで黒人学生の4名が人種隔離されていたランチカウンターの白人専用席に坐り込んだ。この運動はすぐさま南部各地に飛び火し、同月中旬には南部だけで5万人が参加する大規模な黒人学生の自発的運動に成長していった。この学生たちの運動を一時だけの興奮に終わらぬようにと考えた黒人女性活動家のエラ・ベイカーは、同州の州都ラリーにある黒人大学、ショー大学で坐り込みに参加したもの、さらには将来運動に参加するのあるものを集めた集会を開いた。その集会の中から学生非暴力調整委員会(The Student Nonviolent Coordinating Committee, SNCCと略し"Snick"と発音する)が結成される。同団体は1965年の投票権法制定までは南部を拠点とした非暴力直接行動に従事し、その後1966年のロサンゼルス、ワッツ地区の大暴動が発生すると、運動の焦点を北部都市に移動、その過程で黒人のその後の運動にとてつもない影響を与えたスローガン、「ブラック・パワー」を唱えた。つねに公民権諸団体のもっともラディカルな声を代弁していたSNCCはよく「公民権運動の突撃隊」と呼ばれる。

しかしながら60年代中葉から黒人の運動は深刻な分裂状態に陥っていった。その理由には、(1)公民権法ならびに投票権法制定後の運動の明確な目標の欠如、(2)「ブラック・パワー」のスローガンをめぐる公民権諸団体の意見の食い違いが原因であった。この分裂状況をさらに悪化させたのが、連邦捜査局(FBI)による反政府団体の弾圧作戦、COINTELPROである。

COINTELPROによる弾圧の結果、SNCCは結局破壊されることになった。SNCCは「ブラック・パワー」の路線を明確にする一方、第3世界との連帯を訴えた。第3世界、その中には当時アメリカと壮絶な戦争を繰り広げていた北ベトナム、および南ベトナム解放戦線が含まれる。1971年5月10日、SNCCにスパイを送り込み、厳しい監視の下においていたFBIは、その報告書のなかで「過去一年間、SNCCはいかなる破壊活動にも従事していない」と判断する。しかしこれはSNCCが「反体制団体ではなくなった」とFBIが認めたのではなく、「もはや運動を組織する能力はない」と判断したことを意味していた。

1960年に誕生し、1971年に消え去る。この点においてSNCC60年代プロパーな運動を表象するものである。概して歴史家は「ブラック・パワー」以前のSNCCに好意的な評価をし、「ブラック・パワー」以後のそれに対しては曖昧な、または否定的な評価を下している。

そのSNCC2000416日、結成の場所ショー大学で結成40年を記念し、SNCCの正と負の遺産を再評価、今後の黒人の運動の進むべき方向を語り合う非公式のセッションを開催すると発表した。しかしそのセッションには、アトランタで起きた事件が強い影を落としていた。

2000316日、アトランタ市警の警官2名(両方とも黒人)が、交通違反で逮捕された際に裁判所に出頭しなかったことと、警官偽装を行ったことという罪状をあげた逮捕状を持ち、その逮捕状の宛先人となっている人物、ジャミル・アブドゥラ・アル=アミン宅へ向かった。アル=アミンは、SNCC最後の議長H・ラップ・ブラウンと同一人物である。彼は1972年に懲役刑を言い渡され、獄中でスンナ派イスラームに改宗し、改名していた。ところが、この警官2名は、警察発表によると、アル=アミンの「闇討ち」にあい、アル=アミンは警官2名に弾丸を撃ち込み逃走したという。その後警官1名は病院で死亡し、アル=アミンは「第1級殺人の容疑者」として指名手配された。その4日後、彼はアラバマ州ラウンズ郡で発見され、アラバマ州警察によって身柄を拘束された。先週末にアラバマ州司法省とジョージア州司法省との間で合意がなされ、彼はアトランタに移送、現在裁判の開始を待っている。

この事件はいま係争中のものであり、それゆえごくわずかな情報から党派的パースペクティブで判断することは危険なことであろう。SNCCは私の研究の主たる対象であり、このような私は同組織にたいして少なからず「愛着」を感じている。しかしどうも事件の顛末ならびにメジャーなメディアの報道のありかたに疑問を持たざるを得ない。この論考は、2000年4月の時点でできる限り多くの情報を集め、そこから単純に私が疑問に思う点を整理しようという試みである。CNNがインターネットサイト上で流した同事件最初のセンセーショナルな一報、「60年代の黒人過激派、警官を殺し逃亡中」という言葉にはどうしても強い抵抗を覚えざるを得ないのだ。

 

2.SNCC、29年の沈黙を破り「声明」を発表

私の疑問の大部分はショー大学に集まった元SNCC活動家たちが語ってくれている。ここに29年ぶりに発表されたSNCCの声明を翻訳掲載する。

我われは我われの前議長であり同志であったジャミル・アブドゥラ・アル=アミン導師__我われにはH・ラップ・ブラウンとして馴染みがある人物__のアトランタ警察警官殺害および傷害の嫌疑での逮捕に深い悲しみを感じている。

当局の発表によると、彼らはアル=アミンに「比較的軽い罪状」の逮捕命令を執行するつもりだったらしい。しかし我われは、アトランタ警察はなぜかくも軽い罪状の逮捕状を夜の10時に、しかも防弾チョッキで武装した警官2名をアル=アミンの居住地に派遣したのか疑問に思う。さらに、アル=アミンの居場所と行動ははっきりしているのにも関わらず、どうして16名もの賞金稼ぎを「操作」に参加させたのか我われにはわからない。

そしてまた明らかに矛盾している警察発表とメディアの早急で無批判的なアル=アミン断罪の報道に対し懸念を持っている。たとえば、銃撃戦の直後の発表をみると、アトランタ警察は同事件の経緯に関する全く異なった説明を時を経れば内容も変え、矢継ぎ早に発表している。これらの説明で唯一一貫していたことと言えば、警察を襲撃したものは深い傷を負い、現場に「血の痕跡」を残していたということであった。しかし4日後にアル=アミン導師がアラバマで逮捕されると、彼の体に傷のあとなどどこにもなかったではないか!

我われをもっとも当惑させていることは、報道された犯人の描写と我われが知っているこの男の性格とがまったく食い違っている点である。ここ20年の間、我われのブラザー、アル=アミンは熱心に宗教を学び、周囲の人間の精神的リーダーとして献身的に活動していた公徳心の篤いコミュニティ・リーダーだった。全米的にいっても、彼は1985年にアメリカ=イスラーム関係会議から「ムスリム社会の指導者の一人」と評され、高い尊敬を得ていた人物である。

彼が彼の同胞にたいする正義のために身を捧げ、彼を慕う人びとのモラル的向上のために一生懸命で働き、正義感が強く暖かい人物であったということを我われは知っている。それだからこそ、今回の彼に関する報道は我われが深く尊敬している男の性格とはまったく異なっているのだ。

60年代、彼は黒人の抗議運動の武装自衛権を行使することを支持したために当局からつけ回された。さらに5年前にも、警察はアトランタのある住民にプレッシャーをかけ、銃撃事件の犯人として彼に冤罪を着せようとしたではないか。これは、この証人となった住民が後に自分の証言は警察から強要されたものだと語っていることからも明白である。このときFBIのエージェント、そしてFBIの国内テロリズム取り締まり部隊、さらにはまた酒たばこ銃器監察委員会の面々をアトランタに結集した捜査をしたあげく、何の証拠も得られずに、告訴を取り下げているではないか。通常は地方官憲の日常警察業務に属すことなのに、かくも大規模な連邦機関を動員したことにたいし納得のいく説明がなされたことなどない。

このような過去の経緯、警察発表がつじつまがあっていないこと、そして我われが知っている彼の人格を考慮し、3月16日の事件に関し完全で徹底した捜査がなされるまでは判断を慎むことを我われは要求する。

2000年4月16日
ノース・カロライナ州ラリーにて

ここで私が知り得た範囲でこの声明に付言しておく。このSNCCの大会の参加者は初期の活動家が大半であり、後にラップ・ブラウンの指導下にラディカル化したSNCCのメンバーたちとは若干世代が異なっている。つまりラップ・ブラウンを盲目的に慕うものたちにみによる一方的な断定なのではない。

そしてアトランタ市警の「犯人は2名の警官が発した弾丸を受け、深い傷を負っている」という発表を私も見た。ところが右の写真をみてほしい。アル=アミンのどこに「深い傷」があるのか。

またこれ以前にも「アル=アミン訴追未遂事件」があったこと。このときアル=アミンは地元のテレビ局WXIA-TVとのインタビューでこう語っている。「当局の連中はきっと次を考えている、彼らが私を狙っていることはあきらかだ」。

さらに声明では「居場所と行動ははっきりしている」と言われているが、全くその通りだ。ここで一般通念を打破するために指摘しておきたいことがある。アル=アミンが住んでいた地区はアトランタ市のウェスト・エンド地区と呼ばれるところであり、ここは「黒人ゲトー」でも「スラム」でもなく、黒人中流・上流階級の住宅地なのだ。

さらに謎なのがアル=アミンが逮捕された場所だ。アラバマ州ラウンズ郡は「ブラック・パンサー党」の発祥の地である。メジャーな報道機関の中には、アル=アミンを「元ブラック・パンサー党幹部」と報道したところがあるが、これはアル=アミン、もしくはラップ・ブラウンのキャリアの報道としてはかなり偏向している。たしかにSNCCとブラック・パンサー党は一時期「合併」したことがあり、そのときラップ・ブラウンはブラック・パンサー党の国防省長官に就任した。しかしマルクス=レーニン主義を標榜するブラック・パンサー党とブラック・ナショナリズムの先頭にたっていたSNCCとのイデオロギー的懸隔は大きく、この「合併」はわずか4か月で解消されている。そしてこれは多くの歴史家ですら混乱していることであるし、それゆえにCNNは「(ブラック・パンサー党の)ヒューイ・ニュートンらが活動したラウンズ郡」という大きな誤報をしでかしているのも仕方ないが、SNCCが結成したラウンズ郡のブラック・パンサー党と通例多くの人が知っているカリフォルニア州オークランドを拠点としたブラック・パンサー党とはまったく別組織であり、ラウンズ郡ブラック・パンサー党とオークランドのブラック・パンサー党の結党に直接的関係はない。両者が接近したのは、SNCCが孤立化し、オークランドのブラック・パンサー党の勢力が擡頭した後である。ラップ・ブラウンは、したがって、ブラック・パンサー党の幹部として大見出しで語られるような人物ではない。彼はあくまでも元SNCC議長なのだ。

だからこそ、主要なメディアすべてが「ブラック・パンサー党」の名前を喚起したことには極めて偏向したセンセーショナリズムが存在しているように思われてならない。SNCCの全経歴に正と負の遺産があるならば、ブラック・パンサー党のそれはさらに激しい。無料朝食サービスなどコミュニティ活動を積極的に押し進める一方で、同党は、〈人種差別〉を行っているという悪宣伝を行うということを武器に恐喝まがいのことをしたもも事実だ。さらに同党の創設者ヒューイ・ニュートンは晩年ドラッグ取引に関係するようになり、その取引のもつれから殺害されている事実も厳として残っている。つまり「ブラック・パンサー党」の名前を喚起することは、この事件に関与している人物を「過激派」として告発しやすくなるのである。

3.権力の色

『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』紙の中では、元ブラック・パンサー党幹部でオークランド市議会議員を務めたこともあるイレーン・ブラウンの言葉を紹介してる。彼女は、今回のアル=アミン逮捕事件で1967年に起きたブラック・パンサー党党首ヒューイ・ニュートンに着せられた冤罪事件を思い出したらしい。このとき、ヒューイ・ニュートンは黒人抵抗の全世界的シンボルとなり、Free Huey!の声はアメリカのみならず、アフリカ、北京、ロンドンでもこだました。しかし今回、Free Al-Aminという叫びは上がっていない。上に紹介したSNCCの「声明」のみが疑問を提起しているだけで、ブラック・パンサー党の幹部であったBobby Sealeのサイトもアル=アミンの事件に関しては今のところ沈黙したままだ。なぜか。なぜアル=アミンへの支持の声が高くあがらないのか?

おそらく現在のブラック・アメリカを考える場合にもっとも正鵠を射た発言をしているのはアトランタ在住のコラムニスト、ジョン・ヘッドの言葉であろう。彼によれば、60年代ヒューイ・ニュートンを告発したものたちの肌の色は「真っ白」だった。しかし今回、アル=アミンと銃撃戦を行ったとされている警官2名が黒人なららば、アトランタ警察権力の最高責任者も黒人である。つまり今回のアル=アミン事件は、60年代のような「白と黒」の対決としては映らないのだ。(ちなみにアル=アミン逮捕に向かった2人の黒人警官は、アル=アミンがかつてのラップ・ブラウンであるとは知らされていなかったらしい。)

上に述べたように、アル=アミンが継続的になんらかの「嫌がらせ」を受けていたことは確からしい。しかしアル=アミンが当局の「陰謀説」を説いたところで、当局の色はもはや白一色ではない。現下のアメリカで肌の色に依拠した言明、ならびに運動は必ず失敗する。1960年代とは大きく環境が異なるのだ。対立の構図が不明瞭ななかでは、"Free Al-Amin"と叫ぶにも最後には?がついてしまう。

しかしアル=アミンの逮捕、訴追に関しては、疑問を持つ点が多くある。そしてCNNが誤報したブラック・パンサー党の存在も歴史家を悩ませ続けている。私は1968年のシカゴでおきたブラック・パンサー党党員殺害事件を少し追ってみたがすぐに断念した。当時シカゴに居住している人びともブラック・パンサー党に関してはどうしてか語ってくれない。何か大きな感情的・政治的壁がそこには存在してる。この事件の顛末をこれからも筆者は追いかけてみるし、それはこのサイトにて時をみてはまとめて紹介する。それと同時にブラック・パンサー党の表象、記憶の壁、これにを乗り越えなければ60年代の黒人の闘争の軌跡は明らかにされ得ない。「ブラック・パンサー党」をネガティブな象徴として喚起されることがまかり通っている世界で、これは極めて難しい問題を我われ研究家に提示しているだろう。だがそれを越えなければならないのだ。

いずれにせよ、「60年代の黒人過激派」なるものを勝手に捏造する報道には注意されたし。SNCCの声明が述べているように、すべての判断に疑問符をつけることを望む。ブラック・アメリカで何かが起きている。

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